猫かぶりと学校 ⑥
「何、どした?」
家庭科室から外に出て、人ごみの方に向かう。なぜか昇降口のあたりで、廊下のあたりまで人だかりは広がっている。瀬尾がそのうちの一人を捕まえて訊いたけれど、その一人の名前を薊原は覚えていない。一年だろうか。
「いや全然、わかんないんすけど。なんか誰かアイドル? 来てるみたいで」
「アイドルぅ?」
わかりやすく瀬尾が前のめりになる。絶対そんなわけないだろ、と心の中で思っていると、意外にも冷静に鈴木が言った。
「千賀上じゃねーの」
「……ああ。まあ、アイドルっちゃアイドルか……」
わかりやすく瀬尾の前のめりが終わる。まさかこいつは本気でトップアイドルが中学校に電撃訪問みたいなシチュエーションを期待していたのだろうか。賭けてもいいが、絶対にない。あるとすればチンピラと繋がりのある地下アイドルが『ご当地』のタスキをかけられて「IR街の近くでも子どもたちは健やかに育っています!」なんてプロパガンダのロケに来るくらいが関の山だと思う。そして電気代や燃料費、物価高の影響がある中でも身を寄せ合って助け合って生きていけるそんな社会って素敵ですよね、みなさんも家族や友達、地域の皆さんと工夫して楽しく暮らしていきましょうなんてまとめをされて、次のニュースです。
それに比べれば全然千賀上の方がいいだろ、と思う。
思っているともう一人、家庭科室から出てきた奴が話に置いていかれているのを見つけた。
「三上、」
「あ、は、はい!」
「いーよそんな畏まんなくて」
さらに畏まった「あ、はい!」が返ってくる。だからそのところは諦めて普通に、
「一年って千賀上のこと知ってんの」
「……いや、すみません。よく……」
別に謝ることじゃねーけど、と前置きしてから、それじゃあ説明してやろうと薊原は思う。
が、よくよく考えてみると、
「最近どうしてんの、あいつ。オレもよく知らねーわ」
「チャンネル登録はめっちゃ増えてるらしいぜ」
「な。超稼いでんじゃね」
「……え、アイドルなんですか? 本当に?」
いやそういうわけじゃなくて、と鈴木が代わりに解説を始める。学校生活における一年のブランクは重いし、千賀上の動画チャンネルもそれほど頻繁に見ているわけじゃない。薊原は黙ってそれを聞くことにする。
別に実際アイドルってわけじゃねーんだけど動画作ってクリエイター?みたいな感じで稼いでて、たまにしか学校に来ねーからパンダとかペンギンみたいな感じで人気あんの。
もうちょい言い方あるだろ。
「あと、式ちゃんの彼女な」
「――え! そうなんですか!?」
「いや嘘かも。よくわかんねえあいつら。オレには理解できねえ次元で生きてる」
「てかなんでこんなとこで溜まってんの? 多目的に行きゃいいじゃん」
なんかやってんじゃねえの、と薊原は鈴木に言った。何をしているのかはよくわからないから、単なるあてずっぽう。
「見に行こーぜ」
だから鈴木がそう言うのにも、特に否やはない。
ごった返すほどの人がこの学校にいるわけがない。何となく集まってきて、何となくそのへんでたむろっている奴らだけ。鈴木が先に行って、薊原も続く。三上ちゃんも行こーぜ、と瀬尾が手招きして、後ろに続いてくる。
昇降口にいた。
主に下級生の女子――顔と名前が一致しないから多分そうだと思う――が近くで囲んでいる。いつも見てますとかあれが一番好きでとか、本当にアイドルが街で声をかけられるときのテンプレートみたいな言葉をかけられている。倉持に後ろから抱き締められて頭を嗅がれている。
どうも、とその勢いに千賀上はやや押され気味になっていた。
教室にいたときとは印象が違うな、と薊原は思った。一年もすれば性格も変わるという話か。それとも継続するひきこもり生活の中で対人関係が億劫になったか。去年の期末試験のときに教室で見た姿はそれでももう少しふてぶてしい感じだった気がする。自分の座る席すら全く把握していないし出席番号も知らないし何なら上履きも持たずに普通に部屋で使っているようなスリッパで堂々と教室に乗り込んできたのに――
