雨の夜 ①
窓が全部割れるんじゃないかというくらいの轟音で、全然覚悟なんてしていなかった。
だからそのときになって初めて、さっきチカッと光ったのがこの音の前フリで、多目的室の窓のずっと向こうに雷が落ちたんだと気が付いた。
「うおー! なんだ今の!」
「やべーっすね。うわうわうわ。見えるよアレ。あそこの雲から雨降ってる、すげー」
早速教室の後ろの方に座っていた不良組が窓の方にへばりついて観察と実況を始めるから、絽奈もそっちの方をじっと見た。言うとおりだ。グラウンドのずっとずっと向こう、背の高い木々の向こうの空に墨で描いたようなドス黒い雲があって、ここからでも目に見えるくらい凄まじい量の雨がそこから溢れ出している。降っている、とかそんな生易しい表現じゃ物足りない。落ちている。空から水が。
「大丈夫? 絽奈」
後ろから声がするから、振り向くことにする。
何が、と思っていた。別に頭から雷が降ってきたわけでもあるまいし怖いことなんて何もない。声をかけてきたのはもちろん最近の夏季講習中はずっと左隣の固定席に座っている湊だけれど、こうなると心配性とか世話焼きを通り越して自分を見縊っているんじゃないかと思う。ここは一つガツンと言ってやらねばなるまい――
自分の手が、しっかり湊の服の裾を掴まえていることに気が付いた。
「……だ、大丈夫ですけど……」
忸怩たる思いで指を離した。いや違うこれは仕方ないのだ。大きな音がしたら誰だってびっくりする。これは当然のことなのだ。熱々のフライパンを直で触って「うわあ!」ってならなければそのまま手が燃えてしまうわけで、びっくりして反射的に動くのはむしろ生きていくうえで非常に重要な反応と言えるわけで、もはやさっきの手は自分の生きる意志の証とすら言っていい。何にも恥ずかしくない。ふん、とそっぽを向く。
「でもあれ、私らの家の方じゃない?」
右隣の晶が、さらりと言った。
え、と絽奈は流石に身を乗り出した。
怒られるかな、とチラッと思ったけれど、さっきまで黒板の前で主に一年生を対象とした理路整然たる英語文法の講義をしていた宇垣も、今はチョークを片手に外を見ている。大丈夫そう、と思うから晶の肩に手を置いてさらに身を乗り出す。ついでにちょっと肩を揉む。この年でこんなに凝っていたら大変だろうと思うけれど、あんまり他人事でもない。
今日は朝から涼しいな、とは思っていた。
思い返してみれば雨の日なんか全然なかった気がする。このあたりの中学生は雨の日はカッパを着て自転車に乗るけれど、そういえば夏合宿が始まってから一度もそんなものを着たことない。そもそも自分がそれを持っているのかもわからない。朝から涼しくはあったけれど、いつもの綺麗で無慈悲な青い夏の空が広がっていたから、そんなものが必要になるなんて夢にも思っていなかった。
じっ、と目を凝らす。
南の方は海の方だから、確かに自分たちの家の方だろう、と思う。
「えー、どうしようね」
とうとう湊が席を立った。
晶も何気なく立ち上がったから、絽奈もそれに続く。そうなるといよいよ全員が全員移動式テーブルの上に広げた文房具を投げ出して窓際に寄ることになる。海の方では怪獣の巣みたいな黒々とした雲がずんずん広がっていて、その内側で何かが戦っているみたいに雷がピカピカ洩れ出している。こっち来るのかな、と誰かが囁く。全然予報なかったね。爺ちゃん大丈夫かな、とも聞こえてくる。どうする絽奈、お家に連絡して迎えに来てもらう? お前は私の保育士さんか、とお腹のあたりにパンチをくれてやる。意外に硬い。
ぴりり、と着信音がする。
いい加減にもうみんな覚えたから、一斉に同じ方を見る。流石に険しい顔をしている。電話を取る。ワンコール以内。
はい、宇垣。
大変そうですね、と隣で呟いた子を、絽奈は覚えている。山田さん。二年生。な、とさらにその隣で頷いた子はちょっとすぐには出てこないけど大体わかる。二年生の男の子。たぶん洪くんとかと仲が良い。
ぴ、と電話を切る音がした。
花野、式谷、と宇垣が呼ぶ。
「すまんが、すぐに出ることになった。しばらく任せていいか」
「お任せくださーい」
「はい。呼び出しですか?」
ああ、まあ、と宇垣は頷く。
「災害時要援護者のいる家庭の避難誘導に出てくる。人手が足りんらしい」
「了解です。気を付けて行ってきてくださいね、先生」
「ありがとう」
宇垣が湊の言葉にちょっと笑う。
笑うんだこの人、とちょっと失礼なことを絽奈は思う。続けて晶が訊く。
