猫かぶりと学校 ④
「えっ、一人で自転車で来たの?」
「そうだけど」
「危ないよ~……。結構絽奈の家、学校と距離あるんだから」
ふふん、と胸を張ったら、普通に心配されてしまった。
晶が去ってからもしばらく、絽奈は湊に「可愛い」と「似合う」を連呼され続けた。最初の頃は「こいつは……」という気分だったけれど、段々慣れてきた。よく考えなくてもいつものことだから。別にそれで本当に自分が可愛いとか制服が似合ってるとかそんなことを思うわけではないけれど、こういうのは何の含みもないとわかっているなら適当に良い気分になっていくのが正解なんじゃないかと最近は感じ始めている。
ひとしきりそれが終われば、「あ、ごめん」と湊が身を引いた。「汗めっちゃかいてるから臭いかも」一応首のあたりをちょっと嗅いでみたけれど、別に臭くはなかった。万年花粉症か鼻炎かどっちかで鼻が詰まり気味だからこっちの嗅覚の問題かもしれない。
「危ないって、私のこと赤ちゃんか何かだと思ってる? 学校来るくらい普通でしょ。普通。自転車も乗れるし」
「いや、今って不審者とかすごい出るからみんなどこかに行くときはできる限り二人以上で行動しましょうねってなってるんだよ」
「……嘘。晶ちゃん、今ひとりで外行ったじゃん」
「図書館は自転車で五分くらいでしょ。あのへん今、陸上部とかも周りにいるし」
「…………」
「今度から学校行きたいなってなったら連絡してよ。迎えに行くから」
それじゃ意味ないでしょ、と思った。
忙しそうだからこっちから来たのに、そういうことをするとさらに湊のやることが増えて意味がなくなる。そう思うから、ふん、と絽奈はそのところだけそっぽを向いて答えない。
この流れだと「帰りは送るから」と話が繋がりそうな気がして、しかも自分は今のところそれを撥ね退けるだけの主張を持っていないから、
「それより、ねえ。相談」
絽奈は、誤魔化しと先延ばしと本題に入る。
「相談? 何?」
「ウミちゃんのこと。電話でするのもアレだったから」
一応絽奈は夏合宿の間、湊が家に遊びに来ない日も毎日一時間くらいは電話やらチャットやらはしている。夜とか、朝とか。どこか空いた時間に。次の日には忘れてしまうような話ばかりしているけれど、何となく習慣として。けれどそれがここ数日は滞っていた。理由は二つ。向こうが忙しそうだ、と思ったから。もう一つは、ずっと付きっ切りでやっていたから。
「ウミちゃん、だいぶ喋れるようになってきたんだけど」
言葉の手解き。
「あ、ほんと? すごいよね、ウミちゃん。教えられる絽奈もだけど」
「まあね――って言いたいけど、ウミちゃんがすごいだけかも。私がウミちゃんでも絶対こんな早く喋れるようにならないし」
「そんなに?」
ちょっと待って、と一応持ってきたスクールバッグに手を入れる。端末を取り出して、アルバムから動画を選ぶ。
再生。
『みなとはきこえる? ろなはいった。だから、ウミちゃんはしゃべる。しゃべった。きこえる? わかる?』
再生終了。
唖然とした顔の湊に、絽奈は強く共感を覚えている。
「――ぺらぺらじゃん!」
「でしょ」
細かいこともちょっと解説する。簡単な助詞は教えられたけれど、動詞の活用だの助動詞だのは自分でも人に上手く説明できるほど体系化して覚えられているわけじゃないから後回しにしている。動詞の過去形は一対一で対応しながら覚えていってくれているけれど、これは連用形活用の例を覚えていってくれていると考えてもいいと思うので、ここを取っ掛かりにしてそんなに遠くないうちにその後回しも処理できると思う。テレビを観ている横で解説しながら単語の語彙を増やしているのだけど、最近は言葉の意味のみならずその意味に関連した抽象的なことであったり、関連した知識についても興味を持つ素振りや言葉を発するようになった。
へええ、と感心したように湊は、
「絽奈って頭良いよね」
「話聞いてた?」
「聞いてたよ。ウミちゃんも頭良いってことでしょ。……あれ。さっき『言った』と『喋った』の使い分けできてなかった?」
「そう! すごいでしょ!」
他にもね、と興奮しかけて、ハッと絽奈は我に返る。違う。そっちがメインではない。確かにウミちゃんが日本語をぺらぺら喋れるようになってきていることに覚えた感動とか驚嘆とかワクワクとかそういうのを共有したい思いはあるけれど今日の主目的はそっちではなくていやダメだ我慢できないもうちょっと喋る。それでね接続詞も簡単なやつを覚えてくれたみたいなんだけどその使い方がすごく綺麗だしそもそもそれが通ったっていうことはある程度論理的な思考能力が私たちのと似てるってことだと思うんだけどそれってつまり普段から私たちと同じような視点で世界を観察してるってことだと思わない? きゃっきゃ、と式谷も楽しんでくれているように見えたから、さらに絽奈の語りはヒートアップしていく。
