①賢い小悪魔
季節は廻り、僕は小学校に上がった。
当然ながら、学年の違うシルヴィは年長として今も幼稚園に在籍している。
その当たり前の事実について、利口とはいえ幼稚園児のシルヴィは駄々をこねるかと思ったのだが、意外にもあっさり受け入れてくれた。
「ケイの方が一年早く入ったんだから、一年早く出ていくのは仕方ないよ」
と、僕の卒園式当日、五歳になったシルヴィは笑っていた。
僕はシルヴィの兄貴分として、現状知る限りのものをいろいろ教え込んだわけだが、心までこうも成長しているとは思わなかった。
「第二の慶太郎君」とは新井先生の弁である。僕が代名詞として使われているのは照れくさいが、シルヴィが立派になったのだと客観的にも判断してもらえて、僕も誇らしい気分だ。
これなら、安心して僕も進学できると思っていた。
実際、進学してからも、ちょくちょくお迎えに行くのだが、遠目から見ても友達と仲良くやっているのがわかる。
新井先生に代わる新しい担任の先生にも話を聞いてみたのだが、特にこれといった問題もなく過ごしているという。曰く「髪色の違いを感じさせないほど馴染んでいる」とのこと。
念のため注釈だが、これはその先生が髪色の違いを特別視しているというわけではなく、少数派の存在を敏感に察知、ときには排斥する幼稚園児たちの特徴を理解しているが故の発言だ。
そういうわけで、僕が幼稚園内の出来事に関して心配するようなことは起こっていない。この点に関しては、シルヴィのことを信頼しても大丈夫だろう。
しかし、問題はここからである。
幼稚園以外でのシルヴィ。より具体的に言えば、パパさんが帰ってくるまで僕の家で待っているときのシルヴィである。
年長になって、シルヴィが帰ってすぐ眠ってしまうということはほとんどなくなった。それで僕の家に迎えることが多くなったわけなのだが、そこでの行動が問題だ。
「ケイー、まだー?」
「まだ」
当然ながら、小学校に上がった僕には、宿題というものが存在する。計算ドリルやら、漢字ドリルやら、いろいろだ。
それを消化するには、そこそこの、それこそシルヴィが暇を持て余すくらいの時間はかかる。
シルヴィが帰った後でやればいいというのは至極もっともなのだが、そうもいかない理由があるのだ。それについてはいつか語るとして、本題に戻ろう。
「ねぇケイ」
僕が座るテーブルの向かいで、柔らかい頬っぺたを天板にくっつけながら、僕の顔を上目遣いに見るシルヴィ。
「んー?」
可愛いのは認めるが、いちいち反応していては終わるものも終わらない。目を合わせることもなく、声だけで返事をした。
すると、シルヴィは諦めたのか、立ち上がり、僕の視界の外へ去って行ってしまった。
それからしばらく。お陰様で集中できて、やっと宿題が終わるというとき。
シュッ、シュッ、というやけに耳につく音が断続的に聞こえてきて、思わず顔を上げ、その音の発信源を見た。
「あ、ケイ! 終わった?」
僕が目を向けた瞬間に、その音は止み、ぱぁっと明るい表情のシルヴィが駆け寄ってきた。
僕の身体に自分の身体をこすりつけるようにして、マーキングでもするかのように甘えてくる。
それを拒む必要はもうないのだが、問題はその後ろ。今まで音が鳴っていた場所だ。
なんともまあ、無惨な光景である。
箱に入っていたはずのティッシュが、ほぼほぼ抜き取られている。辺りには、特に何の役目も果たしていない中身の薄紙たちが散乱しており、綺麗好きな人は発狂すること間違いなし。
「シルヴィがこれやったの?」
「うん」
「こら。もったいないよ」
「ごめんなさーい」
口では謝りつつ、悪びれる様子もなく僕に寄りかかって甘えているシルヴィ。
「反省してる?」
「はーい。もうしませーん」
くっついてくるシルヴィの頬っぺたを両手で包み込み、目と目を合わせてじっと見つめるも、シルヴィは可愛い顔で微笑みかけてくるだけだ。
「じゃあいいよ。それじゃ、お片付けして遊ぼうか」
「うん!」
しかし、いくら反省の様子が見られないからといって、謝っているのに許さないわけにもいかない。
利口なシルヴィなら、それが良くない行動だというのはわかっているはずなのだが、どうしたものだろうか。
とまあ、こんな風に、僕が小学校に上がってから、シルヴィはすっかりいたずらっ子になってしまったのである。
また別の日。
今日も僕はシルヴィの目の前で宿題をしている。そしてシルヴィは、ただ退屈そうに僕の様子を見ている。
「ケイ、今日ねー、ミクちゃんがねー」
