ひみつのプールサイド ⑧
たぶん自分が最初に行くべきなんだろうと思ったけれど、結局湊が帰ってくるまでは踏ん切りがつかなかった。
プールの中に入ったのなんて小学校四年生のときの着衣水泳の授業が最後で、しかもそのときも浮き方だけ覚えてすぐに保健室送りになってしまったわけだから。
「お、式ちゃん来た」
「湊おかえりー。うお、花野大先生もお疲れ……そうだ鈴木。今謝っとけば?」
「あの、今までほんとすんませんでした……」
「は? 何?」
夕暮れ時の学校のプールは、それでもまだ昼の熱の名残が残っていた。
靴下を脱いで裸足になれば、ぺちぺちと足裏で触れる床がまだ熱い。流石に触っていられないというほどじゃないけれど、高い塀に水平に差し掛かる夕陽とか、雲が焦げ付いたように赤く変わった真上の空とか、そういうのと合わせてみればフライパンの上にいるような気分にもなる。
他の誰からも見られることなんてない、秘密の場所。
そこに今は、学校にまだ通っていられる二々ヶ浜のほとんど全ての生徒が揃っている。
「ウミちゃん」
プールサイドの人込みの向こうに、ウミはいた。
金色の、とろみがついたようにすら見える水面に足を浸している。ちゃぷちゃぷと水面に波を立てている。ウミがこっちを振り向く。立ち並ぶ足の間でこっちと目が合って、ろな、みなと、と名を呼ぶ。
「ただいま。ウミちゃん」
式谷が言う。
それで、と続けて、
「僕は普通にプールの中に入ればいい感じ?」
ここに来るまでの間に、大体の説明は終えていたから。
ウミがプールに来て、ここなら喋れると自己申告したこと。どうもそれが『日本語で』という意味ではなさそうで、つまり、
水の中でなら。
ウミは自分の言葉で喋れると、そういう話なんじゃないかということ。
「知らねー。確かめてみろよ」
ウミの隣にいたのは、薊原だった。
ウミと同じように、水の中に足を浸している。一番最初にこの話を聞いて、みんなに意見を仰いできたのは彼だった。
「薊原はやらなかったの?」
「こういうのにはあんだろ。順番が」
「泳げないだけだったりして」
んなわけあるか、と薊原は言う。
それからチラッとこっちを見て、
「それ言うなら千賀上だろ。こいつ、顔を水につけんのもできなそうじゃねーか」
「な――!」
「失礼な。絽奈は泳ぐの超得意だよ。イルカより速いから」
「えっ」
ナメられるのも何だけれど、異常な過剰評価もよくわからなかった。
へえ、と近くで洪とかの二年男子が頷くのを絽奈は見た。ちょっと、と湊の背中にパンチする。嘘言わないで、みんな信じちゃうから。いや全然嘘じゃないよこれから頑張っていこう。人間がイルカより速く泳ぐとかできません。
時速何キロくらいなの、と湊が言った。
時速何キロくらいなんだろう、と絽奈は思った。
秒速三メートルくらいの速度で、ウミがプールに落っこちた。
「わ」
「え」
あまりにもさらっとした落ち方だったから、悲鳴も上がらなかった。
心霊現象みたいな調子だった。さっきまでそこに座っていたウミが、とぽん、とちょっとした波紋だけを残して水面の奥に消えて行った。しばらく見ている。上がってこない。水面から波紋が消える。それからようやく、ちょっとだけウミが頭を出す。
「みなとはくる?」
待ちきれなくなっちゃったんだろうか、と絽奈は思った。
午前中にそういう話が出て、でも湊が帰ってきてからねという方向でしばらく先送りにしていたから。そうなのかもしれない。ウミはウミで、自分の言葉で喋ることができる機会を楽しみにしていたのかもしれない。
「行くよー。でもどうすればいいの? 全身入った方がいい?」
「ぜんしん、なに?」
「全身はね……絽奈」
助けを求められたから、すぐに絽奈は説明する。全身は、身体の全部ってこと。ここ、頭だけ、胴だけ、足だけ、で、全身。ウミは頷いて、
