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ひみつのプールサイド ③


 朝だから、洗顔フォームで顔を洗う。

 そのようにして薊原は一日を始めることにしている。

 学校に来て一週間近くが経って、すっかり早寝早起きが習慣になりつつあった。というのも理由は単純で、普段決まった時間に起きるなんてしてこなかったから朝がつらい。寝たいだけ寝て自然に起きるのが一番で、それ以外は一日中ダルさが抜けない。そういうことを訴えてつまり「だから朝は放っとけ」というメッセージを発信したところ、式谷は「いいよ~」とあっさり受け入れてくれた。夏合宿の初参加で初めて寝泊りまで共にしてわかったが、あいつの鷹揚さには目を見張るものがある。将来誰かと暮らすならこういう奴が相手だと楽だろうなとすら思う。

 しかし。

 薊原は顔に泡を当てている。擦った方が気分が良いが洗顔指南系のサイトには右を向いても左を向いても擦るなと書かれている気がするので、擦らないように優しく押さえる。果たしてこの行為に意味はあるのか。目を瞑って二十秒くらい。それから手探りで蛇口を捻って、手に水を溜めて、ばしゃっとやる。

 目を瞑ったまま、タオルで顔を拭く。

 目を開ける。

「……おい」

「だーれだ?」

 何も言わずに薊原はその手をむんずと掴んだ。ひんやりした、変な感触。自分の視界を塞いでいたそれを横に引っ張れば当然、目の前にある鏡が見える。

 顔を洗った後の自分がいる。

 その後ろに、人型の未確認生命体がいる。

 よく毎朝飽きねえなこいつとウミには思い、よくも面倒なことを教えてくれやがったなと瀬尾には思う。

 結局、こいつのせいなのだ。

「おはよう。かずきはいたい?」

「だから痛くねーよ。平気だって」

「おはよー。二人とも朝から仲良いね」

 鏡の向こうを、ふらっと式谷が通りがかった。

 おい、と声をかけたけれど、トイレ、と言って振り向きもしない。実際その宣言のとおりだったらしい。ちょっとしたら普通に出てきた。

 改めて言う。

「お前こいつ捕まえとけよ。毎朝毎朝」

「誰にだって行動の自由があります」

 ねー、と式谷はウミに笑って言う。うん、と大してわかってもいないだろうにウミは頷く。式谷も洗顔を始める。こいつは水だけで洗う。ウミもそれを真似しようと自分の後ろから蛇口に手を伸ばす。仕方ないからどいてやる。ずぅどどどどどどどど、と凄まじい勢いで水が流し台を引っ叩く。ああこれはね、と式谷が全く動揺せずに蛇口を捻る加減について教えて、たぶんもう二度とウミは間違えない。

 こいつのせいなのだ、と薊原は思い返していた。

 昼まで寝ようとしたとき。そうでなくても自然に起きるまで自分で自分を甘やかそうとしたとき。そういうときこいつはなぜだか自分の顔を覗き込んできたり、冷たい手で首を触ってきたりする。とてもじゃないが安心して寝ていられない。ただでさえ雑魚寝が得意じゃないのに未確認生命体に観察・接触されるとあっては。いつ改造されるかわかったものではない。

 そして、早起きしたら早起きしたでこんな風に絡まれる。

 今日こそ言ってやろうと思った。

「式谷」

「んー」

「お前ちゃんと見とけよ。保護者だろ」

「そうなの? ウミちゃん、そんなに子どもな感じもしないけど。僕らより年上なんじゃない?」

「――嘘だろ」

「わかんない。訊いてみよう。ウミちゃん、生まれてからどれくらい経ってる?」

「うまれて、なに?」

「『生まれる』の……えーっと、連用形? 『生まれる』はね、この世に存在し始める……あれ、意外と難しいかも」

 式谷が試行錯誤を始める。話が逸れ始めたな、と薊原はそれを見ている。試行錯誤の末が「ウミちゃんはわからない」で終わる。式谷が今度はこっちに訊いてくる。今のって「生まれる」自体がわからなかったのか、「生まれる」はわかったけど時間の経過のことがわからなかったのかどっちなのかな。

