猫かぶりと学校 ⑤
寛政四年(西暦一七九二年)に、ある漁師の男が小さな舟で沖へ出た。
おれは毎日毎日この海に出ては魚を取っちゃあいるが、海の向こうっ側に辿り着いたことは一度もない。いったい向こうに何があるか気にならんかね。
変わり者の男だったから、村の誰もそれを気にすることはなかった。たっぷりの食糧と水を備えて行ったそうだが、やがて雨の強い日が来て、それでも男は帰ってこない。まさか誰も男が海の向こう側に辿り着いたなんて思っちゃいなかったが、しかしふとした折に人々は思う。あの男は今、どうしているだろうか。
そこにふらりと立ち寄ったのは、洗いざらしの袈裟を羽織った一人の僧だった。
なんでも功徳を積むために、海辺をずうっと歩いて日本を歩き回っているという。名を海行。笠に雨を溜めた海行は、浜辺の家の戸を叩いた。とんとんがらり。
酷い雨に降られてしまって、にっちもさっちもいかなくなってしまった。どうか人助けと思い、一晩泊めてはくれないか。
家の主は大層信心深い、年老いた一人の女だった。老女は喜んで海行を迎え入れると、干魚でもてなした。この気遣いに心を打たれた海行は、袖から袋を取り出すと、なけなしなのだという米で以て老女をもてなした。
食事もすっかり終え、雨音ばかりが粗末な屋根を叩く夜。これぞ機会とばかりに老女は訊ねた。
お坊様、お坊様。海の向こうには何があるのか、ご存知ですか。
海行は答える。
もちろん。海の向こうにはまた国がある。人々が住み、生活を営んでいる。かの弘法大師も、かつてはそこで仏の道を学んだということだ。
老女は感心する。
ははあ、それじゃああの変わり者も、今では仏様の下にいるのかもしれませんねえ。
その言い振りに興味を惹かれた海行は、海へと旅立ったままの男の話を老女から聞いた。
翌日、すっかり雨も上がり、海行は大層念入りに老女に礼を言い、その家を後にした。行く先は二々ヶ浜。元より浜辺を歩くのが海行の常だけれど、このときばかりは違う思惑を持っていた。
男は小さな舟で海の向こうへ行ったとのことだが、弘法大師でさえたいへん大きな舟をこしらえてようやっと唐へと渡ったのだ。まさか男も生きてはおるまい。この広い海で魂が迷わぬように、遠い浜からだが、せめて心ばかりの供養をしてやろう。
ナンマンダブ、ナンマンダブ。
さて、経を唱え終えて浜を後にしようとした海行の耳に、不思議な声が聞こえてきた。
おおい、おおい。
どこから聞こえてくるのだろうと海行はあたりを見回すが、とんと人の姿はない。海鳴りが悪さをしているのか、物の怪の仕業か。いずれにせよ気味が悪い。ぶるり、海行は身を震わせる。
おおい、おおい。
どうやら声は、海の方からやって来るらしかった。海行はしかと目を凝らす。すると、海原のほんの一点にぽつりと、布にできたシミのように黒い影があるのを見つけた。
おおい、おおおい。
影の形が徐々にくっきり見えてきた。どうやらそれは人であるらしい。まさかあの漁師ではないだろうが、ひょっとすると他の流された者であるかもしれない。弔いのために訪れて人の危うきに出くわすとは、これも仏の導きであろうか。海行は大きく手を振って、声も枯らさんばかりに影に向かって呼びかける。
おおおい、おおおい。
おおおい、おおおい。
声はすっかり返ってくる。影はどんどん浜へと近付く。果たしてその影は、舟に乗った人であった。しかし、どうもそれは奇妙である。何十年も嵐の中を彷徨ったようにボロっかけでありながら、今しがた岩場からくりぬかれた玉のように、その舟はつるりと滑らかなのである。
乗っているのは一人の男だったが、櫂を手にする様子もない。ただ舟首のように微動だにせず立ち尽くしていて、おおい、おおい、とは言うものの、あるところでしかと舟を止めて、それ以上は決して近寄ってこないのである。
