ひみつのプールサイド ⑦
二々ヶ浜中学のプールはただでさえ周りより標高の高い場所に建てられているが、そのうえ地球の外から衛星写真に映り込むんじゃないかという馬鹿高い塀までついている。上の方に付いている錆びまみれの有刺鉄線まで目に入ってしまえばもはやまるっきり刑務所で、実際、外からは全くプールの中の様子は見えない。たとえ学校の屋上に立ったとしても多分見えない。そういう風に配慮して設計されたらしいと、どこかで耳に挟んだことがある。
「おいこれ暑ィって、薊原先輩」
「……わかる」
「わかられても」
砂漠のど真ん中で照り付けられるような太陽の下を、靴下を丸めて突っ込んだ上履き片手に薊原は小松とウミを引き連れて歩いていた。アスファルトがとんでもない熱を放っていて、下手したら火傷するんじゃないかと思う。息をするたびに肺が干物みたいに乾いていく気がする。吹き付ける風が想像を絶するほど息苦しい。今年の夏は狂っている。こんな日に二人で自転車に乗って外に出かけた式谷と花野はあれだけ賢そうな雰囲気を醸しておいて本物の馬鹿なんじゃないかと思う。
校内のどこかで耐え忍ぶという戦略もあった。
が、何度かそれを経験して薊原は悟った。そんなのは無理だ。ここ数日の間に宇垣や佐々山が来るたびに避難を繰り返していたからわかった。こんなクソ暑いドドド真夏のド真ん中でクーラーの効いていない室内なんかにいようものなら、それだけでぶっ倒れる。実際、このあいだ宇垣が夏季講習に来たときは東棟の片隅の教室でずっと耐えようとしていたけれど、結局バイトから戻ってきた式谷に「死ぬよそれ」と流し台で頭から水をぶっかけられて公民館に送り出されることになった。あの後ウミがどうなったのかは知らない。宇垣と佐々山が宿直をやる日は普通にウミは千賀上の家に帰っていくからその日もそうしたのかもしれないと思うが、式谷が千賀上を昼間の太陽の下に連れ出す気もしない。
馬鹿高い塀の向こう側へと続く階段に、足をかける。
日陰と水の気配が、少しだけ体感温度を和らげてくれる。
「ウミちゃん、足元気ぃ付けてな」
「わかった」
プールへ上っていく階段はコンクリ造りで、上に足を乗っけるだけでその重たさがわかる。一年の頃はここに手すりはなかったけれど、地元の工務店だか生徒の家族だかの爺さんが好意で後付けしてくれたらしい。いかにも濡れた足を滑らせて転落事故が発生しそうな場所だから、多少の安心感が出る。一番上の階まで上がったら左に曲がる。鍵付きの監獄みたいな白い柵の扉を開けた先には、鍾乳洞みたいな暗さと水っぽさの入口通路がある。右手に更衣室が二つあって、今は――と思ってから、
「あれ、そっち?」
「足だけ洗っといた方がいいだろ。汚ねーし」
別に変わんないんじゃねえのプールってもっと汚えところまで浸かるんだし。
小松の言うことももっともな理屈ではあったが、気分の問題だ。男子更衣室の中に入る。湿度二万パーセントみたいなむわっとした空気。よくあのロッカーの木組が腐り落ちないものだと思う。ところどころが割れてビニールテープで補強された青いスノコの上を歩く。向かい側にも扉がある。アルミの軽いやつ。
開くと、シャワー室に続いている。
この構造はこんなしょうもない学校にしては本当に大したものだと思う。よほどプールの快適性にこだわりのあるやつが作ったのだろう。高い塀で中が見えないようにするとか、そういう配慮も含めて。
後から増設されたらしい仕切り板を避けながら、シャワーのロックを一つだけ外しておく。
それから元栓の方に近付いて、
「ここさ、……蛇口?」
「……ノズルか?」
「それ。固定されてんのだけ何とかしてほしいよなー。泡、なかなか落ちねーときあるし」
「あわ」
ぶくぶくーってやつ、と小松がウミに説明する。それじゃわかんねーんじゃねえか、と思いつつ、まあそんなのは向こうに行けばいくらでも説明できるだろうからと、
「一瞬だけ開けんぞ」
元栓を開ける。
シャーッ、とノズルから水が噴き出してくる。
言葉のとおり、一瞬だけだ。二人で足を差し出して水をかける。水道管の中で大層念入りに温められていたからだろうか、冷たいとか涼しいとかそんな感想も浮かばない。そうじゃなければ日が暮れてからここでガスも何もなしにシャワーなんて浴びられるわけがないから助かる事態ではあるのだけど。ウミも一拍遅れて真似をする。果たして意味があるのかはわからないが、それだけ見届けてキュッと元栓を閉める。一応シャワーのロックもかけ直しておく。後で使う奴に迷惑をかけないように。