「うんうん」
山や川などの簡単な漢字を練習帳に写しながら、シルヴィの話に相槌を打つ。シルヴィの声をBGMにすると、存外捗るものだ。
「ねぇケイ、聞いてる?」
「うん」
「じゃあさっき、ボクなんて言った?」
「さっき?」
正直、覚えていない。シルヴィが話しているときは聞いているつもりなのだが、いざ何を言っていたか聞かれると、全然思い出せない。
「ほら聞いてないじゃん」
「いや、うん。ごめん。宿題が終わったらもう一回聞かせてよ」
「むぅ」
「なるべく早く終わらせるから」
そう言っている間にも手は動いて、山やら川やらを量産している。なるべく早くとは言ったが、もう間もなくだ。
そこでまた、シルヴィが視界から外れた。先日のティッシュの件を思い出して不安に駆られるが、シルヴィは利口な子である。一度ダメと言われたことをわざと繰り返すようなことはしない。
そう思うのも束の間。今度は、ビリッという不穏な音が聞こえてきた。
そしてその方向というのが、僕が連絡帳を置いているところである。
「ちょっと、シルヴィ!」
さすがに僕も、焦って顔を上げた。
そうすると、シルヴィは手に持っていた紙をパッと手放し、とことこと寄ってきた。
「あっ、ケイの手、真っ黒だよ」
またシルヴィは、一切悪びれることなく、僕の右手を取って笑った。
確かに僕の手のうち、小指側の側面は光沢ある黒鉛で汚れているが、それよりも確認せねばならないことがある。
「シルヴィ、今何してたの?」
「んーと、紙遊び」
「どの紙使ったの?」
「あれ」
シルヴィは僕の右手を取ったまま、僕との会話に応じ、案の定連絡帳の方を指さす。目を合わせて、いつも通りの顔で。
「えーっと?」
万が一を思う焦りと、シルヴィを信頼する気持ちとのせめぎ合いの中、シルヴィに掴まれた手を引きつつ、連絡帳の上に置かれた紙を見てみる。
その紙の内容は、僕の悪い予想が的中していた。明日先生に提出する予定の、母さんの署名が入った紙切れである。
しかし、それを確認すると同時に安心した。シルヴィが破いたのは、その用紙の隅の方だけ。署名部分や、その他の印刷部分は全て問題なく読み取ることができる。
「こら、シルヴィ。これは大事な紙だから、破いたらだめだよ」
「そうなの?」
きょとんと、いっそ芝居がかって見えるくらいそれっぽく首を傾げるシルヴィ。
「うん。明日先生に出すんだ。破れてたら、僕が怒られるんだからね」
「そっか。ごめんなさーい」
今度はちょっぴりばつが悪そうにしていたものの、やはりというか、あまり反省はしていないように見える。
「もうしないよ。だから、あそぼ」
「わかった。約束ね?」
「うん!」
約束と言ったからには、同じことは再発しないだろう。しかし、やっぱり悪戯そのものをやめさせないことには、いつか取り返しのつかないことがあるかもしれない。
「じゃあ今日は、紙工作にしようか」
「うん。あの切るやつがいい」
「切るやつ?」
「うん。綺麗なの」
「ああ、切り絵ね。わかったよ」
そのうち、ガツンと言った方がいいのだろうか。
でも、それでシルヴィに嫌われるのも嫌だ。
とはいえ、これが続くと、いつか本当に僕らの仲に亀裂が入るような出来事が起こるかもしれない。
それを思えば、少しくらい嫌われたって、すぐに宥めてあげられる分、予定調和的な方がいい。
またまた別の日。
今日こそはシルヴィに悪戯をやめるように説教をする。
ちなみに、そういう決意をこれまでの数日に何度もしたが、一度もそれが実現したことはない。いつの間にか、パパさんのことを言えないくらいには僕もシルヴィに甘くなっていたのだろう。
「ケイ、今日も宿題?」
「うん。頑張ってすぐに終わらせるから、ちょっと待ってて」
そう言いつつ、シルヴィが悪戯をせずいい子で待っていることを切望しているが、果たして。
「ねぇケイ」
僕が黙々と足し算を解いていく中、シルヴィが声をかける。退屈なのはわかるが、まだ十分も経っていない。
「まだだよ」
窘めるように返事をしながら、ついでにシルヴィの様子を窺う。
こっちに向いているその顔をちらりと見ると、当然シルヴィも気づいた。それだけなのだが、シルヴィはなぜか嬉しそうににっこり微笑んで。
「がんばれー」
そういう風に応援してくれた。
毒気を抜かれたというか、心配しすぎだったのだろう。こんな純粋な子に対して説教をしようだなんて、僕の良心が許さない。
「うん。ありがとう。すぐ終わらせるから」
「はーい」