 知らねえよ。

 式谷は続けてシャカシャカと歯も磨き始める。こいつはいつも起き抜けに歯を磨く。何となく薊原はその隣に立っている。「あざみばらははをみがく――みがかない?」とウミが訊いてくる。後で、と答える。どうせそんなに経たずに朝食の時間になるんだから、うがいでもしておけば十分だ。うがいする。

 んべ、と水を吐き出したのはほとんど同時だった。

「じゃ。僕、迎えに行ってくるから」

「はいよ。よく飽きねえな、毎朝毎晩」

「風が気持ち良いよ。朝と夜だけだし。あ、今日は先生どっちも来ない日だけど、宇垣先生がしばらく外回りで忙しそうだったからふらっと顔見せるかも。それだけ気を付けといて。絽奈にも言っておくけど」

「お前は?」

「あれ、今日って五日だよね?」

 訊かれると自信がない。

 端末を取り出す。スケジュール帳を開く。土曜日。

 そこに書いてあった。

「大浜の爺さんのとこに調べものか。飯どうすんだ?」

「とりあえず僕らの分はなくていいよ。午前中で終わるようでも家近いから、そっちで食べてから戻ってくる」

「了解」

「めし」

「飯はごはんのことね。ウミちゃん、ちょっと僕、外に出てくるね」

「ろなは?」

「絽奈は今から連れてくるから学校にいる……いることになっている。未来形ね。行って帰ってだから一時間後くらいかな」

 うん、とウミは頷く。

 言われてみると、と薊原は思った。

 確かにウミは言葉の感じが拙かったりこっちの文化について詳しくないから幼い印象になるだけで、態度自体は落ち着いたものなのかもしれない。自分が全く知らない言語圏の全く知らない生き物の群れの中に放り込まれたらここまで容易く順応できるだろうか。式谷の「僕らより年上なんじゃない?」という言葉について深く考えを巡らせ始める。

「じゃ、行ってきまーす」

「おう」「いってきまーす」

 式谷が朝っぱらから信じられないような軽い足取りで階段を下っていく。ウミの「いってきまーす」はまだ「行ってらっしゃい」を覚えていないだけで、単なる見送りの言葉。背中が見えなくなる。ぱたん、とウミが振っていた手を下ろす。薊原はもちろん手を振っていない。ガキじゃあるまいし。

 くぁ、と一つあくびして、とりあえず男子部屋の方に戻ることにした。

 特にやることもないが、ここにいるよりは部屋にいる方が落ち着くだろう。午前八時にはある程度布団も片付けられてしまうから、今のうちに横向きの生活を堪能しておくに限る。他の奴らに合わせて電気代の節約をしていると端末をネットに接続して弄くりまわすことにすら若干の罪悪感が芽生えるけれど、まあ、ニュースに目を通すくらいのことはしても許されるだろう。たとえ大量の動画広告のためにものすごい勢いで充電と時間を空費するとしても。

 教室のカーテンは、学校のどの部屋で生徒が眠っているか外からわからないようにするため、夜の間はほとんど全てが閉められている。一方で廊下の窓にはカーテンがない。だからこの時間に早朝の廊下を歩いていると、北側ばかりが明るくて南側が暗い。誰も彼も寝静まっているから、開演間近の映画館のような、奇妙な雰囲気が漂っている。

 結構薊原は、この空気が好きで。

 だから肩を叩かれて、素直に振り向いたのだと思う。

「んぐ」

 ぐにゅっ、と刺さった。

 よくあるやつだ。友達にふざけてやるようなやつ。肩を叩いて振り向かせて、そこに指を置いておいて頬に突き刺すやつ。

 やられた。

「…………」

「…………」

 やられたまま、無言で見つめ合う。

 何か言えよ、と薊原は思っている。



 もしも高校に通うことになったら、平日は毎日往復一時間半くらいかけて車で送ってもらうことになる。

 そんなことが可能なのだろうか、と毎朝毎晩二人で仲良く登下校をする絽奈と式谷を見ていると、つい花野は思ってしまう。

「おはよ」

「おはよう。あ、もう晶ちゃんすぐ出掛ける?」

「式谷が大丈夫ならそれでもいいけど。ちょっと休んだ方がいいんじゃないの?」

「大丈夫だよ。さっさと行ってさっさと帰ってきちゃわない? 長引いたらアレだし」

 毎朝八時ごろ、絽奈は多目的室に現れる。

 ウミが学校にしばらく留まると決めてからのことだった。その日の午後までかけてわかったことだけれど、通訳能力は明らかに絽奈が飛び抜けて高い。自分も少し試してみたけれど、そこまで上手くはいかなかった。小学生の頃に「難しくて何言ってるかよくわかんない」と言われたことを思い出す。今は多少マシになったと自分では思うが、そういえば絽奈と仲良くなったのはそのあたりのこともあった気がする。何を喋ってもちゃんと理解してくれる友達と言うのは、たぶんすごく得難い。

