二章 優しいと言う名の悪逆
ある時から賞賛が聞こえるようになった。
彼女は彼が来てから幾つかの年月を超えて、そういう感想を抱く事となる。
目を閉じて思い出すのは、彼女が産まれてから一度として見た事が無かった父の笑顔。宝物を見つけたとでも言うように、武骨で髭面の父に少年を感じさせる表情を作らせた。
それはどこにでも居るような孤児の子供だった事に、酷く落胆したことを彼女は覚えている。
父が求めた宝物があまりにも貧相で、もっと言うなら価値などある者には彼女には見えなかった。
それは仕方のない事だろう。服も襤褸切れと変わらず、顔をしかめるような異臭に、無駄に伸びてぼさぼさの髪、顔はどう言いつくろっても綺麗な物ではなく、酷く汚いのではっきりと彼女は汚物の様だと心で思った。
しかし彼女も貴族の子女、当主である父の宝物に口出しなど出来る訳もない。
ただ見苦しいほどに汚い存在が、オーゼンと言う名の孤児であった。
梟の目を何て名前からも、元々は良家の出であるのだろう事は察せられる。
名前からも法衣貴族、その私生児であることまでは貴族であれば理解できるだろう。
なにせ知識の女神、その依り代である梟の目だ。生憎と平民がそこまで考えて名前を与える事は無い。と言うより、普通は生まれた順番か農機具か父親の仕事道具のどれかだ。
そんな過去の彼の事は別に語る必要もない事だが、視界に入ったときは蹲っている彼に、彼女は蛆が這いずっているみたいとそれ以上の感想を抱く事はなかった。
少なくとも彼女は母が彼の訓練をとめるまでは、視界にすらまともには言っていなかっただろう。
だが彼は歪んでいた。
これは当然だが精神的な物もあるが、それ以上に肉体的にである。
なにせ骨が折れて突き出る。指がひん曲がっている。さらに歯は賭け分かりやすく歩く事すら出来なくなっている。
それを気味が悪いと思ってしまった彼女を悪いと否定する事が出来る者はいないだろう。
分かりやすく歪んでいたのだ。分かりやすく体が壊れていた。
彼女の父以外誰もがその状況をとめようとした。
だと言うのに、彼は地べたに貼り付いて請願する。
「足りないのです。時間が無いのです」
このまま、いやこれ以上と、彼女が見た彼はそう言っていた。
その言葉に良く言ったと手を叩く公爵、それ以上に顔を青くさせた母や騎士、その二つの対比に少しだけ彼女は笑ってしまった。
だがそんな彼が気味が悪くないと言うのは嘘になる。
あなたは拷問官だ。
そして対象がもっと、もっと私を痛めつけてくれと、願われればそう思わない訳がない。
痛くない訳がない。辛くない訳がない。
何より人は艱難辛苦に耐えられる様な存在ではない。
一度楽を知れば、二度とそこから抜け出せず。それを当たり前と思えば、他者から奪ってでもそうあろうとする。
そこまで人に期待できることなどこの世にはない。
だが例外はあるのもまた事実。
彼女はそう言う例外なのだろうとは思うが、それでも命を賭けるに足る理由なんて、この世に一つ二つとある訳ではない。
そしてそんな人間を見た事があるという人の方が少ない。
そういう人間を目の当たりにした時の感想は、やはり気味が悪いと言うしかないのである。
体に芋虫が這いずっているような、舐めとる様な粘性を帯びた糸を引く代物は、人間の形で蛆の如く蠢いている。
そんな彼を彼女は一度として可哀想などとは思いはしなかった。
視界に入れた事など、まともにあったという事すら記憶にない。
一年、二年、三年と、まともではなくなっていく人間を彼女は最も近くいながら気づく事はなかった。
彼は公爵の望み通りに怪物になっていく。そして彼が望んだとおりに怪物になっていく。
二年を超えるころには、公爵家に残った竜騎士達に一定の評価を得る事になるが、それでは足りぬと公爵は次の手を打っていた。
それが他家への出向である。
彼は二年が過ぎた段階で、公爵の命令により他の竜騎士によって鍛えられる事となるが、生憎と下の下の身分としてしか扱われない彼が認められる事はついぞ訪れる事はない。
所詮はアバラの色子であり、公爵の道楽以上の存在ではないからだ。彼女もそれを知っていたからこそ、嘲笑すら込めた感情で、無駄な事を行うものだと思っていた。
だが彼がまともでないのは、既に彼女は理解できたはずである。
