ひみつのプールサイド ⑤
地方豪族みたいな家だ。
絽奈の家も大概でかいけれど、こっちはちょっと格が違う。ぐるっと家を囲んだ塀とか、時代劇のパロディみたいな門と、そこからの玄関までの距離とか、民家というより郷土資料館みたいな構えに見える。門の前で一旦二人で止まったけれど、インターフォンを鳴らしても反応がなかったから勝手に中に入ってしまった。さらに勝手に庇の下に自転車を停める。やりたい放題。
「いるよね?」
「いる……と思うけど。アポ取ったし」
式谷に答えながら、花野はちょっと不安になっている。館長の家に来るのは初めてだ。そして人の家の敷地の中というのは大抵の場合居心地が悪く、初めてならさらに倍。しかし式谷にはそういう気まずさを感じる回路がないのか、自転車に鍵をかけると「こっちだよね?」と言って玄関らしきところに進んでいく。目に見えるだけでサンダルの置かれている箇所が他に二箇所ほどあるけれど、あれはたぶん縁側の沓脱石だと思う。「あ、インターフォンある」と式谷が言う。迷いもなく押す。
ぴんぽーん。
反応がない。
「連打?」
「やめろよ?」
と言いつつ呼び出しても反応がないのは困るから、もう一度花野はそれを押す。ぴんぽーん。
反応がない。
「中で倒れてたりして」
縁起でもないこと言うのやめろよ、と思うけれど、実際そうなっていてもおかしくはない気がする。電話したときに「あれから大丈夫ですか?」と訊ねれば一応「おう、平気平気! まだまだ!」と答えたけれど、まだまだとか言ってる人間が本当にまだまだ大丈夫なことはあまりない。熱中症は特にそうだ。
玄関の庇の下に入っているのに、目が眩むくらいの日照りが夏を差す。
光る水の中にいるみたいな明るさで、セミの声はほとんど狂乱の域に達していると言ってもよく、もう暑さのために寿命もそれほど残っていないのかもしれない。今年の夏は八月からが本番で、その本番が十月まで続くと聞いた。今は教頭が夏合宿期間の延長のためにあちこち動いてくれているらしいけれど、そんなのが上手くいくならこんな世の中になっていないと思うので期待はしていない。式谷の体力に甘えてよかったと思う。もう少し遅く出てきていたら途中で干物になっていたかもしれない。
館長も、中で干物になったりぐずぐずに溶けてようとしていたりするかもしれない。
こういうときは迷わないことだ、と花野は決めた。
玄関戸に手をかける。不用心なことに、開いている。
「すみませーん」
反応がない。
「館長ー」
「ごめんくださーい!」
ガタン、とどこかで物音がした。
花野は式谷と顔を見合わせる。どうも家の中からではなかった気がする。玄関に半分くらい入れていた身体を外に出す。かなり遠かったけれど、外ではないと思う。
館長だったらいいけれど。
それ以外だったら、
「誰かいますかー」
式谷は言いながら、指で自転車の方を差している。花野は頷く。できるだけ物音を立てないようにして二人で自転車のところまで向かう。自転車の鍵を開けておく。いつでも走り出せるようにする。
ざっざっ、と砂利を蹴る音が聞こえてきた。たぶん足音は一人分。場合によっては離れてから通報するのではなく、二人で立ち向かった方が人の命が救われることもあるかもしれない。
身構える。
「――あれ、お父さん出てこない?」
中年の女だった。
自分の母と同じくらいなんじゃないかな、という年恰好に見える。首にタオルをかけて、Tシャツをびっしょりと汗で濡らしていた。女は自分たちの前を横切る。玄関に半分くらい身体を入れる。どこからそんな声が出るのだろうという音量で言う。
「お父さーん! お客さん来てるけどー!」
微かに、おーう、と声が聞こえた気がした。
なんかやってんのかな、と女は呟く。それから急に振り向いて、十年前から友達のような声色で、
「今日あっついでしょ! 二々ヶ浜中学の子で合ってる? 今日あの、うちにある郷土資料とか見に来たっていう」
ようやくここで、肩の力が抜けた。
無関係の不審者だったらそこまでは把握していなはずだ。口ぶりからして館長の娘ということでいいのだと思う。はい、と頷く。花野です、こっちは付き添いの式谷。どうも今日はありがとうございます。いいのいいの、と女は手を振って、
「今お父さん呼んでくるから、中上がっちゃって! 部屋にクーラー点けてあるから」