 そういうことも踏まえて、ウミが学校にいるなら絽奈もいた方がいいだろう、という話になった。

 が、残念ながらこの箱入りお嬢様は集団生活に耐えられるような性格は一切していないのである。

 みんなで雑魚寝くらいはできるが、たとえ同性同士であってもみんなでシャワーだの公民館のお風呂だのなんて絶対に耐えられません舌を噛んで死にます……薊原もそういうところがあったが、絽奈の方が明らかに重症だった。そういうタイプの生徒たちで個別に見張りを立ててシャワーを浴びる時間もあるのだけれど、そういうのも無理だと言う。だから風呂だの寝るだのは家に帰ってすることになる。これだけ深く愛されているなら家も本望というものだろう。だから絽奈が送っているこの夏は、合宿でも何でもない。普通の学校生活。

 しかしこんなか弱い生き物を一人で登下校なんてとてもさせられない、という見方もある。

 というわけで毎朝毎晩、絽奈は式谷の送迎付きで夏休みの学校に通ってきている。

 絽奈と一緒に多目的室に現れた式谷は、流石に往復一時間の道のりだからうっすら汗をかいていた。が、表情そのものは涼しげで、だから花野は立ち上がる。ちょっと後ろを振り向く。ウミちゃん、絽奈来たよ。ろな。とてとてとウミが立ち上がってこっちに歩いてくる。さっきまでいいように手玉に取られていた薊原はようやく解放されたという感じでカーペットの上に身体を投げ出していて、最近はずっと多目的室に居座っている桐峯やら中浦やらの一年女子部屋組はおはようございます、と絽奈にしっとり挨拶している。おいっすー、と小松が大きく手を振っている。

 未確認生命体のいる学校にも、慣れ始めてきた。

 慣れ始めてきたからには、次のステップに進まなければならない。

 ちょうど洪が吹奏楽部の朝練を終えて多目的室に来るところだった。あとよろしく、と手を振る。あとよろしく~、と式谷も同じように手を振る。あ、はい、気を付けて行ってきてください、とさりげない気遣い。次は西棟階段前。シャワーを浴びてきたらしい濡れ髪の岩崎率いる陸部の一派が下から上ってくる。珍しく早いな、と不思議に思っていると、今日外めっちゃ暑いよ花野ちゃんも式ちゃんも気を付けて行ってきてねていうか私一緒に行かなくて大丈夫二人ともなんかちょっと弱そうだから心配だなあ。なめんなよ、と額を突いてやる。うあー、と間抜けな声を上げて、岩崎がわざとらしく仰け反る。三階から紬が降りてくる。お、晶と式谷はデート? はいはいそれでいいそれでいい。ひひひ、今のうちに奪っちゃお~。昇降口へ。靴を履いて駐輪場へ。

 図書館に置きっぱなしにしてしまった自転車は、式谷が取ってきてくれた。

 お返しに、このあいだ佐々山と一緒にハーモニーに買い出しに行ったとき、式谷が姉から譲られたというオンボロ――もとい年季の入った由緒正しそうな自転車も軽トラで回収してきてやった。少しでも日陰を行こうと駐輪場の屋根の下にすぐに入って、奥へ奥へと進んでいく。

いつもみたいに自転車を引っ張り出しながら、

「式谷って館長と会ったことあるんだっけ」

「わかんない。水族館も遠足で行ったきりだから、そこで会ってなければ面識ないんじゃない? ……あれ、水族館に行くんじゃないよね」

「違う違う」

 直で家、と言ってから、そうだ、と気付く。端末を取り出して、ダウンロードしておいた地図情報を表示する。ぴょい、とそれを前カゴに投げる。うわ雑、と式谷が言う。黙れ。

 校門から出ていく。

 途中までは、家に帰る道と一緒。

「昨日、アポ取っといてくれたんだよね。向こうなんて言ってた?」

「とりあえず来るだけ来てみなって。私もそんなに詳しい話伝えられてないし。言えないでしょ。謎の生き物が二々ヶ浜に漂着してて昔話とシチュエーションが似てるから調べさせてほしいんですとか」