わたしは海行と申す。そちらは何者か。
大声で海行は訊ねるが、じっと男はこちらを見つめるばかりで答えもしない。吉兆凶兆と思うばかりのほどもなかった。一体その正体何者なるやと見つめ返している間に、音もなく舟から何かが逃げ出したのである。
目を凝らせば、それは溺れる人の姿に見えた。
慌てふためいて海行は袈裟を脱ぎ捨てると、その溺れ者のところへと水をかいて急いだ。かき抱くとすっかり力をなくした痩せた姿だったが、しかし息はある。浜へと連れて帰って袈裟をかけてやると、やがて男は目を覚まし、己が名を口にする。それは、あの晩老女から聞いた漁師の名であった。
もう一度海を見ると、舟は遠ざかって、すっかり見えなくなっていた。
ぱたん、と花野は本を閉じた。
思ったより長かったし、ペリーより早いとか余計なことは書いていなかった。意外とちゃんとした人たちが作ったのかもしれない。目次だけちょっとおかしな人が作ったのかもしれない。そう思ってから、あまりにもちゃんとしすぎているんじゃないかと疑う気持ちが湧いてくる。作り話っぽい。脚色されてそう。そもそも何を元にして書いたんだろう。誰が書いたんだろう。奥付を見ても何もない。表紙にも何もなくて、裏には『二々ヶ浜の民話編纂委員会』と書かれている。
誰だよ。
窓から差し込む日差しは、じりじりと強くなり始めていた。エントランスの強い冷房に当たっていてもまだ汗が滲みかけるくらい。セミも大層元気に鳴いている。さっさと帰った方が炎天下で移動する羽目にならなくて楽なのはわかっているけれど、少しの間だけ次の行動を起こすまでの助走が必要で、その隙間を思考が埋める。
進化論、進化論裁判、社会進化論。
あの日、宇垣が言った三つのこと。
もちろん花野はそれらをすぐに調べた。授業中だってわからない言葉が出てきたらすぐに教科書資料集辞書のどれかに当たる。それと同じようにパソコンを使って――もちろんネットの情報なんて大抵は当てにならないから絽奈のアドバイスに従って大学のドメインなんかが表示されたサイトを中心に――ここ数日で、軽く調べておいた。
進化論は、まずいい。学校で習うようなやつだ。『種の起源』とかダーウィンとかテストで書かされるやつ。自然選択論。イギリスガラパゴス始祖鳥ハイギョ。藻コケシダ裸子被子。魚類両生爬虫鳥哺乳類。進化は遺伝子の変化であって個体の生存中にある変化は変態とかそういうやつ。キリンが高いところの葉っぱを食べたくて首を伸ばしたというのはよくある誤解で進化それ自体には目的がない。そんな感じのところ。
次に進化論裁判。
これはいまいちネットで見つからなかったから、辞書とか辞典とかそういうのも引きながら調べた。
驚くべきことに、かつてアメリカには進化論を教えることを禁じる州法があったらしい。しかもこれは――ダーウィンが十九世紀の人であることを考えると妥当と言えば妥当なのかもしれないけれど――二十世紀中盤くらいまで存在していた。それを巡って行われた裁判。天動説だの何だのをやっていたのが十七世紀くらいとして、そこから三世紀――遠く離れた三百年後の話。
このあたりまでは、何となく花野も宇垣がこの言葉を口にした理由が読めていた。
選挙ポスターを貼りに来て宇垣に水を浴びせかけて帰ったあの男は、学校教育に介入しようとしていたんじゃないかと思ったのだ。