あ、と気付く。
隣に式谷も花野もいない。
珍しい、と思った。
「なるほどね、囲まれて抜け出せねーわけか」
追いついてきた瀬尾が言う。隣の三上に「ほらあれ」と言って、三上は「へー」と目を輝かせる。少しくらいは打ち解けてきたかもな、と思う。そしてやたらに廊下に人が溜まっていた理由もわかった。
近くに来ても、話しかけるほどの用事もない。
ペンギンとかパンダとか、そういうのを遠巻きで観察する感覚に、確かに近い。
「――あ、」
と思ったら、千賀上が声を上げてこっちを見た。
お、と目が合って薊原はちょっと仰け反る。明らかに自分を見ている。目を大きく開いている。別に親しかった記憶はないから、そんな反応をされる理由がわからない。
わかった。
顔か。
「――薊原くん。合ってる?」
「……一応」
そりゃこれだけ顔がボコボコなら目立つ。合ってるかどうかをわざわざ確認されたはこのでかいガーゼのせいで顔がわからないという話なのか、それとも千賀上が単に大して数がいるわけでもない同級生の顔すら覚えきれていないという話なのか判断がつかない。下級生たちがちょっと遠巻きになる。
千賀上は気にしない。
普通に近付いてきて、
「大変だったんだって? 顔、大丈夫? 痛くないの?」
「ああ、まあ普通に」
普通に痛いけれど、わざわざここで泣き言を吐かなくては自我を保てないというほどでもないという意味での、まあ普通に。「げ、薊原」と今頃こっちの存在に気付いたのか倉持が顔を上げる。あつい、と言って千賀上が倉持を振りほどこうとする。
ちょうど周りも落ち着いたみたいだし、と思って、
「多目的行って話した方がいいんじゃねえの。ぶっ倒れんだろ。気温上がってきてるし」
「あ、うん」
そうだね、と千賀上が言う。何かを気にするように視線が横を向く。そうだねと言いながら動かない。
「…………?」
何か気になるものでもあるのだろうか。目に見える範囲では特に何もない。いやある。昇降口のガラス戸。
よくよく目を凝らしてみれば、心霊番組のしょうもない合成みたいに人が映り込んでいる。
すごく見覚えのある顔をしている。
ガラス越しに目が合うと、しーっ、とものすごくわかりやすいジェスチャーを返してきた。
「ほら、お前らも散れ。暑苦しいんだよ」
どの口で言うんだよ、と自分で思いながらも周りに呼び掛ける。事情はよくわからないが、どうも下駄箱の陰にいる式谷の存在は隠されているらしい。このあいだの恩もこの先五十年分くらいはある。それなら多少はその意図を汲んで手伝ってやろうと思う。これだけ怪我した上級生に偉そうに指示されると素直に従いたくなるのか、下級生には動き出そうとする気配がある。同級生は「偉そう」「なんだお前」の言葉を口々に吐くけれど、ちょうどいい区切りを欲していたのだろう、同じく一旦解散の気配を見せる。
それにしても、と思った。
この二人が隠したがる秘密は何なんだろう。勝手な偏見だけれど、ものすごく牧歌的でファンシーなものな気がする。たとえば捨て犬をうっかり拾ってきてしまったとか――
猫がいるのに気が付いた。
式谷の頭の上に。
「――ふ、」
笑いが洩れた。
そんなことがあるのかよと思ってしまった。顔の下半分を手で押さえる。西山が怪訝そうな顔でこっちを見ている。「何?」と声にも出してくる。こいつは凶暴だし短絡的だからできるだけ注意を遠ざけた方がいい。「いや何でも」と気を取り直す。毅然とした表情を保つ。
雨の中で傘を差し出したり、給食の牛乳を持って帰ったりしたんだろうか。
子ども向けのアニメみたいな感じで。
「ふっ、ふふ……」
「どしたのこいつ」
「急にキモいけど」