「それもそっか」

「夏休みの自由研究してますって体で二々ヶ浜の民話とか詳しくないですかって訊いて、資料とかあるって言うからじゃあ見に行きますってそれだけ。蔵にあるやつまとめて出しておいてくれるって」

「あ、ほんと?」

 それなら結構楽そうだね、と式谷が言う。

 うん、と花野も頷いた。

「あ、そだ。手土産とか持ってかなくて大丈夫? 家寄ってなんか持ってった方がいい?」

「大丈夫。館長、そういうの気にしないから。豪放磊落」

「それなんだっけ」

「四字熟語」

 それは流石に知ってるよー、とこんな大したことのない会話のジャブでも妙に楽しそうにしている式谷に、右、と一言だけ伝える。ハンドルを向けた先があんまりにも何もないほっそい小径だから、ほんとに?と当然の疑問を呈されるが、その疑問に答えるだけの自信を花野は持ち合わせていない。迷ったらネットの地図のせいだ。

 こういうのがいけないんだろうか、と頭を過った。

「――どうでもいい話していい?」

「いいよ。どうでもいい話をするために生きてるから」

 そりゃどうも、生きててくれてありがとう――心なしペダルを緩めたのは、入った小径の先がすぐに林道に変わって日陰ができたから。そしてできれば館長の家に着くまでに一通り、この考えを外に出してしまいたかったから。

 絽奈でも宇垣でもない。

 でもまあ、式谷も聞き上手だから、何を言ったって構いはしないだろう。

「自分が信じてることが、全部嘘かもしれないって思ったことある?」

「しょっちゅうあるよ」

 びっくりした。

 本当にびっくりしたから、思わず目がいつもの倍くらい開いた。倍は嘘かもしれない。でも本当に、びっくりすると人間の目って開くんだと思った。

「……どういうとき?」

「あれあるじゃん。絽奈の動画の注意書き」

「この話はデタラメです?」

「それ。なんか本読んだりテレビ観てたりすると、あれがたまに頭の中に流れてくるんだよね。ほら最近のニュースって、なんか変なのやってるじゃん」

 言いたいことはわかる。

 ほんとかよ、ということがテレビで報道されていて、コメンテータ―が言うことに至っては素人から見ても明らかに間違っていることが多々ある。専門知識がどうとかではなくて、普通に話していてもおかしいとわかるようなことを言っている。詭弁にすらなっていない。わざわざ全国各地から知名度のある詐欺師を探して連れてきたのかと思ってしまうくらいだ。テレビでさえそんな始末なのだからインターネットを見ているときなんかはなおさらで、自分もよくげんなりした気持ちになる。

 でも、ここで言いたいのは、

「いや、そういうのじゃなくて」

「違う?」

「本気で全部って話。ネットの怪しい話が嘘かもとかそういうのどころじゃなくて、全部何もかも信じられないとか、そのレベルで」

「結構全部信じられなくない?」

 やっぱりあっさり、式谷は言う。

 花野はもう少し速度を緩めた。林道は思ったより涼しい。風もよく吹いている。草の手入れが全然されていなくて道の端に寄れないのがいまいち嫌な感じだけれど、どこから車が通りがかる気配もない。まだ町の誰も起きてきていないんじゃないかと思う。小学校の夏、プールバッグを蹴飛ばしながらみんなで集団下校したときのことを思い出す。サンダル越しのアスファルトの熱さも、遠い昔のことみたいに。