実を言うと、これはこのあたりでは結構よくある話だ。学校の前で宗教勧誘が頻繁に行われていた時期もあるし、無視しているのに突然自転車の前カゴに勝手に教典だか何だかを詰め込まれたこともある。後で料金請求をされることもあるからと宇垣がその団体に問い合わせ、最終的に学校のどこかを倉庫にして保管してあるらしい。それからアンケートだの大会だのと称して怪しい団体から何かのシートを記入させられたり、どこそこの会合に出席せいだのと言われた回数だってそこそこある。妹の話では、そういう状況を危惧して小学校の保護者会も過敏になっており、地区子ども会のラジオ体操の会場が寺になっていることに関してすら疑義が呈され始めていると言う。
結構、予想できる。
何ならちょっと目を瞑れば、瞼の裏にありありと思い描くことができる。動画サイトなんかにある馬鹿みたいな歴史ファンタジーを学校に導入しろとか地域の人間が言い出す様。漢字の本当の発祥の地は日本ですとか、何百年も前から日本という国は世界の他の地域に先駆けて文明を持っておりまして世界は日本を大変称賛していて類を見なくて特殊で素晴らしい民族で神のご加護があって神の国で――最近いつもトレンドに入っているから、一度も動画を再生したこともないのに大体主張を覚えてしまった。ああいうことを教え込んで来ようとしてくる様。
勘弁してくれ、と思う。
ここまでは、鼻で笑っていられた。
が、次のワードを調べているうちに、一気にわからなくなった。
社会進化論。
見た限りでは、かなりそのままの意味らしい。ダーウィンの唱えた進化論を、生物だけじゃなく社会にまで射程を広げて論じる。だから社会進化論。しかしこれが字面から予想するよりも遥かに大きな惨事を引き起こしている。帝国主義とか、ファシズムとか。強い者が生き残って弱い者は死んで当然とか、そういう思想に正当性を与えていったらしい。
しかしこれをどうまとめればいいのか、まだ花野は自分の中で整理を付けられていない。
生物学の理論をそのまま社会に拡張した結果起こった惨事……というだけでもない気がする。進化した社会とそうでない社会があって、だから進化した社会の方が優れているとかそういうのは、そもそも進化に対する理解が間違っていると思う。というか全然違う。誰か言ってておかしいと思わなかったのか。おかしいと思ってて言っていたのか。しかし同時にこうも思う。
多分、自分も引っかかっていた。
進化論の話から社会進化論の話に進むステップを、ちゃんと踏んでいなかったら。
進化論の基礎的な部分を理解する前に社会進化論とごちゃまぜで教えられたら――それこそ学校で、何の防御もしていない状態で教えられたら、多分自分もそれを何となく信じてた。ちゃんとした進化論の話を教えてくれる人が――宇垣みたいな教師がいなかったら、全然普通に、こういう話を受け入れていた。
賢いとか賢くないとかの問題じゃないんだと思う。
肩書はすごいけれど生物学が専門というわけではないらしい大人たちが、明らかにこのあたりを気にせずに進化論を誤用しているところを見たり。「生物の究極の目標は種の保存で~」なんて当たり前のように書いているのに最初は「誰に聞いてきたんだよ」と眉を顰めて、そのあと「もしかしたら自分の知らないところで誰かが本当にそういうこと科学的にまとめているのかもしれない」と不安になって調べたり。調べた結果「そうじゃない」とはっきり言っているのを見つけて、安心して、でも本当にそれを信じていいのかと不安になって、それを書いた人の経歴や書かれた日付を調べたりして、そういうことをしているうちに。
たぶん、と思った。
自分も、こういうことを呑み込まされている。
変な進化論を語る人の言うことを信じてしまうみたいに、何かの科学的修飾だったりなんだりを真に受けて、全然見当はずれのことを無意識のうちに信じ込まされている。当然のことだと思い込まされている。
科学のように見えて、科学ではないもの。
それとも単に、間違った科学?