プールサイドを歩いていく。
便所と用具室、それから一体何が突っ込まれてるんだか知らない部屋を横切って、プールサイドへ進む。
鍾乳洞から出た先は燦々と、いかにも爽やからしい水色の学校のプールがあった。
真っ白な光に目が眩む。足を洗ったせいでかえってプールサイドの土汚れを足裏が吸収している気がする。そこは気にしないようにしながら、縁の辺りに腰掛ける。
足を浸す。
心なし、ちょっと涼しくなった気がする。
「……なあ、薊原の兄貴」
「……おう」
「これさあ。足は冷たいけど頭カンカン照りだからプラマイゼロっつーか……」
むしろマイナスなんじゃねえの、という言葉の先を、皆まで言わずに小松が言う。
誤算だった。
てっきりあれだけ高い壁があるのだから、プールサイドも多少は日陰になるのではないかと思っていたのだ。プール授業なんか小学校以来一度も出ていないし、ここに来るのも夜ばかりだったから全く計算に入れていなかった。髪の毛が燃えるように熱い。頭の上で目玉焼きが焼けるんじゃないかと思う。ウミなんかは一応元は海洋生物なわけだしこの日差しで干からびるのでは――と心配になるが、じっと水面を見つめるばかりで大して堪えた様子もない。こいつのことは本当によくわからない。
じゃば、と足を上げた。
「あれ、やっぱ戻る?」
「用具室見る。なんか日除けになるもんあるかもしんねーだろ」
パラソルとか?と小松も立ち上がる。
こっちが動いたのに反応して、ウミも顔を上げる。
キィ、と入口の金属扉が開く音がした。
体温が、一気に二度くらい上がった気がした。
ばっ、と薊原は振り向く。小松もたぶん今の自分と同じような顔をしている。ウミはきょとんとしている。その手を取る。指で差す。用具室。
急げ!
プールサイドは走らない。特に足の裏が濡れているときは。それでもできる限り急ぎ足でシャワー室の方に戻っていく。鍵がかかっていたら詰みだと思ったが、幸いにも丸ノブは簡単に回った。音を立てないように開く。小松とウミを中に入れる。クソ暑い。窓がでかい。が、背に腹は代えられない。コースロープだの馬鹿でかいビート板だの放水用の巨大なホースだのがあるごちゃごちゃした空間の奥に入っていく。特にウミを優先して物陰に入れる。
恐るべき精度で宇垣が迫ってくる。
なんでだよ、という早さで用具室の扉が開いた。
「――お前ら、どうした。こんなところで」
「い、いやーハハハ……」
いくらなんでもはぐらかし方が下手すぎんだろ、と小松に思いながら、どうにかして薊原は宇垣に右側の顔だけを向けている。
爪を弄るフリをしながら、興味なさそうに。
左側の顔が、完全に治り切っていることを知られるとマズいから。
「何か用事か? 今日は暑いからできる限りクーラーの効いた部屋の中にいるようにしろ」
「そ、そうしたいんすけどねー」
ハハハ、と小松が笑う。
こいつは一生詐欺なんてやらない方がいい、と薊原は思う。こんなに隠しごとが下手な奴は初めて見た。あまりにも下手すぎるものだから、
「――何か、教室に居にくい理由でもあるのか?」
ほら見たことか。
うげっ、という顔を小松がしている。どう考えてもそんな顔をしたら宇垣は「どうやら図星を当ててしまったようだな」と思うに決まっている。ええいこいつは頼りにならない。ウミを見習えこんなわけのわかんねー状況でも大人しくでかいビート板の裏側でこそこそひっそり息を潜めてられんだから。そう思うから、
「いや、今日クソあちーしプールで泳ごうかなって思っただけッス」
「顔のケガはもう大丈夫なのか?」
墓穴掘った。
馬鹿野郎、という顔を小松がしている。馬鹿野郎、という顔を薊原は返す。そんな顔してたらなんか秘密があるって言ってるようなものだ。ほら見ろ宇垣が明らかに不審そうな顔をしている。こっちに近付いてきている。お前のせいだ。いや全然違う完全にオレのせいだ。どうかしたのか、と宇垣が声をかけてくる。まだ痛いのか、という雰囲気でウミがこっちを見ている。頼むからお前は出てくんなマジで収拾がつかなくなるいやよく考えたら宇垣がこっちまで来たら角度の関係上ウミの存在が絶対にバレるそうだ馬鹿だ猫の姿にでもなっといてもらえばよかったそれなら何とでも言い訳が効くのになんでこんなことにも頭が――
ピリリ、と着信音がした。
宇垣の動きが素早かった。ワンコールが鳴り終わらない内にポケットから端末を取り出す。はい宇垣。はい、はい。四中の生徒が。はい。応援ですね。わかりました。
