ひみつのプールサイド ①
仕事したくねえ、と思いながら天井を見つめる。
いつもそういう朝から二々ヶ浜中学校非常勤美術教員佐々山祈里の一日は始まり、これは大変健康に悪いんじゃないかと常々自分で思っている。
心底何もない部屋だった。これもまた自分でたまに佐々山は笑ってしまう。家ならいくらでも余っているぞと言われて遠くもなければ近くもない、休みの日なら生徒が通りがかることもないだろうが自転車がぶっ壊れてもギリギリ歩いて帰れる範囲のところを借りた。東京と比べれば異様に家賃は安いが、プロパンのガス代が目ん玉が飛び出るほど高くつく。おかげさまで全く金がなく、備え付けの家具を一度ベランダにでも押し出してみれば高校時代に見たアニメヒロインの部屋並みに何も残らないはずだ。病室だってもうちょっと活気があるのではないかと思う。
レースのカーテンが風に揺れる。
セミが煩くなってくる。
部屋の気温が上がってきて、いい加減耐え切れなくなってきた。
「――よし」
地獄から這い出てきた犬のような唸り声とともに、佐々山は起き上がった。
テーブルの上には米粒一つ残っていない箸と茶碗。炊飯器は大学卒業を機に実家に戻ることになった同期の家具一斉処分セールで手に入れた。そのときは「米なんて炊かねーよ」と思っていたけれど、思いのほか大活躍している。夏合宿用の米を地元の直売所に買いに行ったときに、ついでに破格の値段で生米を手に入れることができたから。適当に炊いて、水道水と化調をぶっかけてなんちゃって茶漬けにして食べている。食器を洗うとき楽になるし食べやすいからお気に入りの料理なのだけど、こんな食べ方をしていると知られたらお米農家の皆様にぶち殺されてしまうかもしれない。
洗うのは次に茶碗使うときでいいや。
流し台に置いて、水だけ入れて、それで終わり。
最初の頃はビジネスカジュアルくらいの服で行っていたけれど、一ヶ月もするくらいから毎日ジャージになった。大学時代を思い出して落ち着くが、大学を出てまでこの生活なのかと思うと密かな焦燥感が芽生える。日焼け止めだけ念入りに塗っておいて、後は眉描いてありゃいいだろレベルの適当な化粧をしておく。おそらく遠からず眉もなくなると思うが、宇垣なんかは全く気にしないだろうから夏の間は何の問題もないと思う。教頭はうっすら気にするかも。一年の担任と校長は学校に来ないでほしい。
窓を閉めて、家を出る。
外に出てからドアノブを癖で押し下げる。開いてる。よく開けっ放しにしてしまう。取られるものもないけれど一応閉めておく。車庫の下に軽トラがある。最初の一ヶ月は自転車で通っていたけれど、近所のお婆ちゃんが免許返納と老人ホーム入りを機に譲ってくれた。そのときは大層感謝したものだが車検やら保険やら自動車税やらの現実について考えると自分には過ぎたる文明の利器な気がしなくもない。鍵を突っ込んで開ける。ありえないほど暑い。窓を開ける。エンジンをかける。クーラーを全開にしたいところだが、どうせ十分もせずに着くのだから節約したい。
砂利を轢いて走り出す。
このへんの道はものすごく走りやすい。何せ人が全然通っていないから。免許は東京で取ったけれど、こっちで取ったらさぞかし楽しかっただろうなと思う。窓から風が入ってきてちょっと気分が良くなる。貰ったときからずっと調子の悪いラジオがザザッと鳴ってザラザラの音を立てる。
『――来る衆……ヶ浜市長……果が注……』
来る衆議院総選挙に向けて、二々ヶ浜市長選の結果が注目されています。
そんなんあるんだっけ。
確か近いうちに投票所に行かずに国民番号を使ってのオンライン投票に形式が切り替わるとかいう話だけは社会の時事問題で見たから、気を付けていないと忘れてしまうかもしれない。忘れたからってどうともならないのだけど。別に政治家なんて誰がやっても大して変わりなんかないだろうし、生活が良くなるわけでもないし、自分のことは自分でやらなければならないし、それで精一杯だし、そもそもたかが一票くらいでは何も変わらない――
二々ヶ浜中学のジャージが自転車を漕いでいる。
見覚えのある背中だ、と思った。
佐々山はスピードを緩める。併走するようにゆっくり近づく。自転車がこっちを向く。窓を開けっぱなしにしているからもう少しだけ近付いて、「おはよう」と声をかける。
わ、とその子は自転車を停めた。
「佐々山先生。びっくりしたあ……」
「ごめんごめん。見かけたから。あれ、病院帰り?」