教科書にあるから。学校で習ったから。たったそれだけで色々なものを無防備に受け入れている自分は、「図書館にその本が置いてあるから」という理由でスピリチュアルだとかトンデモ医療だとかインチキの歴史だとかを信じている人間と何が違うのだろう。再生数狙いが見え見えの怪しいあの動画は? 宗教は? フェイクニュースは? 今日の運勢は何?
正しいことって何だろう。
自分は今、一体どこにいるんだろう。
……なんて、あんまり考えすぎているとおかしくなる。
そう思うから花野は深い溜息を吐いて、一旦思考を止めることにした。
夏季講習の後にでも宇垣を捕まえて少し話を聞かせてもらおう。そうじゃなかったらちょうど学校に来ているみたいだし――どうせ式谷に会いに来たとかそんなところだろうけど――絽奈に相談に乗ってもらおう。絽奈は中間テストで漢字と英語の綴りがヤバすぎて凄まじい答案を紡ぎ出していたけれど、そういうところに目を瞑るとこういう方面ではかなり頼りになる。それにほら、何せ自分の運営するチャンネルの全ての動画の頭に『このお話は、全部デタラメです』『現実とフィクションの区別をつけてからご視聴ください』なんて注意書きを付けているくらいだし――
あれ、
もしかして、それも繋がっているんだろうか。
『――大学の現場に来ています』
テレビから聞こえてくる音を頼りに、花野は思考をもう一度振り払った。
映っているのは何となく見覚えのある門だった。右下のワイプにはあんまり好きじゃないというかなんでこんな奴いつまでもテレビに出てんだと見るたびに文句が湧いてくるコメンテーター。右上には『突然のキャンパス封鎖』『警察と消防が大出動……一体何が』の文字。
ああ、あれか。
『現在も大学の封鎖は続いているんでしょうか?』
『――はい。ご覧の通り、連日警察と消防が詰めかけ、規制線も張られています。一切立ち入りができないというのが現状です』
『原因については、まだ現場でも何も情報を得られていない?』
『――はい。警察に聞き込みも行っていますが、「現在捜査中につき情報提供はできない」とのことで、今日まで何も発表はありません』
『なるほど。そうなると学生さんなんかも大変ですよね。現場の状況はどうなんでしょう?』
『――はい。では、早速その学生さんの一人にお話を聞いてみたいと思います』
『いやー! マジで困ってます! 図書館も何も使えないし!』
花野は、二回瞬きをした。
立ち上がって、テレビの前に寄っていった。さらにもう一回瞬きをした。
『金がないんでこの夏は図書館使って勉強するつもりだったんですけどねー。いや全然ダメ! この期間の学費、日割りで返してほしいですね!』
『なるほど。やはり勉学に支障が出ていますか』
ちょうど小学校なんかも入れ違いだから、そんなに見覚えがあるわけでもない。
が、何となく毎日会っている顔の面影もあって、かなりの確度でそうだと思う。
『そうですね! 勉強しに大学来たのに困ってますよ、ほんと!』
式谷姉だ。
式谷の姉――式谷葵が、弟と似たような感じの機嫌良さそうな笑みを浮かべて、東京でインタビューに答えている。
すごく、
すごく変な感じが、する。
ここから抜け出して、そんなことになっている人が存在しているという事実を、こんな公民館のうらぶれたエントランスの、ちゃちなテレビの前で見ているのが、すごく。
『一応夏休み期間だから、講義とかそういうのはないんですけど』
『あ、なるほど』
『仕方ないんでバイト詰め込んで学費に余裕持たせようかなーって感じです! でも一番大変なのは講師陣かな』
『というのは?』
『大学の夏休みって、学生は休みだけど講師陣からしてみれば研究期間なんですよ。自分の研究進めたり学会発表行ったりなんだりで。だから自分の研究室使えないのもキツそうだし、実験系の人なんか特に困ってるんじゃないかなー、と思います!』