「ぜんしん。あたまだけ。どっちも」
「どっちだろ」
「どっちでもいいってことじゃない?」
なるほど、と湊は頷く。それからちょっと考えて、
「じゃあ、頭だけでお願いしようかな。ウミちゃん、最初は頭だけでいい?」
「わかった」
「んだよシケてんな。豪快に全身で行けよ」
「だってシャワーとか浴びてないし。どうせみんな僕の後に続くつもりなんだろうし、それなら水、綺麗なままにしといた方がよくない?」
「ばーかどうせ変わんねーよこんな野ざらしのきったぁ――!?」
どばん、と薊原が勢いよくプールに落ちた。
ひゃあ、と今度こそ一部から悲鳴が上がって、けれど今度こそすぐに勢いよく水面から顔を出した。てめえ、と薊原は烈火の勢いでウミに掴みかかって、
「ウミ! どういう了見――」
「ぜんしん」
「…………あぁ?」
とんとん、と絽奈は湊の肩を叩く。どしたの、と言われるから口を近付けて耳元で囁く。こういうことじゃないの。ああ、と式谷は頷いて、
「さっきの薊原の『全身で行けよ』を『オレは全身で行くぜ』だと思ったんじゃないの」
「――おい」
「ちがった?」
「ちげーよ! わかんねーことがあったら一人で納得してねーでちゃんと訊け! 泳げない奴相手にやって溺れたらどうすんだ!」
わかった、とウミが頷く。
ったく、と濡れた髪を薊原は掻き上げて、
「もういいだろ、おい。好き勝手入れよこいつ順番関係ねーらしいし。どうせスズメだのカラスだのが水飲み場だの水浴び場だのに使ってんだから今更綺麗も汚ねえもねーだろ。おら、入りたい奴は入れ!」
「見ろよ鈴木。一人だけダイブしたのが恥ずかしくてアイツ急に音頭取り出しちゃったぜ」
「溢れるリーダーシップ。薊原一希クンをどうぞ皆さんよろしく」
ざぶん、と薊原が瀬尾と鈴木の方に泳ぎ出した。おいサメが来んぞ、と二人は笑うけれど、プールサイドから逃げ出しもしない。よっしゃ、と小松が早速勢い良く飛び込む。俺も、と次に続いたのは多分一年生だけれど、絽奈には名前がよくわからない。ピピー、と洪が口笛で上手くホイッスルみたいな音を出した。危険ですから飛び込まないでくださーい。言ってから自分も足からざぶん。意外とノリが良いタイプなんだ、と思う。わざわざプールサイドから飛び込み台の方に行ったのは岩崎で、シンクロ選手みたいに右手をピンと伸ばした後にほとんど飛沫も立たない華麗な飛び込みを披露して「よっ、イワトビペンギン!」とよくわからない囃し立てられ方をしている。
「やかましい奴らから飛び込みだしたな……」
「わ、」
晶ちゃん、と振り向く。いつの間にか近くに来ていた。何となくみんなプールの中に全身で入るような雰囲気を見せ始める中で、「変に飛び込んだら首折るぞ、調子乗んな!」と釘を刺してから、堂々と、
「私は今日着替えギリギリの日だからパス。頭だけで聞きたい奴とか、ちょっと怖いから様子見したいとかって奴はこっちに集まって」
変に無理して合わせなくていいから、と軽く手を上げて、こっちはこっちで音頭を取る。それはそれでそれなりの人数だった。泳げなくてとか、体調がとか、そういう声が聞こえてくる。何となく大勢が決まってくる。ジャージ姿のままで水の中にダイブした生徒たちはもうジャバジャバ水遊びを始めているし、頭だけ・見学組はどうやったら一番楽な体勢でプールサイドから頭だけつけられるかとか、落ちないように支えておこうかとか、なんかそれ殺人現場みたいな絵面じゃないとか、そんなことを話し始めている。
絽奈は。
湊の隣で、どっちにしようか迷っていた。
「……湊は?」
「頭――って」
言ったけど、と。
それだけ言って、すごく大人しいやり方でちゃぽん、と湊はプールの中に降りた。
おいなんだよ結局かよ、なんて薊原が言う。花野がちらっと湊を見る。結局でーす、と湊は答えて、結構水深があるらしい。プールサイドの縁のあたりに掴まって、それでも肩の少し上が出るくらいで、
