宛先不明の伝書鳩
夜が開ける前に、窓がこんこんと鳴る。
リリーは眠気眼のまま、布団から起きだし窓を開けると鳩がいた。白くて小さなかわいらしい鳩だ。
首にワイヤーで繋がれたちいさなメモが挟んである。
それを受け取ると、彼女は溜息をついた。書かれた字は『ちゃんと貴方と会って話したい』と殴り書きのような文字で書いてあった。差出人不明のラブレターはこの一か月ほどずっと続いている。しかもこんな夜更けに、だ。
まただ。またこの鳩は届ける相手を間違っている。
リリーは目を擦りながら、相変わらず首を傾げている鳩を見た。なんてことない悪げもなさそうになんにも考えていなさそうな目をこちらに向けている。
ラブレターは私宛ではない。
リリーに愛を囁く相手は誰もいないのだ。男友達さえもままならない。
リリーに学はなく、家業としての手芸屋を手伝っている程度である。ただ、文字の読み書きは出来るから顧客からの依頼でハンカチの刺繍に一言のメッセージをいれたりと自分だけの仕事も請け負っていた。
ただそれでもうちの店に来るのは女性ばかりだ。しいていうなら、家の向かいの幼馴染のビンスくらいである。ただ、家の前でわざわざ伝書鳩は飛ばさない。
しかも奴は文字は書けない。ミミズみたいな字で、これはなんの絵なのかと聞いたら怒って帰ったことがある。
溜息をつきながら、その手紙をお手紙のボックスにいれた。初めの辺りは間違っているよ、と鳩に一生懸命諭したが首を傾けて受け取るまで断固として離れなかったのだ。
そして、私も同じように鳩の首に手紙をくくりつけて『お宅の鳩さん宛先間違えていますよ』と書いても変わらず三日に一回届けに来るのだった。
だから最近では渋々手紙を受け取り、お野菜や果物を小さなお皿に乗せ食べさせて帰している。今日はさくらんぼである。ビンスの家からもらったものだった。
鳩の頭を撫でると気持ちよさそうに目を瞑る。
「ねえ、鳩さん。あなたのご主人はだあれ?」
鳩は答えず、撫でている手に寄りかかっている。それはそうなのだが、やはり鳩の主人が気の毒だ。伝えたい相手に伝わっていないなんて。
「鳩さん、貴方のご主人様に会いたいのだけれど」
鳩はぴくり、と顔をあげた。鳩のまん丸で黒くて何を考えているかわからない瞳がこちらを見上げていた。
リリーはいつかの時の様にメモにさらさらと用件を書いてくくりつけた。
鳩はこころなしか緊張した面持ちである。
「さくらんぼを食べたら、ご主人様に届けてね」
鳩のわりに妙に神妙な顔をして、羽ばたいていった。
その様子をリリーは見つめた。
届け主の顔も出身も性格も名前もわからないけれど、届主は誠実な人なのかもしれない。
一番初めの手紙は『君の心を込めて縫ってくれたハンカチ本当にありがとう。君は昔から手先が器用で、素敵な女性だったね』と書かれていた。
当時、本当に私が口説かれているのではないかと錯覚した。だが、次の文章で『君の温かな愛は僕を救ってくれる』と書いてあって、これは恋人に向けた手紙で宛先間違いをしているのだと感じた。
いつもちょっとしたことを話し、最後は『愛しています』で締めくくる。
『今日は夕焼けが綺麗だったから、君も見ていると嬉しい』だったり、『はやく故郷に帰って君と会いたい』だったり小さな愛を伝えてくれる人だった。
会って、少し話して手紙をお返ししたい。
なんだってこんな素敵な文章を私が持っていても申し訳ない。
それに本当に好きになってしまうかもしれない。
それからしばらく、今までは二日に一回来ていた鳩が来なくなった。リリーは落ち込んだ。愛やら感謝やら囁くわりに、届ける相手を間違えても無視して今までは送ってくるのだ。それともこの伝書鳩はちょっと抜けている子なのか。
だからこそ鳩にもしかしたらなにかあったのかもしれない。それとも、ご主人がようやく気づいて送り先を変更したのかもしれない。唐突に始まって、突然終わったこのやり取りもホッとする半面寂しさも生まれた。
気づいたのなら良かったと思うべきなのはわかっているが、色づきかけた初恋が終わってしまうことに胸がきしんだ。