『ありがとうございます。以上、現場からの声でした。スタジオにお返ししますね』
『――なるほど。大学の夏休みというのはそういう期間でもあるんですね。なかなかそうなると、日本の研究力や国際的な競争力の低下が嘆かれる昨今、こういった事件が起こってしまうのもかなりの痛手に思えてしまいますが……。どうでしょうか、伊刈さん』
『まあそうですね。警察の発表がどうとか色々言いたいことはあるんですが、その前にまず、今のインタビューを受けてくれた大学生、声がでっかくてキャラが……』
あんまり好きじゃないコメンテーターが半笑いで喋り出す。スタジオが湧く。
いつもだったらさっさとテレビから離れてしまうけれど、しかし花野はしばらくそこに立っていた。式谷姉はもう映っていない。それでもまだ、そこにいる気がした。すごく――すごく変な話だと自分でも思うけれど、何かがそこにある気がした。
今の自分とその場所を繋ぐ何かが、まだそこに残っている気がした。
だから、その男に気付かなかったんだと思う。
気付いたのは少し遅れてのことだったから、そのときには男はもうこっちを見ていなかった。けれど多分、それまではこっちを見ていたんじゃないかと思う。ぺらぺらと本を捲る手つきが異様に速い。三十秒とか、一分とか、そのくらいの時間も保たずに一番最後のページまで辿り着いてしまう。表紙をじろじろと眺めている。
『二々ヶ浜の民話』
自分が椅子の上に置きっぱなしにした本を手に取って眺めている、中年の男がいる。
「お前、」
こっちを見た。
ぎくり、と肩が跳ねる。
「こんなところに置いておきっぱなしでふざけんじゃねえぞ! 図書館の本を!」
よりにもよって説教ジジイ、と顔には出さずに花野は思った。
見覚えがあった。市会議員で、夏合宿のバイト先にも去年までいた奴だ。一度も花野はそこに行ったことがないけれど、確か相田と瀬尾の二人が行って「てめえ二度と連絡してくるんじゃねえぞ」とブチギレて帰ってきた奴。こっちへの仕事内容の説明に『老人介護』と書いておいて実際にはその親だけじゃなく本人の世話も含めた家事全般と庭と畑の整備と粗大ゴミの処分までさせてきて、さらに例年全く報酬を学校に寄付してこなかったらしい。
断ったら断ったで今度は「今のガキどもにはボランティア精神や地域貢献の意識が欠けている」「社会の厳しさがわかってない」「俺の頃はこんなんじゃなかった」「大体中学生がバイトなんかしていいと思ってんのか」「役所に言うからな」「ガキが目上の人間に逆らうな」「議員を舐めてタダで済むと思うなよ俺は市民の代表なんだ」「俺を敵に回すってことは市を敵に回すってことだからな」「人権だのなんだの嘘八百を教え込まれて自分が一端の人間だと勘違いしてるんじゃないのか」と電話で怒鳴り込んできた。学校の電話は基本的に教職員がいないときは不通に設定されているけれど、災害時やバイト先で何かあったときのために緊急用として繋がる番号が一つだけある。最初にうっかり慌ててその電話を取ってしまったのは当時一年の大和田で、その電話を引き継いだのが式谷。最初の頃は二人でいたのが、十五分経つころには周りにかなりの数の生徒が集まった。大和田はうっかりこんな電話を取ってしまった責任を感じてものすごく申し訳なさそうな顔をしていて、それを気にしたのか式谷は受話器を耳と肩の間に挟んで「はい、はい」「なるほど、そういう風にお考えなんですね」と適当な相槌を打ちながら両手の人差し指を出した。相手の指を叩いて五を作るあの指遊び。たっぷり三時間。はーいどうも、と式谷はフックを指で押してから受話器を置いて、うん、と背伸びをして、大和田、それから途中から学校に戻ってきていた相田と瀬尾に向かってこう言った。