こんなとこにいたら倒れちゃうよ、と言って遠慮なく玄関から上がり込む。バリアフリーとは程遠い高さの框。すぐに左、縁側沿いに歩いていく。花野は式谷と顔をもう一度見合わせる。じゃ、と言って式谷が先に入っていく。盾にしたみたいで申し訳ないような気もしないでもない。
いくつかの障子戸の前を横切っていくのは絽奈の家とそう変わりはなかった。全然知らない人の家の匂いがする。一番奥の部屋の前で女が待っている。ここここ、と言うから二人でちょっと早足になる。出入口を開けてくれている。会釈をして中に入る。
一室で十畳くらいある。
お茶のCMでしか見たことがないような丸っこい窓がある。その横の床の間には水墨画だか何なんだか立派な掛け軸。ワビサビ的なものを表現しているのだろうか謎の木の置物。いかにも立派な和机もあって、その手前に戦国大名専用みたいな分厚い座布団が並んで敷いてある。
ちょっと待っててね、と女は出ていく。
気圧されていた。
「……座る?」
「僕、ちょっと汗かいてるからな……」
一旦保留することにした。
和室のクオリティに驚いてしまったけれど、よく見れば普通にエアコンも付いている。元気がありあまっているのかそれとも元の外気温が高すぎたのか、すごい勢いで風を吹き出している。二人でその風の前に立って、それぞれ自分の汗拭きシートを取り出して身体を拭く。式谷はせっけんの香り。自分はブドウの香り。美味しそうだからという理由でなけなしのお金をはたいて買って、実際友達からは「晶の近くにいるとすごい食欲湧いてくる」と好評だけれど、こんな立派な場所にブドウの香りを撒き散らすことには若干の罪悪感がある。式谷に一枚貰って後で一枚返せばよかった。
気化熱のおかげで一気に涼しくなる。
どすどすどす、といかにも大物っぽい足音が聞こえてきた。
「おーい、開けてくれー」
障子戸の向こうに、熊のようなのっそりした影が映っている。
はい、と二人で動く。式谷は右からで自分は左から。おおう、と驚く声がする。ちょっと恥ずかしい。なんでこんな息ぴったりのコンビみたいなことをしちゃったんだろう。
「おうよいしょ。重い重い」
どっかりと和机の上に、両手いっぱいに抱えた本を下ろす。館長さん?と式谷が小声で訊いてくる。おう、と花野の代わりに館長が自分で答えた。この間までの薊原みたいなボロボロの顔に、それでも日焼けした太陽みたいな笑顔が宿る。
「晶ちゃんと、こっちの子は?」
「初めまして。式谷湊です」
「式――ああ、葵ちゃんとこの弟か。自警団にも病院にも、かえって世話になっちゃったなこりゃ」
「ほらほら、どいたどいた」
続けて女が入ってくる。館長をどかしてもう一抱え本を下ろす。随分机の上がごっちゃりした。さらに颯爽と女は踵を返す。今飲み物持ってくるからね。すみません、と花野は言い、ありがとうございます、と式谷は言った。
「とりあえず蔵にあったのをざっくり持ってきたんだわ。地方の自主製本のやつとか、資料館が潰されるってなったときにその筋に預けたやつのコピーとか。どうだい晶ちゃん、これで足りるかい」
館長が言う。が、すぐに自分で、
「つっても、読んでみなくちゃわからんか。自由研究って、どういうことを調べるとか、今の時点で決まってるんか?」
はい、と花野は頷く。
「図書館でちょっと見かけて気になったんですけど、江戸時代くらいに二々ヶ浜に黒い舟が来たって話があって。他の地域にも似たような伝承があるみたいなので、もしかしたら当時の流行りの話の類型なんじゃないかとか、実際にあったことの比喩として残ってるんじゃないかとか。そういうことを調べられたら面白そうだなと思ってます」
「……あれか。黒船来航」
そっちで覚えてるんかい、と思いつつ、はい、ともう一度頷く。むむ、と館長は眉に皺を寄せて、
「むかぁし、大学でそういうのを研究してるって兄ちゃんが資料館に来たって聞いたことがあったなあ。ちょっと待ってな。もう少し何かないか探してくるから」
「あ、でもとりあえず持ってきてもらったものを見せてもらってからでも――」
完全な嘘というわけでもないけれど、完全な本当というわけでもないから、口八丁で館長をこき使うことには罪悪感がある。が、「いいから、いいから」と館長は持ち前の強引さを発揮して、病み上がりとも思えぬ豪快な足取りで部屋を出ていく。どすどすどす。うお。あっぶないなあ。すまんすまん。どすどすどす。
「ごめんねー、開けてー」