そうです、と頷いたのは一年生の中浦だった。話しながら佐々山は車を停めている。ギアをパーキングに。サイドブレーキまで。
「どうだった、診察。あ、いいや。乗っちゃいなよ。自転車なら荷台に積んじゃえばいいし」
「え、いいんですか」
いいよいいよ、と軽く引き受ける。エンジンを停めて車を出る。中浦の手から自転車を受け取って、荷台のロックを外して、よいしょお、と軽く持ち上げて載せ込んでしまう。
すごい、と中浦が拍手をするから胸を張った。作家にもデザイナーにもなれなかった以上、彫刻科での四年間から人生に持って帰ることができたものは腕力くらいしかない。
軽トラに乗り込んで、一応クーラーを点けて、シートベルトもしっかり締めさせてから発進する。
それで、と話を戻せば、すぐに中浦は答えてくれた。
「やっぱりただの胃炎だったみたいです。夏合宿で急に環境が変わったのもあって、ストレスが出たんだろうって」
「そっか。ごめん、普通に学校に行くつもりだったんだけどもしかして帰宅途中だった?」
「大丈夫です。薬も貰いましたし、血も多分もう出ないって言われましたし。自分では学校、そんなに嫌いなつもりでもないので」
そっか、と気持ちアクセルを緩めながら佐々山は相槌を打つ。
「何か困ったことがあったら言ってね。……お金周りはちょっとアレだから、あんま頼りにならないかもしれないけど」
はい、と中浦が頷く。この辺りの子は、と佐々山は思う。妙に大人びている子たちが多い。土地柄なのか、それともこの時代の子どもたちが全体的にそうなのか。中浦なんかとても去年まで小学生だった子だとは思われない。自分が中一の頃――十年前と言ったら、大して野生動物と変わらなかったと思う。なんだかもう思い出したくもないような記憶でいっぱいだ。
それだけ、早く大人にならなくちゃいけない世の中だってことなんだろうか。
ぼんやりと、頭の中に花野の顔が思い浮かんだ。
やっぱり進学辞めるかもしれません、と言った彼女の、妙な引き際の良さのことも。
「――そうだ。中浦さん、保険証大丈夫だったの? なくしたかもって言ってたけど。見つかった?」
「あ、あれ。すみません、探すの手伝ってもらったのに。なくしたんじゃなくて最初からなかったみたいです。お父さんに訊いたら、保険料が高くなったときに任意離脱?しちゃったらしくて」
「え、それでどうしたの。全額実費?」
「お婆ちゃんの保険証を貸してもらって、それで受診させてもらいました。最近そういうの多いしカルテも分けられるから気にしなくていいよって、看護師さんが」
昔はこういうの、ダメだった気がする。
が、ここで何か言えるほど自分の教員としての能力は高くない。
あるいは、社会の一員としての能力とか、そういうのが。
「そっか。まあ、アレだね。しばらくは食べ物とか気を付けるといいかもね」
「はい。三上さんが今日の献立、私のためにちょっと工夫するって言ってくれて」
実はそれで急いで学校に来ちゃったんです、と中浦が助手席ではにかむ。
佐々山は思う。
「……そっかそっか。よかったね」
「はい」
私って、何のためにここにいるんだろ。
空き地の前で右折してからすぐ左折。校門をくぐってとりあえずロータリーに停める。自転車をよいしょと下ろせば、丁寧に中浦が頭を下げて礼を言う。いいよいいいよ、いつでもね、と佐々山は答える。中浦が駐輪場の方へ自転車を押していく。駐車場は裏門の方と職員玄関前の二つがあって、前者の方が圧倒的に広い。けれど夜になると本当に真っ暗で怖いし、今日はどうせ自分以外の教職員は来ないだろうからと高を括る。職員玄関の方に停めちゃお。
「佐々山せんせー」
運転席のドアに手をかけたところで、生徒昇降口の方から声がした。
顔を向ける。もうすっかり学校にいつも来るような生徒の顔は覚えきった。式谷だ。男子の方の寮長。軽やかな足取りで近付いてきて、残念なことに佐々山は式谷がこうして近付いてきてから良い思いをしたことがほとんどない。
「おはよーございます」
「おはよー。……今度は何のトラブルすか。式谷大先輩」
「僕、そんなにトラブルばっかり持ち込むイメージですか?」
あれ、と自転車を停め終えた中浦がこっちに戻ってくる。式谷先輩、おはようございます。中浦さんおはよう、体調は平気? はい、病院に行って、帰る途中で佐々山先生に会って送ってもらったんです。へー親切~、よっ、頼れる教師!