「絽奈が入りたいなら、一緒に入るよ」
「……もう入ってるみたいだけど?」
「濡れたら風邪引くかもとか、余計なことを考えさせないようにしてみました」
頭だけなら一緒に頭だけ、と笑う。
そんなことを言われたら、と絽奈は思う。
ずぶ濡れにしちゃった責任を取った方がいいのかな、とか。そんなことを考えるに決まっているのに。
「あ、足着く?」
「絽奈だと足着けたら水の中に顔埋まっちゃうかも。でも大丈夫だよ。縁とか僕に掴まってればいいし」
それに水に顔付けられるもんね、と笑う。
付けられる。はずだ。小学四年生のときは試しにやってみて「なんだこんなもんか」って思ったんだから。あの頃より退化してなければ。退化してないはず。
湊が両手を広げて待っている。
「――やっ」
「わ、」
飛び込んだ。
しゅわっ、と爪先から二の腕まで一気に冷たさが上ってくる。長袖のジャージの裾に空気が溜まって、花みたいに膨らむ。そのおかげで沈み切らなかったらしい。湊に背中と肩の辺りを持たれている。ぽんぽん、と膨らんだジャージの裾から空気を抜いてもらう。それで初めて体勢が整う。全然足は着かない。湊の肩に両手をかけて、背中は壁に預けながら、絽奈は思う。
なんだ、
「――楽勝」
勇ましい、と湊は笑った。
「花野さん、そっち大丈夫?」
「どうにかなる」
「他、全身入りたい子いるー?」
呼びかけに沈黙が三秒、大丈夫でーす、と元気に叫んだのは小松に続いて飛び込んだ一年生だった。
そうしたら、準備が整ったわけだから、
「ウミちゃん」
湊が呼ぶ。
薊原の平泳ぎを真似していたウミちゃんが止まる。
振り向く。
「ウミちゃんはしゃべる。だいじょうぶ?」
あ、と思ったから、絽奈はそこで口を挟んだ。
「ウミちゃん、その前にいい?」
「いい」
「私たち、水の中では息できないから。……んーとね。これ、」
腕を広げて吸う。閉じて吐く。
「息。これが、水の中だとできない」
「できない。ろなはなに?」
「私だけじゃなくて……あ、違うね。息ができないと苦しくなるし、場合によっては死んじゃう。でも、短い間なら大丈夫。たとえば、一、二、三、四、五……がダメでも、一、二、で終われば大丈夫。大体三十秒くらい?は大丈夫かな」
ウミは考える素振りをする。
「みじかい、は、ろなはみずをだいじょうぶ。みなとも。合ってる?」
「合ってる!」
「ウミちゃんはなに?」
自分はどうすればいい、という意味なのだと思う。
だから提案をした。数字は時計から理解できているみたいだし、そうでなくても音を覚えてくれればそれで足りるはずだから、
「カウントダウンしよ。五、四、三、二、一、〇、でみんな水に潜るから、そうしたらウミちゃんも喋って」
「ご、よん、さん、に、いち、ぜろ」
「そう。そうしたら私たちは水に顔を付ける。ウミちゃんは喋る」
「みじかいはいい?」
「どっちでもいいよ。苦しくなったら、みんな自分で判断して水から上がる――潜るの逆をするから」
わかった、とウミは言ってから、
「ご」
よっぽど待ち切れなかったらしい。すぐにカウントを始めた。
プールの端の方に寄っていた生徒たちがヤバヤバ、と慌てて少しでも近くにと泳いでくる。白く波が立つ。ウミのカウントは正確で、時計の針が刻むみたいに綺麗に響く。
「よん、」
あっつ、とプールサイド側から声が聞こえてくる。振り向くと姿勢はまちまちで、特に腹ばいになった生徒が床の熱さを嘆いている。慌てて周りを見て真似をしている。他人事じゃない。自分も、
「さん、」
あれ。
どうやって、
「に、」
もうほとんど誰も顔を上げていなかった。みんな水の中に顔を付けている。大丈夫なんだっけ。今更不安になる。水に顔って付けられるんだっけ。付けられた気がする。息を止めるだけ。大丈夫。平気。できる。でも試しておけばよかった。ああもうなんでいっつもこうやって土壇場になって必要なことをボロボロボロボロ――