ハッ、ともう一度我に返る。
「ま、まあ。そのことは置いておくとして」
「えー、面白いからもっと教えてよ」
「――そう?」
「うん。二日くらい行けなかった間にそんなに変わると思わなかったから。ごめんね急にそっち行けなくなって……あ、結局大丈夫だった? あの買い直してきたやつ」
「うん。ありがと。湊の言った通りウミちゃんやっぱり甘いもの好きみたいで――思い出した。割り勘のお金」
「思い出さないで」
「ダメ。こういうのはちゃんとするから。スーパーで買ったのは結局ダメになっちゃった……っていうか、置いてきちゃったんでしょ。そっちも払うから。レシートある?」
「ないし、そっちもいいって。スーパーの方なんか絽奈と全然関係ない理由でダメにしちゃっただけだし」
「関係なくない。二人で行ったら二人で同じことしたんだから」
いくらなの、と絽奈は財布を取り出そうとした。
財布を家に忘れてきたことに気が付いた。
「――で、本題なんだけど」
「貸す? 自販機代くらいあった方が安心だと思うけど」
見透かすな一瞬で、と絽奈は思う。あれだけカッコつけておいての急ないたたまれなさに身の置き場がなくなる。しかしそれを見せるのもなんだかなという程度の自意識はあるものだからそれを態度に前面に押し出して、
「――別にいい。いざってときになったら貸して。それより、本題!」
「はい」
「湊って、『方舟会』に伝手あったりする?」
えぇ、と怪訝そうな顔。
だから絽奈も、気を取り直して一から説明する。ウミちゃんがものすごくちゃんと喋り出したきっかけ。そのあと色々な言葉を教えるうちに聞き出せたこと。
友達を探しに来たんだって、と。
「で、あのときに見た『方舟会』の写真があったでしょ。あれがウミちゃんの友達なんじゃないかと思うんだけど」
「……なるほどね。話はわかった」
わかったんだけど、うーん、と。
湊が考え込む様子を、ちょっと珍しく絽奈は見ていた。あんまりこの手のイエスかノーで答えられる質問に時間をかけるイメージはない。何となく嫌な予感がしたから、
「ある? ない? どっち?」
「ない、けど」
「けど?」
「その情報集めるにしてもどうしようかなと思って。僕も今あんまりIRの方に行きたくないから。……まあでも、適当にそのへんで入信したふりしちゃえばいいのか。信者の人とかから経由して情報取ればいいんだし」
「いいと思う?」
じとっ、と絽奈は湊を見つめる。
ん、と湊はそれを受け止めて、
「ダメ?」
「ダメに決まってるでしょ。入信した『ふり』してるつもりでも途中から本気で信じ始めちゃったらどうするの」
「ないと思うけど。だってウミちゃんの友達のこと御神体とか言って持ち上げてる団体なんでしょ? インチキじゃん」
「そうやって舐めてかかる人に限って危ないの。普通の人って嘘吐かれるのに慣れてないんだから。飲みものに幻覚剤なんか混ぜて神秘体験させるようなところだってあるらしいし、今はそうやって言ってられるけど、うっかりそういうのまで――」
信じることだって、とインターネットで見た聞きかじりの説教を絽奈はしようとする。その途中で、ふと止まる。
あれ。
ウミちゃんの友達が御神体だっていうのは、インチキでいいんだっけ。
「――絽奈? 大丈夫?」
おーい、と顔の前で手を振られて、遅れて驚いた。
ふるふると頭を横に振って、余計な思考を飛ばす。なんだかぼーっとしているのかもしれない。「熱中症?」と心配そうに覗き込まれるけれど、たぶん違う。久しぶりに外に出たからだ。いきなり色んな景色を見て、その中で話し込んだりなんかしたものだから、摂取した情報の量が多すぎて脳が疲れ始めているんだと思う。二人で電車に乗って出かけたときも全然まともに歩けなくて壁とかにぶつかりそうになって結局湊の背中を頑張って睨み付けながら家まで帰ったっけ。今日の帰りはどうしよう。でも、その前に。
とにかく、と決めた。
この友達は危なっかしいから、自分が引きずってでも止めなくちゃ。
「さっきの話は一旦保留。湊も危ないことしなくていいから。もうちょっと私もネットとか使って調べてみるし、ウミちゃんも話せる言葉が増えてきたらまた何か教えてくれるかもしれないし。まずはそれを待って、それからまた相談させて」