彼に出来る事など見る事だけだ。だからこそ、竜騎士達の訓練を見続けた。徹底的にその動作一つ一つを解体しながら、他の貴族が持つ竜騎士の制御術、その家伝を目に焼き付けていったのだ。
しかしそれがばれる事になるのはまだ先の話であるが、公爵がそれを喜ばない訳もないのである。
全て紙に書かせ、検証を繰り返し家伝の技術は、彼によって公爵家に流れていった。
そしてまた公爵は彼によくやったと笑いかけるのだ。
「また、ですか」
彼女はぽつりとつぶやいた。
こめかみ辺りに置いていた手が、赤銅の髪を掴んでいる。手入れされており、周囲からも噂になる美しい髪を彼女は力任せに握っていた。
髪が痛むだけではなく、ほとんど感情のままに引っ張ってしまい激痛を感じているだろうに、彼女は感情がどろりと流れ出た。
ただの道楽、だだの道楽、そう持っていた彼と言う存在だが、彼女の父にとってそれは本当に道楽のなのか。
それが違うと言うのに気付いたのは、本当は最初の出会いからであっただろう。
自分にも全く見せた事の無かった父の本当の願いに、いや明確に自分の父を奪われた子供は、彼を居ないものにして自分の矜持を保とうとしたのだ。
私は気にしてません、私はいい子です。だからお父様は頑張ってください。
しかしそんな彼女の声は当主には届かない。
彼女の母は当然の事だが、愛情を惜しみなく注いでくれる。それは公爵も同じ事であったが、彼と言う存在は彼女では無しえない父の最も大切な場所であった。
それがたまらなく彼女には耐え難い物がったのだ。
どこまでも優しくそして時に厳しく、父親として公爵は十全に彼女の愛情を注いでいるが、それでも彼女にとっては彼と言う存在と公爵の夢は、彼女から父親を奪い取る所業であるのは間違いない話であった。
誰も聞いてもいない部屋でがんと音が響く。
「また、ですか」
壁を蹴りつけた音だ。
しかしながら彼女の方が被害が大きいのか、鈍痛で顔が歪んでいた。しかそれが本当に痛みによるものかは怪しいものではあった。
まだ惨めであったらよかったのだ。そうであれば成し遂げられない事に笑ってやれた。
睡眠捨てる事がどれほど人間と言う畜生においてどれほど異常な行為であるか彼女は気付くべきであったのだろう。
人が持つ当然の機能を消すと言う行為は、生物の欠陥品としてはとても優秀である事を察するべきであった。
なにせそれを生物の所業ですらない行為なのだ。
三年、三年である。それはある意味では彼が人間を止めた期間である。
その異常さが結実したことも確かにあるのだ。既に竜騎士の基本は終わらせ、地上における武具の扱いは確実に、他の訓練生と比べても頭一つ抜けている。
この自分の状況に彼はまだ頭一つ程度だと舌打ちしているが、普通と考えても異常な成長率ではあるが、求めている代物との際に彼は苦しんでいた。
しかしその程度に優れている時が、人は一番称賛を浴びるのだ。
これ以上を超えると、自分の思う彼はこうだと言った具合の妄想が先行する。噂の人物上で全部を知った気になる。
カエサルの言葉から千年超えても変わらない人間がいつでも見れるだろう。
近所の優れた子供、所詮彼の扱いはその程度であるが、自分が理解できる天才は確かに評価をされていく。
見取り稽古で相手の技術を奪っていく怪物である事がまだ知られる前の話だが、彼女はその言葉を聞くたびに自然と不快になっていた。
はっきりと言えることだが、女性は竜騎士にはなれない。
魔法や法術などは女性が向いているとされるが、こと竜騎士となると男性しか不可能だ。
竜に雌雄はなく両性の分類であるのだが、いまだに理解されている範囲では雄しかいない種族であり、雌雄における性別が雌であれば拒絶するのである。伝承では一応何人かは語られてはいるが、現実は乗りこなす事すら難しいのが現実だ。
竜の反発と言う分かりやすいエピソードとして北方僭主の娘であり騎士の頂点とされたアラタアラマズですら竜を屈服させることが出来ず、結局竜を殺処分するしか無かったと言う。
竜騎士達と互角以上の戦いをするアラタアラマズですら不可能なら、もはやどうあっても不可能と言うのが結論である。
何より彼女は武の名門として教育は受けていて、同世代の中でも彼女もまた頭一つ抜けた力を持つが、その強さとしては、女性としては王道の現象論弁官と言われ魔法の中でも自然現象を操る森の賢者の系譜である。
無論だが魔法もさることながら、剣においても貴婦人の剣と言われるほどの天才ではある。
