序章 出会い
自分が矮小な人間である事は知っている。
選ばれた才覚なんてなかった。選ばれた相棒なんていなかった。
産まれは娼婦の息子で、どこぞのお貴族様の庶子ではあるが、生憎と御父上にも捨てられ、もっと言うなら母親にも捨てられた孤児が自分だ。
ただ空を見上げるだけで自分の世界は変ったのだ。
空から見下ろす影が自分を追い越してどこかに消えていく。それを必死に掴もうと足掻き始めたのはいつのころからだろうか、必死に届けと通り過ぎる陰に手を伸ばして、そして届かない事に絶望する。
一年、二年と、それを何度も加算させながら、いまだにその機会が訪れる事はなかった。
選ばれなかった自分と言う人間と、努力を怠った自分の末路は相応しいものなのかもしれない。
それでも空を埋め尽くした影たちに追いつきたくて、ただ自分の体を打つ風が、夢である筈のその世界を現実だと言って笑うのだ。
それはただの競争だ。
本来なら火を吐き、空を舞い、戦場でこその力を見せつける竜。
彼らを相棒として戦場の花形として、今もなお伝説を残す竜騎士。
そんな彼が腕を鈍らせない為に行ったのが始まりのレース。
自分が憧れたのはたったそれだけの物だった。
だが世界とは残酷で、竜に選ばれる可能性はないに等しい。代々の竜騎士の家系からしか排出されず、今となっては大貴族にの身に許される権利である。
何せそれ自体が利権となっているのだ。人は自分の飯の種を人にやる事などしないし、そんな事を平民以下の人間が行えば、命などろうそくの火よりも容易く消えるだろう。
生きていても、死んでいてもさほど彼らの関与するところではない。
夢と命を天秤にかけて、命を取るような半端者が成し遂げられることなどある訳もなく、このまま朽ちていくだけの人生であるはずだった。
だが一つ予想外の事があった。
自分と言う人間が矮小で、もっと言うなら無様で、挙句に惨めな人間であったとしても、そこに度し難い人間も加えなければいけない人種だとは思っていなかったことだけだ。
***
アバラ公爵家の名前を聞いて、この国の人間がまず一つ上げるのなら、三十年ほど前に起きた北方連合との戦争の帰趨を決めた竜騎士たちを輩出した家であると言うだろう。
元々この国における竜騎士の系譜の中で最も古い家であり、建国の時から名前を残し偉大な竜騎士を数多輩出してきた名家であり、帝国における武の系譜の一つである。
だがその三十年前の戦争が問題だったのだ。
彼らは活躍したが、活躍しし過ぎた。言い換えるのなら最も被害を出した家であった。
この家が保有した竜騎士は戦争前が六十騎、しかし戦後は5騎である。竜は10年に一度の周期でしか子を産まず、騎獣として育成するまでには十年を必要とする。
三十年前の戦争から増える事は増えたのだが、まだ僅か十五騎というのだから、兵器としては中々に量産しづらい代物である。
乗せる竜がいなければ、そもそも竜騎士も育てられない。
そんな状況だから優秀な竜騎士たちは、他家に引き抜かれていった。また彼等の腕を鈍らせること自体が、国家の損失である為、公爵家自身が推薦して鍛えに鍛えた騎士達を渡してしまった。
その結果起きたのが、今までの竜騎士の名門の失墜である。
何せ家伝の騎士の育成法をバラまいたに等しい行為なのだ。その為アバラ公爵家は名の割に実の少ない家になってしまった。
まだ戦後不安定であった元もあり、彼等としても超法規的措置に等しい行為であったが、やるんじゃなかったと言う後悔はあるだろう。
そんな中で新たな騎士の育成や、竜の育成、かつての栄光を取り戻す為に現在の当主は尽力していた。
だが竜の交配などにもいろいろな問題もあり、尽力しても結果が付いてくるのはあと五年後と言う戯けた状況だ。それでもかつての栄光までには、次世代までかかるような計算なのである。
そんなところまで待っていられないのが、当主としての考えであり、結果を求めたがる人の悪い癖でもある。