はーい、と返事をして、また二人で戸を開ける。どうもねえ、と綺麗な盆に透明な飲み物を載せて、さっきの女が入ってくる。熱中症になっちゃうから飲んで飲んで、と言う。すみませんいただきます、と言ってから五分の一くらい飲んだ。一気に飲んだら二杯目の催促をしているみたいだし、分けて飲んだ方が脱水症状を起こしにくいらしいし。グラスを置く。五分の一どころか三分の一くらい飲んでしまった気がする。式谷は半分飲んでいた。あとでペットボトルごと持ってきたげる、と言われて、すみません、ありがとうございます、を言う。いいのいいの、と女は言った。
「一昨日くらいまでしょげ返ってたのが、若い子たちから連絡貰って急に元気になったんだから。まだ自分は必要とされてるんだって思って張り切り出してんの」
私もね、と女は言う。いつもはこっちの方に住んでないんだけど襲われたって聞いたもんだからこっちに面倒見にちょっと帰ってきてて。どうしたもんかなこのしょんぼりしたまま晩年かなと思ってたからかえって助かっちゃったよ。
「ま、ちょっと暑苦しいかもしんないけど面倒看てあげて。……ところでそっちの君」
「はい」
呼び掛けられたのは式谷の方。
じっ、と顔を覗き込まれて、
「――もしかして、お母さんの名前って『怜』じゃない?」
「あ、そうです」
うわあじゃあやっぱり同級生だ。珍しい苗字だしあの子一人っ子だもんね。今こんなでっかい子がいるのかあ。お母さんに次会ったら大浜燈子に会ったよって言ってみて。怒涛のように女――大浜さんが話しかけてくるのを式谷は笑顔で受け止める。どすどすどす。音が聞こえてくるから花野は障子戸を開けて廊下に出る。おお、と館長がまた本を抱えているから、持ちます、と上の方を半分くらい貰う。部屋に戻ると、あんま邪魔しちゃ悪いね、と大浜燈子が立ち上がる。おおまた何か出してほしいもんがあったらリビングの方にいるから呼んでくれな。館長も一緒になって立ち上がる。スーッ、と障子戸が開かれて、閉まる。
一気に静かになった。
「……怒涛のような家だ」
「ねー」
超パワフル、と式谷が言う。ほんと、とそれに同調して花野はコップの中の残りも一気に飲んでしまう。ついでに学校から持ってきた水道水もちょっとだけ。そういえば後でペットボトルを持ってきてくれると言っていたから、足音には注意しなくちゃ。そういうことを思いながらまず手近な本を手に取ってみる。
「とりあえず、舟のやつ探そう。絵が付いてればわかりやすいんだけど、一応文字の方まで見てみて」
「りょーかい。……うわ、これ古文なんだけど。ほんとに古文書じゃん」
「読める?」
「読め……なくもないけど、こっちの写真の方はちょっと自信ない」
どれ、と花野は式谷の手元を覗き込む。そんなに古い本でもなかったけれど、確かに途中で引用されている文章は古文で読むようなあいうえおがはひふへほで表されていたり、語尾にけりだのたりだのが付いているやつだった。そしてその文章の左側に添付されている画像は文字がものすごい崩れ方をしていて、確かに一文字一文字判読するのも難しい。
目を凝らした。
障子戸がトントンと叩かれる。式谷がはーい、と言って開ける。ペットボトル置いとくねえ熱中症には気を付けて、と大浜燈子が言う。ありがとうございます、と花野は本から顔を上げてお辞儀をする。障子戸が閉まる。もう一度本に目を落とす。
急にわかった。
「これ右の文章と同じやつでしょ」
「あ、ほんと?」
「こことここ、ほら一緒。とりあえず右側の方だけ読んでおいてくれればいいよ。舟とか、キーワードを探してくれてもいいし」
そういうことならお任せください、と式谷がその本を手に戻す。花野は花野で自分の本に戻る。どうもこれは民話を集めたものというより当時の行政が作った公文書の寄せ集めみたいな気がしてくるが、果たしてこんなものがこんなところにあっていいのだろうか。一通り目を通した後に二冊目を手に取ってみると、こっちには住宅地図みたいなものが延々載っている。二々ヶ浜の海岸線の記録なんかもされているみたいだけれど、地理の本みたいな感じなのだろうか。館長は本当にあるものを全部引っ張り出してくれたらしい。
一瞬、外を見た。
クーラーの効いた部屋の中とはまるで正反対。家から出た瞬間に自然発火してしまいそうなくらいの日差しが、広い庭を燦々と染めている。
「……ゆっくりやる?」
提案すれば、そうしよう、と式谷は頷いた。