「いち」
「大丈夫だよ」
湊が笑っている。
だから、何でもできる気がした。
「――――っ」
ぜろ、の言葉を聞く前に潜った。
瞑っていた目を、すぐ開く。視界に泡。もっとプールの中は青かった気がするけれど、今は夕暮れの色に染まって記憶にあるよりずっと変わった色をしている。知らない間に夏の陽気に当てられて頭が火照っていたらしい。額が涼しくなって気持ち良い。目がちょっと変な感じ。目の前に広がる景色も、音の聞こえ方も、なんだか全然変な感じ。湊がこっちを見る。大丈夫だよ、と指で丸を作る。湊が笑う。ウミがプールの真ん中に潜ってくる。
ぶるり、と雨宿りする猫みたいに身体を震わせる。
それからあの日、海辺で初めて会ったときの姿に変わる。
たった一つの音から、それは始まった。
――きゅう。
可愛い声。それがずっと尾を引いて長く響く。
水の中で音が聞こえるのは不思議な体験だった。空気の中で聞くのとは全然違う。自分の声や手拍子の音だって上手く伝えることができないから、そもそも身体の延長として上手く想像ができないのかもしれない。目に見えない空気と違って、目に見える水を伝って音がやってくる。耳だけじゃなく、身体まで使って音を聞いていたんだとわかる。音は振動。そのことが理解できて、
二音目で、全てが変わる。
和音だった。
周波数の違う音が重なる。二つが相互に関連して、新しい波を作り出した。
それだけで、最初の音が全然違う意味を持つ。違う音に聞こえる。三つにも四つにも聞こえる。三つ目と四つ目が重なってるのかもしれない。気付かない内にウミが新しい音を出し始めていたのかもしれない。自分を取り囲む水の形が全く変わったように思える。全く見たことのない構造物に包まれているような心地がする。六、七、八、九、音の数が多すぎる。追い切れない。耳じゃない。肌じゃない。骨でもなければ血でもない。自分が存在する世界の全てのこと。誰も見たこともないはずの切れ込みからいつの間にか何かが剥がされて、全く違う裏面を見せたような。空だとか海だとか空気だとか分子だとか原子だとか人間が知覚できる限りのものがいきなりハッキリと姿を見せて、自分がいつも何かに包まれていることがきゅうにわかったような。巨大で入り組んで柔らかくて繊細で明快で誰もが知っていてまだ見たことのなかった城。きっと初めて世界に数字を持ち込んだ人はこんな気持ちになった。初めて海に出た人はこんな気持ちになった。星を見つけた人も、月を見た人も、太陽が何度も繰り返し昇っては沈むと気付いた生き物も。
どんな音楽よりも複雑で、どんな静寂よりも澄んでいる。
全然知らなかった、新しい言葉。
居ても立ってもいられなかった。
ぎゅう、と絽奈は湊の腕を強く握る。息があとどのくらい続くのかわからない。秒数なんて一秒目から数え忘れてしまった。もしかしたら、と思う。
ウミちゃんも、こんな気持ちだったんだろうか。
初めて海から浜に上がってきて自分たちと会ったとき。知らない言葉を聞いたとき。言葉を交わしたとき。ずっとずっと、こんな気持ちだったんだろうか。自分の知らないところに自分の知らない何かがあって、それを当たり前のように誰かが使っていて、それを大切なもののように誰かが扱っていて、全然何もかも違って、今まで自分が見てきたものをそっくりひっくり返されたような気持ちで、それなのにこんなにも、
こんなにも、
絽奈は、片方の手で自分の喉を触った。
音はどんどん重奏の響きに変わっていく。最後までは聴けないと思う。もっと先があるはずだと思う。でも息が続かないから。今決めるしかない。
喉をきゅっと締める。
高い音なら、水の中でも響くんじゃないかと思う。