「ちなみにそれ、学校で受け入れとかありますか。ありそうならどっかの教室今のうちに空けておきますけど」
「いや、向こうは公民館があるからそっちでの受け入れになる。もしかしたら生徒が駆け込んでくるかもしれんから、そのときだけ対応してくれればいい。私も夜は戻って来られないかもしれんから――」
「あ、チャット来た。佐々山先生が家ボロすぎて怖いから、近所のお爺ちゃんお婆ちゃんのとこ周って大丈夫そうならこっち来るそうです。名教師のチームプレー! こっちは安心だなあ」
「…………式谷」
「はい」
「……連絡先を交換してるのか」
「はい。――あ、『しまったヤバい』『今の宇垣先生に伝えるのなし』『連絡元を決してバラすな』『いいかい』『なんかいい感じに処理しておくんだよ』だそうです」
いい感じに処理しといてください、と式谷が笑う。
政治家かよ、と相田が言う。
はーっ、と溜息を吐いて、宇垣はこめかみを押さえて首を横に振る。
「……この件については、後で話し合おう」
「はーい」
全く、という顔をしてから宇垣は動き出した。
手に持っていたチョークを黒板の下に置く。教卓の上に広げていた教科書と参考書を中型犬でも詰め込むのかというくらいでっかいバッグにさっさと詰めて、多目的室から出ていく。いつ見ても、と絽奈は思う。宇垣先生は歩くのが速い。よほど忙しない日々を送っているのだろうと思う。
「はい。さっさとやることやっちゃおう」
そして、自分の友達も結構忙しない。
パンパン、と晶が手を叩いてみんなの注意を引いた。時計を見ているから、釣られてみんなそっちを見る。時刻は午後五時。普段だったらまだ明るい時間だけれど、雲がこっちに広がり出して、急に暗くなってきた。
「とりあえず多目的室の片付けはいいから、給食当番は調理室。停電するかもしれないからその前にご飯作っちゃって。で、残りは施錠と防災キットの確認と――あと何?」
「断水に備えて今のうちにプールから水汲んできちゃおっか。雨が止んだらいつでも汲みに行けることには行けるけど、トイレとか余裕あった方がいいでしょ。で、飲料水もどっかに溜めときたいかな。熱中症が怖いから」
「ん。あとは余裕あれば窓にテープ貼って補強しとく? 寝てるときに割れたら大惨事だし。あ、もう調理室組は移動しちゃっていいよ。サボりにも声かけて連れてっちゃって」
「補強するなら段ボールも持ってきて……もう今日は男子階も女子階も二部屋ずつ使っちゃおうか。窓際で寝る子がそもそも危ないし、廊下側に固めちゃおうよ。あと一応ここも補強しておかない? 何かあったときのために」
「……ここで労力と電気代ケチっても馬鹿らしいか。んじゃそんな感じでやっとく。調理室の方よろしく」
りょーかい、と湊が言う。じゃあ暇人はこっち、と晶は手を上げて、早速動き始める。
「それで絽奈、どうする?」
湊に言われて、ちょっと考えた。
窓から見える二々ヶ浜の方の景色は、だいぶ降りしきっている。風も――「どれどれ」と瀬尾くんが窓を開けてびゅおおごおおと吹き込んで「ぐあああ!」と鈴木くんが吹っ飛ばされたポーズを取って晶ちゃんに冷たい目で見られているとおり――かなりすごい。まさかあそこに自転車で突っ込もうなんて考えられるほど自分の逞しさに自信はない。かと言ってお母さんもあの天気の中で運転できるほど車が得意とは言えないと思う。お父さんはなおさら。
だから、
「……ちょっと様子見る。止んだら迎えに来てもらうかも。止まなかったら、」
「おい、世界一可愛い女もしかして女子部屋来日か!?」
後ろから肩を掴まれた。
わ、と振り向く。絶対紬ちゃんだ、と思ったらそのとおりだった。
「うん。いつも行ってるけど……泊まって大丈夫?」
「いつでもウエルカム。ようこそ、私たちの麗しき花園へ……」
「はいはい。お前は今から花園の整備に行くんだよ。庭師になれ」
晶が紬の首根っこを掴んで引きずっていく。あー、と哀れっぽい声を上げて紬がこっちに手を振るから、小さく手を振り返す。
大丈夫らしいから、
「と、泊まろっかな……」
オッケー、と湊が笑う。
じゃあ給食当番の方手伝ってもらおうかな、と言うから、え、と絽奈は返す。湊が歩き出す。背中を追う。私全然料理できないしエプロン持ってないよ絶対足引っ張るよ。
湊が振り返る。
全然大丈夫だよ、と笑う。
□
「なあ、充電しといた方がよくねーか?」
男子部屋のテープ貼りを終えて多目的室に来たら、ちょうど花野がいた。だから薊原は、思っていたことをすぐに提案する。