「りょーかい。こっちもできる限りその間に調べてみるよ」
「聞いてた?」
「聞いてたけど、絽奈が心配してくれてるのって直接接触するのは危ないってところでしょ? 別に街に出たり信者の人と接触したりしなくてもできることはあるだろうし、そういうのはいいよね?」
「……あんまりそもそも、宗教とかそういうの自体に触って欲しくないって言ったら?」
「心配してもらって嬉しいから、心配させないように頑張ります」
にっこりと湊は笑う。
何か誤魔化されてる気がする、と絽奈は思う。「本当にわかってる?」と重ねて訊く。うん、と頷く。それよりさ、と湊が言う。同じことを後で五回くらいはしっかり言い含めておかなくちゃ、と絽奈はひそかに思う。
「ウミちゃんの話って、あんまり人に知らせない方がいい? あと二日くらいは外に出られないだろうから、聞き込むにしても学校の中が中心になっちゃうんだけど。ほのめかしとかもあんまりしない方がいいよね?」
意外と実用的な質問。
だから絽奈も一旦頭を切り替えて、
「うーん……。まあ、そうだね。御神体を探してるとかは言わない方がいいかも。どこから洩れるかわかんないし。ただ私も晶ちゃんとかには『ちょっと不思議な海の生き物』くらいのところまでは喋っちゃってるから……うーん」
「ろなはよんだ?」
「呼んでないよ。大丈夫。うーん……」
「……猫が喋ったのかと思った」
何言ってんの、と絽奈は湊を見た。
すごい汗だし、熱中症なのはこっちなんじゃないかと思った。猫が喋ったって自分のことだろうか。猫が喋るわけない。ありうるとしたらそれはウミちゃんみたいな言葉を喋れて形もぐねぐね変えられる生き物が猫のふりをしているだけだと思う。
嫌な予感がじわじわ足元から上ってきた。
なんだかさっき、最近いつもやっているみたいに考えごとをしながら質問に答えた気がする。
すり、と足元にやわらかい感触がして、ひんやり冷たい。
「ウミちゃんか。びっくりした」
「ウミちゃんはウミちゃん。みなとはおどろく、なに?」
「来てると思わなかったから。おはよう、ウミちゃん」
「おはよう、みなと」
湊が屈み込む。うわっと、と驚いたように声を上げる。それから面白がるように笑って、そのまま立ち上がる。
だから見下ろすまでもなく、絽奈の視界にそれは入ってくる。
猫の姿をした、ウミちゃん。
「――な、」
なんで、と思う。
どうやってバランスを取っているのか絽奈にはさっぱりわからない。湊の頭の上にでろりと腕を乗せて、肩の辺りに足を乗せて、随分器用にそこにいる。今頃自分の部屋にいてテレビを観て、当たり障りのない動物番組を見ているはずの、まだ図鑑に名前のない友達。
普通に。
渦中の存在――ウミが、学校に来ていた。
「――なんで来ちゃったの!?」
「え、一緒に来たんじゃないの?」
「きた。ろな、うしろ。ウミちゃんはうごく」
「追いかけて来たんだ。暑かったでしょー」
「あつかった、なに?」
「暑いの過去形……って言ってわかるかな」
「ウミちゃんはかこけいをわかる。あつかった、ない」
「ほんと? 今日は風があるからかな」
こらこらこら、と絽奈は暢気に話し始めた湊の頭の上からウミを奪う。でろりん、とものすごく変な感触がする。冗談みたいに胴が伸びる。たぶんウミちゃんは猫に触ったことがないからこのあたりを適当に想像で作っているんだろうと思う。テレビで見た変な猫をさらに誇張しているんだと思う。イメージがそのまま出力されているみたいで面白い。冷たくて気持ち良い。違うそうじゃない。
「待っててって言ったよね……?」
「ろなはまっててをいった。しかし、ウミちゃんはいえーをいった」
「『いえー』って言ったんでしょ!」
「いった」
「……?」
あれ、と思う。
何かがおかしい気がした。
「それさ。ウミちゃん、『いえー』のこと、『いいえ』の変形だと思ってるんじゃないの?」
「へんけい、なに」
「えーっとね。形を変えるってこと。この場合だと『いえー』と『いいえ』が言い方だけ違って同じ意味だと勘違いしちゃってること……あれ。これじゃ説明変かも、ごめん」
「だいじょうぶ。ウミちゃんはわかる。いえーといいえはだいたいおなじ、しかし、ちょっとちがう。いえーはいいえ、ちがう。だから、いえー、なに?」
「ごめん、僕の方がよくわかんなくなっちゃった」
「……『うん』とか『そうだ』とか『わかった』と同じ。この場合は」