「一年に便乗してこいつ追放せんか? キモすぎ罪で」
ガラの悪い女子どもが好き放題言ってくる。千賀上だけが「そんなに言わなくても……」と庇ってくれているが、明らかに本気で「そんなに言わなくても……」と思っているわけではなく、自分を介して式谷の存在がバレることを危惧している。目で訴えてきている。黙ってて、お願い。
もちろん黙っている。
俯く。深く息を吐く。なんだこいつ、の声をものともしない。大丈夫。よし。笑う分は笑い切った。気を取り直す。顔を戻す。そのために一瞬だけ顔を俯ける。視線が下を向く。
猫が。
こっちに向かって歩いてきている。
おい、と思ったが、声に出すわけにもいかない。動くわけにもいかない。まだ千賀上も気付いていない。「あれ、」成海が気付いた。「猫だ」え、ほんとだ。わー。そんなに大したことはない反応。薊原もそう思う。別に猫くらいどこにだっている。馬鹿でかい野犬とかイノシシとかクマとか、そんなのが校舎の中に突っ込んでくるならともかく、このくらいの生き物なら特にリアクションにも値しないと思う。
千賀上が固まっている。
何を大袈裟な、と思っていられるうちが花だった。
猫はそのまま迷いなく近付いてきた。なぜかこっちの足元に。にゃあ、と鳴く。ジャージの裾のあたりを手で触れてくる。妙に人間臭い動きに見える。式谷が下駄箱の陰から出てくる。うわいつからいたの。そんな反応をされても式谷は一顧だにしない。
「ごめんごめん、薊原」
いつもの笑い顔で式谷がしゃがみ込む。猫を捕まえる。抱え上げる。
「何でもない。ちょっと出てくるね」
そんなことを言う。有無を言わせず踵を返す。千賀上が救われたような顔をしている。いつからいたんだよと西山が言う。お、とそこでようやく何かに気付いた倉持が顔を上げる。
でろん、と猫が溶けた。
誰も、何も言えなかった。
意味不明な事態に遭遇したとき、人は何が起こったのか認識するのに時間をかける。もちろん薊原もそうだ。そしてちょっと遅れてそれらしい仮説を思い付く。何かのマジックを見せられたんじゃないかと思った。何かの仕込みをしていたのかもしれない。この二人だといかにもそういうことをやりそうだ。千賀上はいかにもそういうのをネットで発掘してきそうだし、式谷はいかにもそういうのを聞き届けて仕掛けに協力しそうだ。だからそうだ。たぶんそうだ。きっとそうに違いない。
でろんと溶けた猫が床の上でぐねぐね動いている。
そんなわけなくねーか。
なんだよ、これ。
「だいじょうぶ」
声がした。
誰のものでもおかしくはなかった。人がたくさんいたから。一人くらいは声を聞いても顔がわからない生徒がいたっておかしくない。おかしいのはそれがだいぶ下の方から聞こえてきたこと。薊原はもう動けなくなっている。動けないでいると、その溶けた猫の液体がアメリカの超大作SF映画みたいな動きを始めて、アメリカの超大作SF映画みたいな結末を見せてくる。
「ウミちゃんはおぼえてる。ねこはしゃべる、ない。だからウミちゃんはわかる。ねこはちがう、はしゃべる」
人の形になった。
こんな映画を観たことがあるかもしれない、と薊原は思っている。絶対ある。液体がいきなり人間の姿に変わるやつ。人間だけじゃなくて色んな姿に変わるやつ。喋るやつ。こっちをじっと覗き込んでくるやつ。顔に触ってくるやつ。それがぞっとするくらい冷たくて触られた方は動けなくて足が萎えて咄嗟の後退りすらできなくてそれで、
「いたい?」
それで?
「い、なに、」
「いたいはかなしい。ウミちゃんはわかる」
「ちょっと待ってウミちゃん何しようと――」
「ウミちゃんストップ――あ、ストップじゃダメか、」
「だいじょうぶ」
「何が、」
「ウミちゃんは、いたいはだいじょうぶ、を、わかる」
口の中に手が突っ込まれる。
振りほどく力も、絶叫する暇もなかった。