すぐ向かいます。
ピ、と通話を切った。
「――すまん。急用ができた」
すぐに出なくちゃならん、と宇垣は言う。ういっす、と小松はあからさまにほっとした顔。馬鹿野郎が、と薊原は思うけれど、自分もどんな顔をしているかわかったもんじゃない。小松が言う。んじゃセンセー大丈夫っすよ皆には俺らから説明しとくんで。な、薊原。ああ。
「一つだけ、訊いておきたいんだが」
それでも宇垣は、最後まで粘ってきて、
「お前たちが今隠しているのは、お前たちにとってポジティブなことか? それともネガティブなことか?」
バレとる、と思った。
だからまずはそのことへの戦慄が来たのだけれど、小松はそうでもないらしい。素直にも宇垣の質問をそのまま考えていたらしい。ポジティブ、ネガティブ、えーっと、どっち? そんな顔をしてこっちを見てくる。
それが、かえって安心させたらしい。
いや、と宇垣は質問を撤回した。
「答えにくいならいい。が、困ったことがあったら何でも言え」
何度も言うようだが暑さには本当に気を付けろよ。そう言って宇垣は踵を返す。キィ、バタン。ちょっと間が開いて、遠くでまたキィ、という音。
はぁあああ、と息を吐いた。
「小松。お前顔に出すぎ」
「しょーがねーじゃん!? そんなこと言ったら薊原だってめっちゃ墓穴掘ってるし!」
「へーへー。悪かった悪かった」
「うわ何その態度。湊に言っちゃお」
「勝手に言ってろ。つか、かなり楽になったな。宇垣、外に出るらしいし。あの分じゃ今日はもう帰ってこねーだろ。もうちょいしたら教室戻ろーぜ」
「あ、うん。……あのさ、さっき俺の聞き間違いかもしれないんだけど、電話の向こうで『警察』とか『殺人未遂』とか言ってなかった?」
「IRの方の呼び出しだろ。あいつ結構向こうの方でも見んぞ。人足りてねーからって四中の奴らの世話もさせられてっし」
「――四中って、そんな治安悪い系?」
「あっちは校内に警察常駐してっかんな。まあ、こっちはこっちでIRに出た奴らはやらかしまくってけど……と、そうだ」
ウミ、と呼びかける。
さっき思い付いたこと。
「お前さ。これからなんかオレらがヤバそーな空気になったら猫になっといてくんね? それで大人しくしててくれりゃ、こっちでどうにかすっから」
頭良し、と小松が手を打って、
「でも『ヤバそーな空気』じゃウミちゃんわかんねーだろ。もうちょい噛み砕いて……」
「いや千賀上が言ってただろ。オレらが気ぃ遣って変な喋り方してた方がかえって混乱させるから普通に喋ってろって」
「いや『ヤバそーな空気』は俺も言われたら困るし。えー、なんて言えばいいんだろ。サインとか決めとく?」
小松が被ってもいない帽子のツバを触るような動きをする。
野球かよ、と突っ込んでおいてから、実際ウミに「ヤバそーな空気」は伝わるのかと反応を窺ったところで、
「――お?」
ふらふらと、ビート板の後ろからウミが歩き出した。
自分たちの前を横切っていく。ドアノブをじっと見つめた後、ガチャリと開ける。薊原は小松と顔を見合わせる。何? さあ。
続いて用具室から出ていくと、ウミはふらふらまだ歩いている。日向の方。真っ白な光の中で、水色のプールを前にぴたりと止まる。風が吹いて、少しだけ髪の先が揺れる。
ふと薊原は、ものすごく奇妙な感覚に襲われた。
自分がここにいないような気がする。目の前に広がる光景が全部嘘のような気がする。ときどきある。色んなものから急に切り離されたような気分。海の中に放り投げられたような、宇宙船から手を離してしまったような、全てのものが輪郭をなくしていて、全然わけのわからない映画を見せられて、今がまだエンドロールじゃないことに強烈な不安を覚える。そんな感覚。
とてつもなく不安になった。
「ウミ、」
だから、手を伸ばした。
手首のあたりを掴む。ひんやりとした感触。手を握ったって何も変わらなかった。むしろ自分は何を握っているんだろうと混乱が重なった。頭がぼうっとするような感覚の中で、だけど、
「ここ、」
ウミは振り向く。
朝にしてきたのと同じような仕草。人差し指を立てる。けれど今度は、それで差す先は自分の頬じゃない。
プール。
指差して、
「ウミちゃんは、しゃべるをできる」
□
変な生き物が出てきたとか、見知らぬ動物を見たとか、そんなのまでまとめて写真に撮った頃には、ひぐらしが鳴き出していた。