「充電? 何の」
「端末。いざってときに充電切れだと怖えーだろ」
ああ、と花野は頷く。二年の女子が押さえている段ボールにテープを貼りながら、背中で、
「そうだね。んじゃ男子部屋は適当に薊原が順番振って充電させといて。桐峯ー!」
「はーい」
「今の聞いてた?」
「いえ全然」
「じゃあ薊原から適当に聞いてなんかいい感じに女子部屋の方やっといて」
おいおいなんだそりゃ、と薊原は思う。
が、女子部屋組は妙な連帯感が完成しつつあるのか、はい、と大して不服な様子もなく桐峯がこっちに来る。薊原先輩、何すればいいですか。もう一度薊原は同じ話をする。時間がもったいないから歩きながら。廊下に出る。
「あ、確かにそうですね」
「できそうか? 割り振りとか」
「はい。どうせそのうち自分でやらなくちゃいけなくなることですし」
やってみます、と桐峯は言って、三階に上っていく。一応その背に「何かあったら言えよ」と薊原は声をかける。はーい、と最初に比べればだいぶぞんざいになりつつある返事が聞こえてきて、つっても男子部屋にいたら来にくいだろうし花野のとこに行くか、と思い直す。
二階の廊下を行く。
少し冷える。昨日まで――どころか昼までの猛暑が何だったのかというくらいで、信じられないことに半袖だと少し肌寒い。
外を見る。
一気に暗雲立ち込める。まだ降り出してこそいないが、風は目に見えない生き物の唸り声のように響いていて、見下ろすロータリーの草木は今にも根こそぎ吹き飛んでしまいそうなくらいにしなっている。
男子部屋。
「あれ、薊原先輩。どこ行ってたんですか」
ちょうど入口近くで段ボールを切る洪がいたから、投げちまえと思った。
「花野のとこ。いざってときに端末の充電がなくなったら困らねーかって話したら、適当に順番振ってやっておけってよ。あと、これ廊下側も段ボール貼っといた方が良くねーか。なんかぶっ飛んできそーな気配あんぞ、これ」
「あ、ほんとですか? 外あんま見てなかった……」
洪が少しだけ廊下に出て、窓の外を確かめる。「うわほんとだ」と言う。段ボール足りるかな、とも言う。
「そもそもどっから取ってきたんだよ、これ」
「家庭科準備室から式谷先輩が。買い出しのときに貰ってきた箱、こういうときのために取っておいたらしいです」
家庭科準備室、と頭の中に記憶する。
名前からして一階だろうし、近くに行けばわかるだろう。
「んじゃそれ取ってきてやるよ」
「お、マジですか。助かります」
助かっとけ、と薊原は言う。こっちはやっておきますんで、と洪は言う。教室の奥側には相田とか角見とか、そのへんの顔が見える。こっちは大丈夫だろう。踵を返して、また廊下に。
忙しねえ日だな、と思いながら階段を下る。よく考えたら、と見て思った。階段途中の踊り場もガラスが割れたらかなり危ない。ここもできれば段ボールを貼りたいが、流石に望みすぎか。一階廊下を真っ直ぐ進む。昇降口の前を通り過ぎて、右手の部屋から一つだけ明かりが洩れ出しているから、暗くなった校舎の中でもすぐにそこだとわかる。
「ち、チカちゃん落ち着け! 肩から力抜いていいから!」
「わ、私やりますよ! 千賀上先輩!」
「いや、絽奈ならできるよ。信じよう」
「あ、当ったり前でしょ、このくらい……」
調理室。
ずどん、とものすごく不穏な音が響いて、真ん中あたりの調理台で千賀上が異様に真剣な表情で包丁を握って、ジャガイモを切っている。こいつらはいつ見ても人生が楽しそうだな、と思いつつ、流石にあそこに割り込んでアーティスト様の手に何かあったら何の責任も取れない。もうちょっと話の通じそうな奴を探す。
「お、三上」
「あ、先輩」
式谷一派をものすごく不安そうな目で見ていた一年。
いつも調理室にいるイメージがあったから、何となく無意識でその顔を探していたのかもしれない。入口から二番目に近い調理机の奥側の方。ほんとだ薊原先輩、とこっちを見たのは一年の向島。手伝いっすか、と生意気なことを言ったのは浅沼。別にこっちの二人に訊いてもいいけれど、折角目が合ったからちょっと歩いて行って、
「お前、段ボールどこにあるか知ってる? 準備室にあるらしーんだけど」
「わかりますよ」
行ってきちゃっていいですか、と三上が浅沼に伺いを立てる。おいよー、と言って浅沼がそれを許可する。じゃあこっちです、と三上がさらに奥に歩いていくから、薊原は追いかける。
調理室の奥にある、謎の扉の先だったらしい。