セミみたいなもんだから。
「名前言え、名前! 学校に連絡入れるからな!」
なんでこんな奴が選ばれてるんだろう、と思うことが日々の生活の中で多々ある。
最悪なのはそいつがこの世にいることじゃなくて、そいつがたくさんの人間に支持されていることだと思う。それなりに頑張って学校を少しでも過ごしやすい場所に整えているつもりだけど、こういうのを見るたびにもしかして自分はものすごく馬鹿みたいなことをしてるんじゃないかと感じることがある。
だって、どうせ学校から出たらみんなこういう奴になっていくんだから。
「はあ。すんません」
「すみませんじゃなくて名前を言えって言ってんだよ! 耳ついてねえのか!」
式谷に倣って適当に相手をしようかとも思ったけれど、どう見ても説教ジジイはヒートアップしていて、暴行事件への発展までそれほど猶予もなさそうに見える。電話と対面では全然違う。口を利いたのは失敗だったかもな、と思う。
「ったく女はバカだから話も聞けない……。おい、どこのガキだ! 親は!? おい!!」
どうしようかな、と花野は考えている。
実際、本は図書館の方に返したい。が、どう考えてもああいう手合いには近付かない方がいい。相田と瀬尾は恫喝しきりで説教ジジイに対処したけれど、ああいうのは結局二人がかりなら絶対負けないという自信があるからできることだ。身長が二人合わせて優に三メートル以上あるからそういう態度に出られるわけで、自分の場合は残念ながらそうではない。銃社会ってこういうときは便利なんだろうなと思う。
まあでも、
走っていって、本だけ奪って逃げる感じならいけるかも。
そう思ったとき、入り口の自動ドアが重々しく開く音が聞こえた。
「え、」
ほとんどリアクションする暇もなかった。
汗まみれの岩崎が、テレビの前に立っている自分のところまで猛スピードで近付いてきて、手を取って、有無を言わせず引っ張ってきたから。
閉まり始めた自動ドアがもう一度止められて、ガコン、と怪しい音を立てた。逃げんな、と後ろから背中から声がする。岩崎は一瞥すらくれない。ずんずん進んでいって、ロータリーも抜ける。そのまま駐車場の外にすら出ていく。門の先へ。老人ばっかり住んでるらしい単身アパートを過ぎて、めっきり手入れされなくなって草まみれになった総合運動場。車の通らない道。止まれ、の白文字の傍を風を切って走る。花野は岩崎の速度に追いつけない。足がもつれる。転びそうになる。タン、とスニーカーの裏がアスファルトの上で大きな音を立てる。
「――ちょっと、待って、何、」
そこでようやく、岩崎を引っ張り返すことができた。ぴた、と意外なほど素直に岩崎は止まる。
振り返る。
ほとんど泣きそうな顔。
「あいつ、」
普段の岩崎からは想像もつかないようなか細い声。言葉に詰まっている。絞り出すようにして、
「近付かないで。絶対。絶対ダメだから」
「……うん」
わかった、と花野は答えた。
この街で起こる全てのことを、もちろん花野は知っているわけではない。それどころか、学校で起こっていることすらも。
去年だってそうだった。三年生が知らなくて二年生だけが知っていることもある。自分が知らなくて、岩崎だけが知っていることもある。それだけじゃない。世界は学校だけじゃないから、家の中にだって、そうじゃなければ家の外にだって、どこにだって、いくらだって知らないことがある。
だから素直に、花野は岩崎の忠告を聞いた。
その発言の背景も深くは言わないのだから、今のところは深くは訊かない。この場で余裕がないのは岩崎の方で、余裕があるのは自分の方。顔を見ればわかる。だから自分が察して、自分が優しくする。
でも、それはそれとして、
「ありがとね。岩崎」
「…………うん」
「でも腕千切れるわ」