「地球が丸いのとかも?」

「……花野さん、宗教にハマろうとしてる?」

 急に気遣わしげになった式谷が、ぐん、とペダルを押して隣に並んでくる。違う違う、と花野は言おうとする。言えない。

 自分がどうなっていてどこにいるのか、正直なところ、よくわからないから。

「……流石に式谷は、地球が丸いのとかは別か」

「いや、別にそのへんまで疑ってもいいんだけど。絽奈が前に言ってたから。そういうのに真面目に付き合い始めると危ないって――あ!」

 ピン、と閃いたように式谷は、

「頭良い人ほどそういうのハマるらしいよ!」

「……聞いたことはある」

「なんだっけ。なんかね、自分で一度信じ始めるとその証拠を探しちゃうんだって。バイ――なんだっけ。アイゴートゥースクールバイバスじゃなくて」

「バイアス?」

「ほぼ合ってる」

 全然合ってないだろ、とちょっと笑った。

 笑ったら、ちょっと気持ちに余裕が出てきて、

「バイアスの話はいいよ。ちょっと式谷の話詳しく聞かせて」

「え、照れる……」

「勝手に照れてろ。疑うってどこからどこまで?」

 どこからどこまでって言われても、と道の脇の葉っぱを指で一瞬だけ引っ張って式谷は、

「うーん……」

 そう言われると、と改めて真剣に考え込むようにしてくれて、

「でも、言われてみると地球が丸いとかも自分で調べてみたことないから疑おうと思えば疑えるのかもね。そういうのって簡単な確かめ方とかあるの?」

「たとえば二々ヶ浜から船が出ていくとするじゃん」

「うん」

「で、どんどん沖の方に行くにつれて水平線の向こうに消えていくじゃん」

「そうなの?」

「そうならなかったら海の向こうの建物とか見えなくちゃおかしいでしょ」

 じーっ、と式谷が考え込み始めた。

 その姿を見ていると、何となく花野も不安になってくる。この考えで合ってるよな? いや待てよ。海の上の空気で光が変な屈折を起こしてるからとかそういう線で反論できなくもないのか。そういうことを言われて咄嗟に反論できるだけの知識が今の自分には――

「――確かに!」

 素直な奴で助かった。

「ってことは、こう……海のところがカーブを描いてなくちゃおかしいでしょ。だから地球は平面じゃなくて丸い」

 自分で言っていて論理の飛躍があった気がするが、やはり式谷は「なるほどね」と頷く。そして非常に律儀に、まだ答えていない質問のところに戻ってくる。

「じゃ、地球が丸いのは信じます。そう考えると教科書に載ってることくらいは信じていいのかもね」

 それはそれで芯を食った応答だったから、つい花野はすかさずの形で、

「でも、教科書にも普通に嘘書いてあることあるらしいよ」

「え、そうなの」

「調べた。道徳の教科書とかヤバいって」

「非道徳じゃん」

 ちょっと笑う。

 ほんとにそう、と相槌を打ちながら、ここ数日時間の合間を縫って調べたことを花野は式谷に伝える。教科書にだってすごい嘘が書いてあった時代がある。何なら学校の先生が進んで嘘を教えていたりする。色んなところからお墨付きを貰っていたし、もちろん――もちろんなのかは知らないけど、今でも現役でそれを取り入れてる学校がある。ていうか私らが小学校の自然学習の時間でやらされてた海の水質浄化活動みたいなやつ、あれ普通にインチキらしいよ。

「えっ」

「ビビるでしょ」

「ビビった。えー……」

 自分がそれに関する記事を見つけたときと、ほとんど同じリアクションだった。

 うっすら心が休まった。自分と同じように戸惑いを持つ人間が隣にいると、根本的には何も解決していなくても心強い感じがする。小学生の頃の記憶もついでに蘇る。通り雨が降り出して、置き傘も家に忘れてきてしまっていた日のこと。昇降口から見た、どろどろととぐろを巻く黒い雲。強い風。生温かったから夏だったような気もする。アスファルトに跳ね返る飛沫だけで靴がずぶ濡れになってしまうような日。同じ方向に帰る同級生たちの傘の下に紛れて、ビニールを叩く雨音の煩さに負けないように大きな声で何かを喋って、何だか守られているような気分になりながら不思議な家路を辿った日。

 そうなんだ、と式谷は言った。

 緩やかな下り坂に差し掛かる。林道のトンネルの先が光っていて、真っ白い大きな扉のように見える。自分の住んでいる町だけれど、通ったことのない道だからどこに繋がっているのかわからない。ペダルを漕ぐのを止めて、しばらくの間その傾斜に身を任せた。隣に並んだ式谷が、ぽつり、静かな声で言う。

「何のためにするんだろうね。そんなこと」

 ね、と花野も応える。

 そう言ってくれる誰かがいるだけで、ちょっと気が楽になる。


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