教卓の裏に三上が屈み込むと、ちゃり、と音がする。鍵。流石に訊かなきゃこのへんはわかんなかったなと思いながら、されるがままに案内される。開く。
真っ暗。
倉庫みたいな匂い。
ぱち、と電気が点けば、それでようやく中が見える。
棚がいくつも置いてあって、そこに皿やらボウルやらが入っているのが見える。絶対そんなに数要らねえだろと思わせる無数の秤も。調理器具だけじゃなくアイロンやアイロン台もいくつもあって、へえ、と薊原は思う。意外と色々あるもんだ。
そして端の方に、段ボールで出来た大きな箱がいくつかあって、その中に段ボールがいくつも入っている。
なんか哲学的だな、と思いながら小さくて手頃そうなのを何枚か引き抜いた。
「何に使うんですか?」
「廊下側の窓の補強。風強えーんだよ」
「ああ……。確かに、さっきから窓すごいですもんね。調理室も後でやっとかないと」
「まとめて降らねーで、もっとちまちま降れっつーんだよな。なんで雨降るたびに台風みたいになってんだよ」
確かに、と三上が笑う。
半分くらい持ちますよ、と手を出してくれる。ちょっと迷ってから、まあそうすっか、と薊原は手伝ってもらうことにした。段ボールは意外と嵩張るから、大して重さがなくても一人で持てる量に限界がある。
準備室を出る。
段ボールをどかどか持って出て来たから、周りの視線が少しだけ自分たちに集まるのがわかる。式谷のテーブルを横切るとき、一応声をかけておく。
「廊下側補強すんのにもうちょい持ってくわ」
「あ、うん。わかった。ちなみに後どのくらい段ボールあった?」
「ちょ、ちょっと何? 包丁を使えた私がピーラーくらい使えないわけないでしょ!」
「いや、もっとこう持ち方――式ちゃん!」
「千賀上先輩、意外と頑固……」
「一箱が三割減ったくらいか?」
「四割くらいじゃないですか?」
「おっけー。もし足りなかったらもっと持ってっちゃっていいよ。どうせまた貰ってくるし。絽奈、その場その場のことだけじゃなく、今から二秒後くらいのことを想像しながら使ってみるといいよ」
「……ピーラーを放り投げてふて寝してる」
「素早いね」
大暴れだなあいつ、と思いながら調理室を出る。三上がドアを潜り切ったのを確認してから足で閉める。暗い。廊下の窓の向こうはすっかり夜の灰色になって、そこをしとしと白っぽい雨が降り始めている。
「とりあえず男子階に持ってくぞ。女子階は……」
「多目的室から誰か呼んできて持っていってもらいましょうか」
「だな」
「にゃあ」
足元からいきなり声がしたから、うおっ、と段ボールを取り落としそうになった。
踏んだりしないようにすり足で壁に寄る。背中を壁に預ける。それでも見えないから、声に出す。
「ウミ。今、下側見えてねーんだよ。顔出せ」
「にゃー」
「あ、そっか。佐々山先生が来るからウミちゃん、猫のふりしてくれてるんだ」
ありがとー、と三上が笑う。その顔の角度から計算して、薊原は動く。ようやく見える。学校の廊下に黒猫が一匹。今日は朝から宇垣がいたから二人でプールの方に行ってみたり公民館の方に出てみたり、午後からは開き直って男子部屋に戻ってサボり連中とだらだら過ごしてみたりした。雨の対策でドタバタし始めてからはどこに行ったのかと思っていたけれど、校内をふらふら巡っていたらしい。
「そろそろマジで佐々山来るから、お前も部屋行くぞ」
「にゃあ」
言えば、素直についてくる。ててて、と走っていく。階段を上る。踊り場で止まる。薄い闇の中で立ち止まる。薊原は一瞬警戒する。
案の定、ジャンプしてこっちに飛び込んでくる。
「――ほっ」
「上手い!」
段ボールの上に乗せて、それをキャッチした。ご満悦らしく後ろ足で頭を掻く仕草。お前なあ、と薊原は呆れている。くすくすと三上は笑う。
「ウミちゃんと先輩って仲良し――わ、」
すると今度はウミは、三上の段ボールの上に飛び乗った。
重くないか、と訊くが、大丈夫です、と三上は答える。実際、こういうことをするときにウミの体重はほとんどなくなっていることが多い。『質量保存の法則』なんて言葉の切れっ端くらいは薊原も聞いたことがあるから、さっぱりどういう仕組みの生き物なのかはわからないけれど、まあたぶんどこかに質量をしまったり出したりしているんだろう。
階段を上る。
その途中で、「でも」と三上が言った。
「さっきのウミちゃん、なんだか七不思議みたいでしたね」
「……七不思議?」
そんなんあんのか、と薊原は訊く。
ないんですか、と三上は訊き返す。