えっ、と言って岩崎が手を離す。ほら見てみ、と花野は右腕を掲げる。手首のあたりに、ホラー映画みたいに真っ赤な手形の跡。
えっえっ、と急に岩崎は慌てて、
「弱っ」
「おい」
「いや花野ちゃん虚弱すぎ――え、だいじょぶそれ? 私そんなんなったことないからわかんない。痛くないの? 痛い?」
もちろん痛くはないが、ちょっとだけ花野は思う。岩崎の動きは激しすぎて、なんだか最近近寄るたびに肉体的なダメージを負っているような気がする。自分はどちらかと言うと文化系なのでかえって一個下の学年委員が運動系なのは好相性だと去年は思っていたけれど、二人三脚で運動系と文化系が組んだら大惨事になるみたいなやつが起こっているのかもしれない。昔に近所の爺さんが飼っていた土佐犬みたいな馬鹿でかい犬のリードを握ってとんでもない目に遭った記憶が蘇る。あの爺さんもめっきり見なくなったが、元気にしているだろうか。
「大丈夫。ほら、色戻ってきた。他の奴らは? 陸部はもう終わった?」
「あ、うん。もう気温上がってきたから今日は終わり。でも花野ちゃんが帰り一人になっちゃうと思ったから、」
私は水飲むついでに、と岩崎が言う。確かに公民館の中には給水機がある。図書館の中に雀がいたことを考えると果たしてどの程度清潔なのだろうという疑問がないでもないが、冷静に考えれば公園なんかにある水飲み場なんかはもっとひどいし、気にすることでもないのかもしれない。
でも、そうか。
心配して来てくれたわけだ。
そうと確かめたから、花野は辺りを見回した。たぶん、と思う。総合運動場の脇。ところどころに穴の開いた、元は水色だろう錆びて色褪せたフェンスの向こう。真っ赤な自動販売機が二台、背中を向けて並んで立っているのが見える。
ちょっと歩いて出入口、試しに押してみた。
南京錠は、とっくの昔に壊れていたらしい。
「岩崎、こっち」
「そっちから?」
それなりの距離を、岩崎は軽やかに詰めてくる。ふと思う。自転車を駐輪場に置いてきてしまった。家に帰るアシがない。流石にすぐに戻る気にはならない。正門からじゃなければ夜中でも公民館の敷地には出入りし放題だから、日が暮れてから誰かに回収についてきてもらうか。
そのことも、やっぱりともかくとして、
「水、飲みそこねたんでしょ。ジュース奢る」
至近距離で通信ラグが発生した。
通信制限がかかったインターネットのような速度で岩崎が反応する。じわじわと表情が変わっていく。
「――マジ!? 富豪!?」
マジ、と答えて花野は先を行く。
普段だったら絶対買わない。五百ミリリットルに三百円かけたり三百ミリリットルに二百円出したりなんて倹約家の自分は絶対にしない。三本買ったら時給に匹敵するのだ。どう考えても学校に戻って水道水をガブ飲みしていた方が賢い。
が、こういうときはこういうことがしたくなる。
何飲もっかな、と今泣いたカラスがもう笑う。スキップするような足取りの岩崎と一緒に、自販機まで歩く。裏に回る。
盛大に破壊されていた。
主に小銭の受け入れ口のあたりが、念入りに。
ところで総合運動場は無駄に広い。こっちの入り口のあたりはそうとも感じないけれど、奥の方は野球場くらいの広さがある。というか昔は実際に野球場に使われていたらしい。誰も整備していないから荒れ放題だけれど、とにかく広い。だから色んなものと距離があって、空を遮るものがほとんどない。夏は昼に向けて勢力を増している。空がものすごく青い。雲がものすごく白い。テレビでよくやる青春アニメとか戦争映画みたいな大袈裟振りで、セミがミンミン鳴いている。
ぽたり、岩崎の顎の先から汗が落ちる。アスファルトに吸われてすぐに乾く。花野もじわり、背中に汗をかく気配がある。背中が熱い。
隣を見たのは、どっちが先か。
そりゃそうかと笑えば、すっかりどこにでもある夏だった。