不安だった。これだけ美しい音が奏でられている中に飛び込むのが。意味も何もわからない言葉の中に入り込むのが。絽奈はずっと自信があった。生まれてこの方ずっとずっとずっと自信があった。自分は言葉を使うのが上手いと思っていた。それなのに怖い。だから怖い。上手くできることの中で守られてきたから。守ってきたから。上手くできるはずのことを、上手くできないやり方でやるのが怖い。たぶん一生そうしなくたっていいのだ。上手くできることの中で自分を守り続ける。本当にそれができるなら、そんな一生だって悪くない。
でも、きっと。
ウミちゃんだって、そんな不安を抱えていたはずだと思うから。
――――あ――。
たったの一音だった。
喉をこれ以上ないくらいに締めて、苦しくて、それでたったの一音。きっと自分以外の誰にも聞こえないくらいの大きさ。あれだけ綺麗で完璧な音の中に乗せるには未熟すぎる旋律。でもきっと、この言葉に乗るならばこの音のはずだと、そう信じた。
湊が振り向く。
聞こえたんだ、と思う。
そうしたらその奥で、
ウミが、
「――うわあっ」
隣から聞こえてきたのは、きっと正確には「ごばっ」とかそんな感じの音だったのだと思う。でも、口の形とか、雰囲気とか、そういうのとか、あるいは自分の気持ちとの重ね合わせで絽奈にはわかった。湊は驚いている。間違いない。
だって、自分もそうだから。
ウミが、いきなり水の中で膨れ上がった。
「――ぷはっ」
流石にびっくりして、息が続かなくなった。すぐに上がる。別に水深何十メートルなんて場所まで潜っていたわけじゃない。ちょっとプールサイドに手をかければいつもの見慣れた地上の風景に戻ってくる。その手軽さと呆気なさが頭の中に不思議な感覚を起こす。夢を見ていたような感覚。それと、その逆。夢がいつまでも終わらないような感覚。夢の中で見た風景に、夢から覚めてもまだ簡単に手が届いてしまう、そんな奇妙さ。
水面から出ても、ウミちゃんがまだ見える。
明らかに、体積を増している。
「うお」
「何々何? どったのウミちゃん?」
「――ぶはっ! なんだオイ、何が――」
次々に生徒たちが水から上がってくる。なんだなんだ、と見慣れた地上からの角度で、中央の水の中にいるはずのウミに注目を集める。ちょっと離れて、と湊が合図する。ちょっとどころではない。ウミの不思議な影はプールの四分の一くらいを覆い始めて、
そこからある意味、すごく見慣れたものが出てくる。
最初は、尻尾か何かに見えた。
海の底から大きなクジラが姿を現したりする光景に似ている。翻る大きな尾びれのような。艶付いて日差しに光るようなつるりとした柱状の何か。もっ、もっ、と水面を押し上げるようにしてそれが空気の中に現れる。ぬぬぬぬぬ、とやっぱりクジラのように水中で身体を返しているのだろうか。タイヤのようにそれは回り続ける。
回って、
回り終わらない。
いよいよもって、何か予想しないことが起こり始めていることがわかる。一部はプールから慌てて上がっている。残りも流石に好奇心から近付くことはできずに、プールの縁のあたりまで下がって事の成り行きを見守っている。
絽奈は、
「う、ウミちゃん……?」
心配になったから、湊に掴まりながら、ちょっとだけプールの壁を蹴る。毎日自転車で学校まで通っているから、ちょっとだけ脚力が付いた。六十センチくらい近付く。
それが、最後の契機で。
ずもももも、とその尻尾がせり上がり始めた。
もうこうなると声も出なかった。誰もが絶句している。とんでもなく大きい。動物園に行ったことがある生徒は象よりでかいと思ったはずだし、行ったことがない生徒はこの世で一番でかいと思ったはずだ。尻尾がどんどん水面から出てくる。高く伸び上がる。止まらない。
一度も見たことはないけれど、すごく見慣れている。
首だ。