元気よく返事をすると、シルヴィは立ち上がった。
一度安心したものの、シルヴィの動きにはまだ若干敏感である。思わず顔を上げて、その動きを追ったが、シルヴィは僕の視線を避けるでもなく、ただ僕の隣に来て座った。
「シルヴィ?」
「ここは邪魔にならないよね?」
「あ、うん」
シルヴィが座ったのは、僕の左側。僕の利き手は右なので、邪魔になる心配はない。もっとも、それはシルヴィに邪魔する意思がなければの話だ。
「ケイ? 続けて?」
「そうだね」
訝しがるような眼を向けていたからか、シルヴィはきょとんと首を傾げて、僕を促した。
至近距離だからこそわかるが、シミ一つないスベスベの頬っぺたをしている。実に柔らかそう、というか、実際柔らかい。
っと、そんなことを考えている場合ではない。シルヴィが待っているのだから、早々に宿題を終わらせなければ。
そんな感じで、特に理由もなく解決したかのように思えたわけなのだが、そんなことはなかった。
別にエスカレートしているわけではないが、ただ悪戯をする日もあるという程度。そして、軽く叱っても、毎度毎度反省の素振りも見せはしない。
ちなみに、その全てにおいて、悪戯の手を変えている。それには普通に驚いた。僕がダメだと言ったことを全部覚えているのかは知らないが、逆に賢い。
シルヴィの悪戯なんて可愛いものだから、ついあっさりと許してしまうが、これが他の友達になると、喧嘩にだって発展する可能性がある。
シルヴィは謝ることもできるし、喧嘩するのもいい経験だと思うが、謝れば何でも許してもらえると勘違いさせるのもよろしくないだろう。
「ねぇケイ」
「んー?」
さて、今日もまた、悪戯を仕掛けてきた。
僕の左手を揺さぶるという、実に直接的な悪戯だ。それで影響が出ると言えば、字が汚くなるということくらいだが、明らかに宿題の進捗に影響する行為である。
「こら。シルヴィ、僕が宿題できないよ」
「むぅ」
いつも通り、軽く注意するのだが、今日はそれでもやめなかった。
これは、厳しく言う必要があるだろう。
そう思うのだが、どうにも言葉が見つからない。それは恐らく、僕の深層意識がそれほどまでにシルヴィから嫌われたくないと思っているからだ。
「こら! なんで邪魔するの!」
意を決して、そんなことを叫んだ。無理矢理捻りだしたと言った方が正しいかもしれない。
「だって、ケイがシルヴィのこと無視するから」
しゅんとするかと思ったが、シルヴィは逆に憮然として言い張った。結構な度胸だ。褒めちぎってあげたい。
と、それよりもシルヴィの言い分を聞いてあげなければ。
「無視してた?」
「うん」
「返事はしてたと思うけど」
「んーとか、あーとか、そんなの返事じゃない。鳴き声だよ」
言われて、思い当たる節がちらほらある。だとすると、僕が悪いのか。
いやいや。それにしたって、邪魔をしていいわけじゃない。僕が宿題をしないといけないというのは、ちゃんと言ってあるのだから。
「でも、僕は宿題をしないと」
「わかってるよ」
「じゃあなんで邪魔するの?」
「わかってるけど、ケイの一番はボクがいいの」
僕の一番は言うまでもなくシルヴィだ。今後変化があるとしても、少なくとも今はそれで間違いない。それはシルヴィにも伝わっていると思っていたが、改めて言葉にしておこう。
「僕の一番はシルヴィだよ」
「嘘。宿題が一番じゃん。ボクのこと無視して宿題するもん」
なるほど。言い分はわかった。これは僕にも落ち度がある。
「ごめんね。シルヴィのこと、もっと大事にするから」
「うん」
思えばシルヴィは、僕が視線を向けると悪戯をやめてすり寄ってきた。シルヴィなりに、僕の気を引こうと一生懸命だったのだろう。
そう思うと、さらにシルヴィが健気で可愛く思えてくる。
手段として褒められたものではないが、そんな事情を知ったら何でも許してしまいそうだ。
「ケイ、頭撫でて」
「うん」
僕が鈍感だった罰、というわけではないが、今日はひたすらシルヴィが甘えてくるのに付き合うことにした。
いつもそう、というツッコミは甘んじて受け入れる所存である。
そういうわけで、シルヴィの悪戯っ子事件は、僕がシルヴィに呼ばれる度宿題から顔を上げることによって解決した。
それから、シルヴィが悪戯するときは構ってほしい時だと思うようになって、叱るどころかさらに甘やかすようになってしまったというのは、仕方ないことだと思ってほしい。
成長過程の章は、おおよそ1エピソード1話の短編集のような形で進んでいきます。