コミュニケーションエラーだ。
そうかこういうこともあるのか、と絽奈は反省している。部屋の中でももちろんこの手のすれ違いはあった。はずだ。けれどずっと自分が部屋の中にいたおかげで大した問題に発展することがなく、そのせいでこのことを全然意識したり、警戒したりしてこなかったのだ。
「ウミちゃんはいいえ。ろなはそうだ。はなす、ちがった?」
「……うん、違った。ごめんね、私もよく確認すればよかった」
「かくにん、なに?」
「たしかめること。『合ってる』が本当に『合ってる』なのか『違う』なのかを思ったり、話したりすること」
「かくにん。たしかめる。かくにんはめいし、たしかめるはどうし。あってる?」
「おおっ、僕より文法詳しい」
合ってる、とウミには答えつつ、それはもうちょっと勉強して、と湊には思う。
いやしかし大丈夫だ。まだ全然問題ない。今のところ何も状況は変わってない。ウミちゃんのことを知っているのは自分と湊だけ。その構図は変わっていない。だから、絽奈は決めた。今のうちに対策してしまおう。
ウミが「つぎに、ウミちゃんはたしかめる。ろなははなす、ウミちゃんはおもう。あってる? を」と呟き「すごすぎる」と湊からの大絶賛を受けているところに、
「ウミちゃん、ちょっとだけ聞いて。外に出たときに覚えておいてほしいこと」
「ウミちゃんはおぼえる、なに?」
「まず、猫の姿のままで人間の言葉を使ってるとすごく怪しまれる。人は警戒する。警戒は驚くの仲間。もうちょっと、うーん……」
悩んでから絽奈は湊にウミを渡して、眉間に皺を寄せて犬歯を見せるようにしながら両手を肩の辺りに掲げて、
「こんな感じ。グルルルルルル……」
「かわいー」
「これはかわいい? ウミちゃんはおなじ」
「――湊は余計なこと言わないで!」
はいすみません、と湊は大人しく引き下がる。しかしウミの方はもうすっかりこういうやり方に慣れているから、さらに質問を重ねる。
「だから、ねこははなす、ない?」
「そう、猫の形になってるときは話さないようにして。あ、私と湊しかいないときは、普通にこうやって喋っててもいいけど」
「しかしウミちゃんはねこはしゃべった」
「え、」
「そっち、ひとはいた。ひとは『にゃあ』をいった。ひとはわらうをした。だからウミちゃんはおもった。『にゃあ』はおはようはおなじ。だからウミちゃんはいった」
にゃあ。
絽奈は考え込む。全然セーフ、なのだろうか。まだ大丈夫、なのだろうか。今聞こえた『にゃあ』はかなりネコの言葉に近かったけれど、それはネコの姿の先入観があるからそう感じるだけで客観的に聞けばかなり人っぽかった気もする。でも人は先入観からある程度逃れられないと思う。じゃあ大丈夫か。セーフか。セーフなのか?
一応、
「……もう一回、今のやってもらっていい?」
「にゃあ」
「あれ、なんか猫の声した?」
全然関係のない方から声がした。
心臓が制服を突き破って飛び出すかと思った。
ひゅ、と息を呑む。咄嗟に人差し指を顔の前に立てる。静かに、のジェスチャー。ウミは理解している。もうにゃあにゃあ喋らない。それから湊に指図する。
あっち行ってて。
その言葉通りに湊とウミが下駄箱の陰に隠れる。
それが限界だった。
「――制服?」
ぎくり、と肩が跳ねる。でも、とも思う。人の多いところは年々苦手になってきているけれど、人と話すの自体は実はそんなに不得意じゃない。と思う。学校に定期試験を受けにくるときは全然普通に喋れてると思う。
だから大丈夫、と振り返る。
「――お」
「あ、」
目が合ったのは、全然知ってる顔だった。
どうして声だけで気付かなかったんだろうと思う。独り言っぽい呟きだったからいつもと感じが違ったのかもしれない。普通に、単に自分が焦っていてそこまで探る余裕がなかっただけなのかもしれない。いや違う。柱の方からこっちを覗き込んでいるわけだから、そもそも違う人の声だったのかもしれない。何人かでこの近くを移動していて、たまたまそのうちの一人だけがこっちを覗き込んでいるだけなのかもしれない。何にせよ、そこに立っているのは全然知っている人だった。同級生だった。同じ小学校だった。
倉持紬。
自分を見つめる彼女の目は、大きく大きく開いて、大きく大きく輝いて。
ついでに、口も開いて、
「おい!!! 宇宙で一番可愛い女来とる!!!!」
緊急来日しとる、とものすごく大きい声で叫んで、柱の向こうにいる友達だかなんだかを、どかどか呼び込んでいる。