リリーは店番をしながら依頼されたハンカチの刺繍を行っていた。今は隣国との国境で小さな小競り合いが続いている。そのため、そこに行かされる兵士のお守りとしてハンカチに言葉を添えた。
実はリリーの兄と、ビンスの兄もその戦に行っていた。リリーの兄は血の気が多く、いささか粗野の兄であるがいつ死んでもおかしくない。そのため、ハンカチに『はよ帰ってきて店手伝って』と書いた。心底兄は嫌そうにハンカチを見ていたが、その実、照れくさいのだと知っている。
ビンスの兄はずっと士官学校に行っていて幼い時の記憶しかない。ただなんだかんだ面倒見がよく、遊んでくれた記憶がある。名はなんといったか、シグだったと思う。ビンスは愛嬌のあるおばさん似だが、シグは父親似で極めて端正なお顔立ちである。よくビンスが女子に持てるのはいつも兄貴だと嘆いていた。
戦争に参戦すると決まったシグを思いおばさんが涙目でこの言葉をいれてほしいとハンカチを持ってきたのだ。
『一生愛してる』いつ死んでもおかしくないからこその言葉にうるうるしながらリリーは一針一針思いをこめて縫ったのだ。
おばさんはちゃんと渡せたよ、ありがとうといってたんまりおばさんお手製のケーキやら燻製のベーコンを持ってきてくれた。そしておばさんが口コミで広めてくれたのだ。その結果、遠く離れた大事な人への贈り物の一つとしてプレゼントされることになったのだ。
「リリー!!」
そのあまりの声の大きさにびくっと身体が震えた。思わず針を指に刺してしまうところだった。大きく手を振ってこっちに興奮したように顔を赤らめて走ってきた。
リリーは思わずビンスを窘めた。
「ちょっと、びっくりしたじゃない。そんなに声を張りあげなくても聞こえているわ」
迷惑そうにいうと、はぁはぁと息切れをしたビンスは手をオーバーに広げながらリリーに訴えた。
「いや、だって小競り合いが休戦して兄貴たちが帰ってくるんだよ!!」
「……お兄ちゃん達が?」
思わずぼとり、と持っていたハンカチを落とした。
*
ビンスと別れて数刻後、玄関のドアのベルが鳴った。普段ならこの時間に開けないけれど、ビンスのことがあって扉の前で「誰ですか」と尋ねた。「お前のかっけー兄ちゃんのアンドリューだけど」と不機嫌な声色はたしかに兄のものだった。
がちゃり、と開けたら少し精悍な顔つきになった兄がいた。甲冑を着たまま帰ってきたらしかった。甲冑は戦争の生々しい薄汚れた血が黒く変色していたるところについていた。リリーはその様子が末恐ろしく感じ、小さくひっと悲鳴を上げた。
「お兄ちゃん!!死んでないよね!?」
兄は恐ろしいほど眉毛を釣り上げ、口角をひきつかせた。
「…あぁ、なんだ?幽霊と勘違いしてるのか?勝手に殺しやがって」
ドスの利いた声でリリーに凄むと、さっさと家に入り甲冑を脱いだ。
しかし、そんな兄の変わらない姿にリリーは嬉しくなった。
リリーはせめてものいたわりで、温かい紅茶をいれようと鍋にミルクを沸かした。
そしてミルクが沸騰する寸前で火を消し、オリジナルにブレンドした茶葉をフィルターにいれて鍋に放りこんだ。蓋をしてしばらく蒸らす。兄の好きだったミルクティーだ。
意外に甘党で、寝る前によく飲んでいた飲み物だ。離れて暮らす前はいつもリリーがいれていた。母親と父親が流行り病でなくなり、親の代わりになってくれたのが兄のアンドリューである。
泣きじゃくるリリーに黙って頭を撫でて、いつも「俺が何とかする」と慰めてくれた。そして兄は傭兵に志願し、そしてそこで才を見い出され士官学校に特待で入学し今は兵士として活躍しているのだった。
一方、リリーは両親が残したこの手芸屋を継ぎ、生活の足しにしていた。本当は兄と営むことを考えていたが、兄は不器用で考えることはできなかったのであろう。
生きて帰ってきてくれて嬉しい。リリーは鍋からカップに注ぐとふんわりと紅茶の匂いが広がった。懐かしい匂いだった。食卓に兄は座ると、「あったけぇ」と小さな声で呟いた。リリーも目の前に座った。
「そういえば、ビンスのお兄ちゃんと一緒に帰ってきたの?」
ピシリーーーー。
兄がその言葉にわかりやすく固まった。が、表情はどんどん曇った。
んん?なんか不機嫌?