うっかり昼までご馳走になってしまった。館長が作ったらしい豚キムチの炒飯。夏だから塩取れ倒れちまうぞ、というのが館長の言で、その後ゼリーまでいただいてしまった。皿を片付けに館長がキッチンに消えていくと、大浜燈子は言った。気にしなくていいよ。若い子を構えるのが楽しくて仕方ないんだから。
満腹を押して、クーラーの効いた部屋で文献の調査をする。
こんなに贅沢な一日があっていいのかと思うが、何やかんやと言って疲労困憊だった。
「すっげ~……目が疲れた……。肩と腰も……」
「お疲れさまです、花野教授」
すっかり帰り道だけれど、まだ夕暮れと呼ぶには明るすぎる、そんな時間だった。
とにかく夏は昼が長い。いつまで経っても陽が沈まないし、だから気温も落ちない。寝苦しい夜になるのは間違いなくて、クーラーがなければとても健康なんて保てない。そんな季節。
二人で並びながら、自転車を漕いでいる。
また来いよ、と館長は言ってくれたけれど、夏の間はちょっと怪しいなと思う。なぜと言って、とにかくここまでの道中が暑すぎるし、
「――これ、別に成果なかったね。ごめん」
そういうことだったから。
全てが終わった後になると自分が何を望んでいたかがうっすらわかってくる。何か劇的な、それこそテレビでやってる馬鹿馬鹿しいオカルト番組に見るような決定的な文献が出てきて、急に事態が把握できるようになる。そういうことを期待していたらしい。んなわけなさすぎて自分がちょっと馬鹿に思えてくる。
が、自分と同じくらいの時間をずっと隣で作業していたはずの式谷は涼しい顔で、
「そう? でも、神様がどうとかは出てこなかったんだからそれはそれで収穫じゃない? あの宗教が言ってること、大体嘘っぽいな~ってことは確かめられたんだし」
「…………まあ、確かに」
ちょっと感心した。
確かにそういう見方もないではない。ウミに関する情報を集めるつもりで来たという前提からすると調査結果はあまり芳しいものとは言えないけれど、ウミやウミの友達に対してとんでもないことを言ってる奴らに対抗する裏付けを得られたと思えば――自分が当初持っていた予防接種的な目的から見れば、ある程度目標は達成できたとも言える。
海から現れる不思議な舟の話を、ウミに関するものだと断言できる材料は全然なかった。
まして、宇宙人が何たらかんたらとか、本当にただの妄想以外の何物でもなさそうなことに関する裏付けなんか、とてもとても。
「でも、向こうは向こうでまた変な資料出してくるんじゃないの。そのときは」
「どのとき?」
さあ、と言って林道の上り坂。うへえ、と思わず声が出る。行きはよいよい帰りは怖い。神隠しにでも遭って目を覚ましたら学校に着いていてくれりゃあ楽なのに。そう思いながらちょっとだけペダルを漕いだ。途中で如実に速度が鈍る。式谷くん限界です、と言って式谷が先に自転車から降りる。絶対嘘だと思うけれど、こいつはマラソン大会で「一緒にゆっくり走ろうね」と言って本当に最後まで一緒にゆっくり走って当時の担任からありえないほど怒られていた実績がある。
学校に着く頃になると、急に真っ赤な夕暮れが空を覆い始めた。
駐輪場に自転車を停める。あれ、と式谷が気付く。宇垣先生の車ないね。ほんとだ。また呼び出しかな。最近IRの方の治安ヤバいらしいね。ねー、全然テレビとかでやってないけど。式谷は何でそういうの調べてんの。絽奈がネットにこんなニュースが出てたよ怖いねって教えてくれる。
かわい、と笑った。
そうしたら、その可愛いのが昇降口の先に出てきているのを見つけた。
「あ、」
「おいすー。おかえりー」
絽奈。それから隣に紬もいる。
大浜家を去る前に式谷がまめなことに「今から帰ります」とメッセージを送っていたから、それでだろう。おかえり、と言われるから、ただいま、と二人で応えて近くに寄る。どーだったん成果は、と紬が訊くのに「バッチリです」と式谷がガッツポーズで答えるから、こっちは「ダメダメです」とバッテン印で答えてやる。どっちだよ、と紬が笑う。
ねえ、と絽奈が言う。
「今から時間、大丈夫?」
ちょっと考えた。
自分は大丈夫だけれど、
「式谷って今日の夜、」
「うん。給食当番」
まあでもそのくらいなら、と花野は思った。
今日一日付き合わせた礼に代わってやってもいい。絽奈も日が暮れる前には帰るだろうから、時間の都合もあるだろうし。
いいよ、と言おうとした。
「あ、そっちは心配しなくてだいじょぶだから」
それより先に、絽奈が言った。
「プール来て。すごいことする」