塔のように高く聳え立つ。最後の最後、身体のほんの一片が水から離れれば一気にその姿が全体像を取って瞳に届く。誰かが言った。塀から身体を出すな。一体どれだけ冷静ならそんなことが言えるんだろうと思うけれど、そんなことはお構いなしなのか言葉の意味がわからなかったのか、そのまま、
首が、上がって、
「――首長竜」
茫然と、絽奈は呟いた。
どこからどう見てもだった。図鑑で見たのと同じ姿。怪しいUFO特番とかで見かけるのと同じシルエット。宇宙みたいな色をした美しい首長竜が、こんな誰にも気にされない、滅びたってなくなったって鼻で笑われるだけのうら寂れた学校の一画に、こんなに堂々と聳え立っている。空まで届くんじゃないかと思う。空を通り越して、宇宙にまでちょっと頭が出てしまうんじゃないかと思う。
首長竜が、首を下げる。
明らかに、こっちに向かって。
怖くなかったといえば嘘になる。途中からぎゅうぎゅうしがみついている湊なんかにはバクバクしている心臓の音とか、緊張している筋肉の感じとか、そういうのまで全部伝わっているんじゃないかと思う。でも声は出たから、逃げようと思えば逃げられたと思う。湊に何か言えば、何があってもプールから出してくれたり、安全そうな場所まで連れていってくれたに決まってる。
だから、それでも動かずにいたのは自分の意思で。
首を伸ばしてきた竜が思いのほか優しく触れてきたことの喜びも、その意思のために得られたことなのだと思う。
「きゅう」
ウミちゃんだ、と思った。
何も変わりなんかない。いつものウミちゃんと同じ。あっちの方が身体が小さかったり、同じくらいだったり、そういう日があるように、今日は向こうの方が大きいだけ。いつものあの優しい、もっ、もっ、という感じで頭のあたりで触れてくる。
触れ返す。
もしかして、と思うから口にした。
「――『うれしい』?」
今度は、単に悲鳴を上げる暇がなかっただけだった。
ぱもっ、と何かにジャージの裾を掴まれた感触がした。それから肩と腰のあたりも支えられたような感触。絽奈、と湊が言う。たぶん一緒に掴まれて、
「う、わ――!」
空まで飛んで行ってしまうような一瞬だった。
昔々、まだ二々ヶ浜にIRが出来てもいなかった頃。それどころかまだ東京に住んでいた頃。絽奈は両親に連れられて遊園地に行ったことがある。人が多くて眩暈がしてその上ジェットコースターだのフリーフォールだのがことごとく苦手なことが発覚して怖いし暑いしふらふらだしもう散々で機嫌取りのためにその足で近所の綺麗な図書館に向かってもらったりして今にして思うとなんて面倒で素直じゃなくて可愛げのない子どもだろうお父さんとお母さんには申し訳ないことをしたなあなんて思うけれど今となってはまあそれも良い経験というやつでもしみんなでいつか遊園地に行けたりなんてことがあったら迷惑にならないようできる限り人の少なそうなファンシーなアトラクションのあたりで楽しんでいようとかそういうことを考えていたのだけど、
今は、それよりすごい。
ウミちゃんに咥えられて、空に浮いているわけだから。
みんなが自分を見上げている。言葉を失っている。普段あれだけ元気なみんなが黙っている。普段あれだけしっかりしているみんなが子どもみたいに口を開けている。晶ちゃんだって例外じゃない。なんだかおかしい。あんな顔を見るのはいつぶりだろう。ふと思う。晶ちゃんが、ということは。
湊も。
自分を必死で掴んだまま、珍しいくらい驚いた顔をしていたから。
「大丈夫だよ」
たまには自分が笑って安心させてやろうと、そう思った。
「ウミちゃん、『うれしい』は――」
「――あってる!」
遠い夏の夕暮れ。
寂れに寂れて、もうすぐなくなってしまいそうな中学校のプールに、首長竜がいる。
信じられないくらい素敵なことに。
その子は私たちの友達で、私たちはその子の友達だった。