若干リリーは冷汗をかきながら、地雷を踏んでしまったことを悟った。いかつい顔が鬼のように歯を食いしばったかと思えば、す、と表情を消した。
「……気になるのか?」
いつもより低い声で問われる。その声色はなんの表情もなくて、リリーはなんていうか戸惑った。その若干の間で兄の表情は暗く落ち込んだように陰りを見せた。しかしリリーはその表情の意味がわからなくて首を傾けた。
「いや、だっておばさんが気にしてたから」
なんせハンカチに一生愛してると縫ってくれとせがむくらい、彼を心配していたのだ。
その安否は知るべきだと思うし、もし、なにかあったらおばさんになんて声をかけたらいいのだろうか。兄は一気にカップを煽って、ミルクティーを飲み干した。机に叩きつけるようにカップを置いたとき、妙に覚悟が決まった顔をした。
「お前は気にならないのか?その」
好いてる相手だろうがー---。
そう言い放つと、嫌そうに顔をしかめた。言いたくなかった、そんな表情である。
が、リリーは理解できなかった。
誰を、私が、好きだって?
リリーはもう一度その言葉が幻聴でないか確かめるために兄の言った一言を噛みしめる様に復唱した。
「好いている相手?私が…?」
あまりにも身に覚えがなさ過ぎて驚愕したように兄を見つめると、兄は怪訝そうに見つめた。苛立ったように髪の毛をぐしゃりと掻きむしる兄は「あーもー!!」と雄叫びのように声を張り上げた。
「だから!!お前の恋仲のシグのことだろ!!恋人なんだろ!?」
「は!?なんで!?」
思わずカエルが踏みつぶされたようなひしゃげた声が出た。
鼻水だって少し出た。それでも兄は構わず続けた。
「好きあってるんだろ!!」
「ほとんど話したことないよ!!」
「それでもお前は好きなんだろ!?」
「なに言っているかわからないんだけど!?」
………。
妙な間が二人を包む。
気まづそうに訝しむように兄の顔は歪む。その顔はどんどん恐ろしいものを見る様に強張っている。
「え、なに付き合ってないわけお前ら?」
「付き合う以前に話もまともにしたことないけど…」
リリーからしてみれば、幼馴染のビンスの兄というだけである。
お互いがだんだん雲行きが怪しくなってるのを感じ、途中まで張りあげていた声はどんどん自信なく迫力がなくなっている。兄の瞳は困惑したように揺れている。
これまで兄と話してきてこれほど話題が噛み合わなかったことなんかない。
だからこそなんでこんな話になっているのか、全く分からなかった。
兄は頭を手の甲でおさえて、考え込むように黙り込んだ。
リリーは自分の冷めきった紅茶を飲んだ。胃の底がぐるぐると音を立てて身体が冷えていくような気がした。村にかえってあまり交流のなかったシグと相思相愛に思われる要素がひとつ思い浮かんだ。
「…ハンカチ」
ぽそり、と呟けば兄はぱっと顔をあげた。
「お前、やっぱりあげてるんじゃないか!!」
怒鳴り声に近い大きな声に、リリーは反論した。同じように大きな声で。
それに、あの、ハンカチは。
「ビンスのお母さんに依頼されて作ったものなんだもん!!」
*
一方その頃。
項垂れる男が一人。かろうじて人の形を保っているが、魂が抜けきったように放心している。ハンカチを送ってくれたのが、心の拠り所になっていたのがリリーでなくて母親だったなんて。自室のベットの上に転がりながら頭を抱えていた。
『あ、そのハンカチ使ってくれてたんだねえ!!母思いで嬉しいよ本当に!!』
久々に帰ってきた家は温かくて、うっかり涙が流れるかと思った。ただ、ハンカチの真実を知った時は別の意味で涙が出るかと思った。
母親は生きて帰ってきたこと、また後生大事に送ったハンカチを大事に持っていてくれていることに感激して鼻をすする音が聞こえるくらい感極まっている。そのテンションと相反するように、自分が砂と化してさらさらと散っていくのを感じた。
戦の召集の手紙が来たときは流石に動揺した。模擬戦はいくらでもやったが実戦は死を伴うのだ。士官学校で、アンドリューと同室だった。
彼は遺書を残していた。妹に当てた手紙と、俺の家にあてたものだった。縁起でもないというと「残さないとあいつは独りぼっちで死んでしまうかもしれないだろう」とやり切れなさそうに呟いた。記憶にあるアンドリューの妹、リリーとはあまり話したことがなかった。