悪い気はしないけれど、悪い予感はする。
式谷と花野の二人だと、なぜか式谷の方が不安感がある。
「何。どしたのお出迎えで」
「さっき花野さんと岩崎さんが図書館で不審者に遭遇したらしいです」
マジかよ、と思った。
出社早々警察対応かよ。
「あ、でも通報とかそういうのは大丈夫です。その不審者、市議会議員で。どうせ警察に連絡しても揉み消されたり無駄に話ややこしくしてなあなあでこっちが謝らされるだけなんで」
だからそっちはいいんですけど、と式谷は言う。
全然良くないだろ、と佐々山は思う。
「その説教ジジイ……毎年クレームの常連でそういうあだ名ついてるんですけど。よく電話かけてきて長時間怒鳴ってくるんで、もし電話来ちゃったら『上の者が対応するから折り返し』って言ってもらっていいですか。一応前に対応マニュアルみたいなの作ってあって、さっき職員室の佐々山先生の机の上に置いておいたんで。それ確認してもらって」
「……はい。わかりました主任」
「あと、ちょっと今からしばらくみんなで多目的に籠っちゃうんで、もし何かあったら内線ください」
「ん、何かあるの?」
「薊原が学校に来たんで、その関係でちょっと調整します」
「……私、立ち会った方がいい?」
大丈夫です、と式谷は軽く言った。
「とりあえず生徒だけで解決できるかどうかやってみます。ダメそうなら相談させてもらいますけど、こういうのって先生が最初っから絡んじゃうとかえって上手くいかなかったりもするので」
ああ、と隣で中浦が頷いている。
まあ確かにそういうのはそういうところもあるんだろうけど、と佐々山も思う。しかしもうちょっと自分が頼りがいのある教師だったらこういう場面にも生徒の言うことを鵜呑みにする以外の手段があったんじゃないか、という気持ちもあって、
「一応、ヤバくなりそうだったら連絡して」
そういうのが、そういう言葉として出力される。
バッグから端末を取り出して、
「内線だと不自然だろうから、何かあったらこっちに連絡ちょうだい。さりげなーく入っていくから……あ、中浦さん、これ秘密ね」
「談合ですか?」
「佐々山先生、それやめた方がいいですよ」
「談合を?」
「いや、生徒に連絡先教えるの。プライベートなくなるんで、宇垣先生ですらやってないですよ。緊急電話の横のとこに電話番号貼ってるだけです」
あの人は単純にそういうアプリ入れてないだけかもしれないですけど、と式谷は言う。
どうもこの中学生は自分より学校や社会の仕組みに詳しいのではないかという感じがしてくる。
「……んじゃ一瞬だけ入れて終わったら消して。あ、中浦さんはこれ秘密ね」
「はい。送ってもらいましたし……あ、これ買収ですか?」
「はじめての収賄だ。佐々山先生、社会の先生にも向いてるかも」
ふふ、と中浦が笑う。笑いごっちゃないよ、と思いながら佐々山は一瞬だけ式谷と連絡先を交換する。交換完了。それからふと思いついて中浦に声をかけた。そんなところ行って大丈夫、私と職員室来る? 大丈夫です、桐ちゃんもこういうの苦手だろうから。もしかするとこの子はこういう気回しが上手いから胃炎になっちゃったのかな、と佐々山は思う。
じゃあよろしく、と別れて職員玄関から入った。
靴を脱いでスリッパに履き替えて、やたらに重たい扉をがらりと開く。ものすごく暑い。とりあえず扇風機のスイッチを入れようとする。入らない。やたらに入り組んだ延長コードの先を辿って順番にオンにしていく。ついでに窓も開けて、それからようやく扇風機を動かす。とにかく暑い。外の方が涼しい。電気を点ける気も起きなくて、もう一時間くらいしたら隣の面談室に籠ってクーラーを入れようと思う。
机の上にピンク色の、はち切れそうなくらいにパンパンになった紙のファイルが置いてある。
恐る恐る中を見る。一番上は報告書。相手方の名前。対応者は宇垣真一郎。日時があって、前提があって、本文がある。一番最後のあたりに『なお、市教委からは議会対応案件になった場合に備えて情報を共有してほしいとの要望があり、別添のとおり報告書を提出することとする』一枚捲ると別添一、二枚捲ると別添二。別添何番まであるのか怖くなって一旦閉じる。そういえば、と思い出して宇垣の机に向かう。その後ろのキャビネットを開ける。
もし時間があれば読んでおいてください、と言われた現在進行形の事案集。
ずらっ、と気が遠くなるような冊数が、みっちり詰まっている。
閉じた。
窓の方へと歩いていく。意外と風のある日らしく、髪がよくなびく。邪魔くさくなって手でかき上げる。
思う。
なーんか、良いことないかなあ。