だが彼女の父はそんな娘を自慢に思っていても、彼の様な扱いをすることはないのである。
彼女は情の宝とするなら、彼は人生の宝なのだ。
公爵と言う男がその情念や人生をかけて成し遂げたい代物が彼なのだ。当然だが娘の事を蔑ろになどしていない、していないが、彼女はその父の願いをかなえてあげたかった。
だが不可能と言うしかない。なにせ死んでもかまわないような地獄の訓練を与え、出来ない事を無くさせ徹底して最強の竜騎士を作る。
そこに親子の情はいらない。そんなものは生憎と余分と言うしかないのだ。
何より娘を大事に思っているからこそ、彼はそんな事を娘に強いる事が出来ないのである。
だが彼女もまた竜騎士になりたかったのだ。
なにより父の願いをかなえてあげたかった。
しかし彼女の願いの場所にいるのは、どこまでも竜騎士の事しか見ていない孤児。
拷問の限りを受けてそれを癒され続けながら、彼女の夢の場所に居座る存在は地べたに這いずっていればいいのに、名が彼女の耳の届く程度に響き始めたのだ。
はっきりと不愉快だった。それが嫉妬である事など彼女は理解していたし、それで納得がいくような性分でもなかった。
だから努力したのだ。必死に彼を上塗りするように必死に、寝る間も惜しんで徹底的に。
なのに、怪物は平気でその上をいく。
寝る間も惜しんだか彼女を平気で飛び越えて寝やしないのだ。自分を思う限り徹底的に追い込んだとしても、彼の努力は人を捨てる事を惜しまない。
生物としての禁忌と言う壁を容易く踏み越えて来る。
そして彼女は身分の壁によってそれが出来ない。彼女がそんな事をすれば、周りが無理矢理にでも止めて来るし、ばれない様に行うにしても、その弊害を知っている彼女はその一歩を進めない。
いや真っ当な精神状態で進める様な場所でもない。
崖の突端に立ち次の一歩を進める人間なんてのは、何もかもを諦めた人間か、何もかもを諦められなかった人間だけだ。
私は努力したと言い張っても、文字通りの桁違い努力するのが彼だ。
執着と執念だけで形成された彼と言う機構は、それしか見えておらず、それ以外を求めない。だからこそ目的以外の自分も含めた全てが視界に入っていない。
だからこそ崖の突端から、彼は次の一歩を踏み出し、それどころか墜ちる事もなく天に駆ける。
踏み出せなかった場所から、天を仰ぐように上を見る彼女は、ただ誰にも言えない劣等感を抱えてしまうしかなかったのである。
そしていない存在として視線を外し、視界から消して、ただの父の道楽以上の価値を認めなかったのだ。
だがそれでも耳に入る彼の賞賛の言葉、壁を蹴り付けたくもなる、自分の努力の結果を破り捨てたくもなる。ベッドの布を切り裂き、溢れる羽毛の中で蹲り誰にも聞こえない中で嗚咽をこぼす事がヒステリーのの一言で覆い隠していいものであるわけがない。
必死に目を隠しても、いや目が見えなくとも、人は肌で熱を感じ光を感じる。
目の前に太陽の様に燃え盛る代物を見えないと言い張れるような時期は既に超えていた。見なくとも熱を感じ、逃げようとも日の光から人は逃げられない。
素養は同じ、待遇は自分の方が上で、足りないのは努力である。それを自覚させられることがどれほど苦痛かなど、大抵の人は分かる事だろう。
何より努力して、それでも届かないのではなく。ただ努力が足りないだけと言う事実は、もうどうしようもないと言われているようなものだ。
人並み以上の努力と、人並み以上の才能が有って、その全てを人ですらなくなる努力で覆す存在は、身近にいる人間であれば恐怖か、それとも絶望で応対するしかないのである。
執念と執着で足りないものを次々と補っていく怪物の姿が、ただそうあるために動き出す彼の姿が、なまじ才能が有るから吐き気がする程度には綺麗な物に見えてしまうのだ。
ただひたすらに研ぎ澄ませ行為に、何も見えないとそれに走り出す姿が、どこまでも純粋な代物であると理解できるから、その事実に彼女は反吐が出そうになる。
「見えないように消えればいいのに、ごみの様に捨てられれば」
彼の行動の真意が理解できるからこそ、自分に辿り着けないと理解できてしまうから嫉妬に狂うのだ。
だがそれは父の夢だ。父の願いだ。多分人生を掛けた父の唯一の道楽だ。
それを理解できているからこそ邪魔も出来ずに、彼女はその場で立ち止まり今まさに飛ぶ鳥を睨みつけて、
「消えてしまえばいいのに」
なんて思ってしまうのだろう。