年が近いのはビンスだった。ビンスが昔初恋をしたのはリリーであることも知っている。ただ少々口が達者で勝気なリリー本人の毒舌に甘い思いも木っ端みじんにされたことを思い出した。ただ勝気な割に可憐な容姿でどいつもこいつも口説こうとすれば本人の無自覚な鋭い毒舌に抉られ、リリーを溺愛しているアンドリューに釘を何十本も刺されるという鬼畜っぷりに皆心が折れていっただけだ。
そしてどうしようもなく浮かれていた俺も馬鹿だ。
盗み見たアンドリューと同じ刺繍のハンカチにときめいた。そんな風に俺を思ってくれていたのだと。しかもリリーはしっかり鳩の宛先間違っていませんか、とお手紙をくれていた。その都度俺はリリーがはじらっているのだと余計に恋は加速した。
恋した相手は母親だった。
もう一生お母さん大好きと言っておこうか。
「あーーー死にてーーー」
思わず漏れた本音は部屋の中で小さく響く。
目を閉じて思い出すのは最後にビンスとじゃれあっていたリリーである。
弟が羨ましくてやるせない。
朝一番、店を開ける前の少し早い時間。リリーはこれ以上ない思いつめたような顔をして、シグの家の前に来ていた。兄からの顛末を聞いたリリーはシグに対して申し訳なさでいっぱいだった。いや、本当にかなり儲けさせてもらいましたけど!!しかもおばさんが口コミで広めてくれたんですけど!!兄は呆然とした顔をしていた。少しホッとしたような、それでいて唖然とした表情だった。口を半開きにして目は呆れているに近い。
シグに対して誤解を解きたい。まず、貴方のお母さんからの依頼なんだよってこと。
手紙は困惑して別の人に送るものを鳩が間違っておくっていたのかと思っていたこと。兄に教えてもらいそれは私だったこと。送ってもらった手紙は人違いと思いながらもこれが私だったらと思うと少しだけときめいていたこと。
どうせ手紙も終わるし、きっとシグはがっかりしているだろう。
階段を降りるような音が聞こえた。それは怒涛の勢いだった。
そのまま扉が叩きつけるように開かれ出てきたのはーーーシグだ。
栗色の髪の毛がぴょんぴょんと跳ねており、目が少し充血している。胸元は少しはだけていて目のやり場に困った。今起きたといわんばかりの姿に思わず圧倒されていると、唇が少しだけ震えた。言わなくちゃいけない、から。
「言いたいことがあって」
シグの顔が直ぐに強張った。険しい顔をした後、ふ、と力なく笑った。
「聞いた、ごめん、俺の勘違いだったって」
「……」
「お母さんには悪いけど、落ち込んだ」
リリーは常に違うって言ってくれていたのにな、となんとも寂しそうな表情をした。
彼はお母さんに事のあらましを聞いたらしい。その話を聞いてなんとも申し訳ない気持ちになった。
「ごめんねシグ。でもね、あの手紙のやり取りちょっと楽しみにしてたんだ」
「え…?気持ち悪いとか思ってない…?」
縋るような目つきでか細く問いかけてくるシグに、目を逸らさずリリーは言い切る。
恥かしくって顔が真っ赤になるのを感じるが。
「思ってない。あんなに思われている人がいるんだ、羨ましい、いいなって思ったの」
絶句。シグの端正な顔が急激に赤みを帯びていく。耳まで赤い。
リリーより動揺している様子を見るとリリーは逆に落ち着いてきた。
照れて、石のように硬直している姿をまざまざと見つめ、この栗色の髪の毛は瞳と同じでビンスとは違うのか、とか思ったりもできた。
片方の手を顔半分覆いながら、彼はようやくまばたきを二回ほどぱちぱちと行い「あのさ」と切り出した。
「俺のこと、ちょっとはいいと思ってくれてる?」
本当に直球で聞かれて同じように余裕がなくなったリリーは頷くだけにとどめる。
目を一瞬逸らそうとしたけれど、シグの瞳が熱を帯びていくのをまざまざと見せつけられ艶やかな声で「触れても?」と聞く。逸らせなくて、リリーもまた期待しているようで、小さくうんと掠れる様に囁いた。彼の傷だらけで大きな手がリリーの頬を包む。
「好きなんだ、リリー。君の刺繍をみて戦場で生きのびてやるって気持ちがわいた。絶対帰ってくるって誓って」
頬に寄せていた手を滑らせて、リリーの手を取り顔を寄せる。
ちゅ、と手の甲にキスを落とす。さながらそれは絵本に出てくる騎士のようで。
「私も…好きよ、シグ」
どちらからともなく身体を寄せあいキスをした。
その様子を後ろからこっそりビンスとおばさんに目撃されていたこと、その後結ばれた二人のデート中に兄がシグに決闘を申し込もうとしたこと、あの鳩は元々軍用で育てられていたのにもはや家に住みついてほぼ飛ばなくなったこと。色々あったけれど、シグがハンカチに刺繍を頼むたび当時のすれ違いを思い出して一人小さく笑えば、シグと思い出話をして楽しんで過ごしている。