ではどうやれば、かつての栄光が取り戻せるか。
一騎で十騎分の活躍すればいいんじゃね。まさに追い詰められた馬鹿の発想である。
だが今をもって人間の限界ギリギリの訓練を行い。だからこその竜騎士の名門であったが、じゃあ限界を超えればいいんだと言う発想に行きついたこの当主は本当に追い詰められていたのであろう。
限界を超えた訓練など貴族の子女に出来る訳がない。
それで殺してしまえば、それこど別の意味で大問題だ。大貴族だからってやっていい事と悪いことぐらい当然ある。
そういう意味では偶然だが、歯車がかみ合ってしまったのだろう。
彼の行為は暴挙に等しい行為であったのは間違いない。これが通常の状態であるなら、間違いなく殺されていただろう。
しかし当主の目的と、彼の目的が合致してしまったのが奇跡ともいえる。
夜も深く星も見えない程、夜が沈んだ時間帯だ。
彼は馬車の紋章を見た時、理性すら飛んだ様子だったと後に孤児の友人が語っていたほど、本能的に動いていたと言う。
熱に浮かされたままの彼は、馬車の前に飛び出して止めたのだ。
何度も言うがこれが無礼打ちクラスの暴挙であるのは間違いない。彼が轢かれて死ぬだけではなく、馬車の転倒など、別の事故の原因にもつながるのだ。
襲撃者や暗殺者と言われたって、さほど否定できない代物だ。
なにせ馬は車以上に制御には技術が必要だが、車程には制御できない。だが御者の腕はよかったようで、同様なども一切なく淀みなく馬を停止させる。
流石は公爵家の御者であるが、止めさせた彼の命は怪しくもなる。
何事だと声を上げる公爵様の前で、蹲る様にして平伏している襤褸切れをまとった子供がいた。
謝罪の言葉よりも先に、命を賭けた直訴を行った。
その言葉に公爵は目を丸くする。
それは死んでもかまわない命だった。誰からも求められていないただの孤児、目的としては都合のいいの存在が目の前に現れてしまう。
自身の倫理観がまるで揮発性の液体の様だと錯覚した。
同時に自分が思っている以上には外道である事も理解するしかない。
口元が緩むのを止める事が出来なかった。
まるで虎口に飛び込むような、目の前の孤児の行動と発言に、手を伸ばすのではなくまるで爪で抉る様な感覚を抱きながらも、まるで慈悲のように手を差し伸べた公爵は体を強張らせる。
その孤児の目に映る自分の姿と、何も変わりはしないのだ。
鏡でも見たような相対性に、孤児ですら目的のために何かを捨てている。
地獄絵図の様な二人は狂ったように口角を上げていた。
二人の夢はある意味では共通していたのだ。
会話もまともにしていないと言うのに、ある種の共犯関係が作られる。
俺を竜に乗せて下さい。
ただそのだけの言葉に一体何の意味があったのかは二人にしか分からないが、これが建国以来の名門貴族が色子に浮かされた暴走として社交界をにぎわせる。
なにせ育ちも分からない子供を竜騎士に仕立てようと言うのだ。血筋でなれるかどうかが決まるのが当たり前であった竜騎士の前提を破棄するような行為は、公爵が男色に走って気に入った男子の気を引く為の行為だとささやかれる事になる。
アバラの色子と揶揄される男は、それでも度し難い情動を消す事も出来ずに、周りの声も聞こえずに走り続ける。
奉竜祭 王都を一周するだけの竜騎士たちによって行われる競争、その権利を手にするための一歩は、確かに竜に届いたのだ。
それは公爵も同じであり、まるで枷を失った水の様にただ流れ続ける事になる。
優しさや、妬み、愛情や親愛、執着や、人間のありとあらゆる感情がまるですべてを飲み込んで流れていく。だが彼らの感情はその全てを聞き届けもしない。
ある意味では共犯とも言える関係となる二人だが、それを二人が気付いていたかと言えばそうではない。
別々の道を目指していた人たちが、同じ方向に走っていただけの事だ。
これは世界に一条の雲が流れる時代より一つ手前の時代。
羽の時代から円錐の時代に代わるその過渡期の物語だ。