⑥甘やかし戦争と足りないもの
俺が頭に怪我をした、次の日の朝。
俺が目を覚ますと、昨日と同じくシルヴィが俺の顔を覗き込んでいた。ただ、その目にもう涙はなく、慈愛に満ちた表情を浮かべている。
「おはよ、ケイ」
「おはよう」
窓から差し込む朝日に、キラキラ輝くシルヴィの金髪。可愛らしい穏やかな笑顔。朝一番の光景として、これ以上のものはない。
「あっ、起き上がるならゆーっくりね」
シルヴィに手を引かれ、スローモーションに上体を起こし、そのままベッドから降りる。普通に起き上がることも許されないらしい。
「お着替えする? どれがいい?」
「着替えくらいは自分でやるよ」
「えー」
「そこまでいくと手伝いじゃなくて介護だから。あと普通に恥ずかしい」
「しょうがないなぁ。じゃ、後ろ向いてるね」
「部屋を出たりは?」
「しませーん」
倒れたら何だと言い訳を連ねられることがわかっているので、そこは妥協することにした。
「はい。いいよ」
「問題なしだね。じゃ、朝ご飯食べよっか」
そういえば、俺が起きる前にシルヴィは着替えていたようだ。それに、使った布団も綺麗に畳んで隅に置いてある。よく俺を起こさずにできるものだ。
そこからの生活は、ほとんどいつもと変わらない。そう思うと、俺とシルヴィが一緒にいる時間は驚く程長い。
ただ違うことといえば、シルヴィとの距離だ。特殊な磁力でも働いているのかと思うくらい近い。
「はいケイ、あーん」
「あむ。これは頭の傷関係ある?」
「ないけど、楽しいからいいの。はいもう一口」
「んむ。時間、かからない? はいお返し」
「あーん」
流れるように焼き鮭を食べさせ合う。間接キスで騒ぐほど幼稚でもないが、差し出したものに食いつく恋人の姿は悶えるほど可愛い。
「いいわよ別に。お母さんはお父さんと買い物に行ってくるから、ごゆっくりどうぞ」
若干呆れたような母さんの声でハッとする。当然のように親の目の前でイチャついていた。今更だが、羞恥心が込み上げる。
「やっぱり普通に食べない?」
「だーめ。今日はボクの言いなり、じゃなくて、安静に過ごしてもらわないと」
「えぇ」
「はは。甲斐性ってやつだな」
車のキーを指先で回しながらニヤニヤする父さんに腹が立つ。この場合は甲斐性というか、真逆な気もするが。
「わかったよ。今日はシルヴィの我儘、じゃなくて、お世話にとことん甘えることにしようかな」
「うんっ。たまには彼女として、たっぷり甘やかしてあげないと」
余計に張り切らせてしまったような気がするが、せめて親の目の前で行われないように努めるとしよう。
普段の倍くらいの時間をかけて朝食を平らげると、シルヴィは手早く洗い物を済ませた。無論、手伝わせてはもらえなかった。
「はーい。じゃあ歯磨きしようね」
「ねぇシルヴィ、幼児扱いしてない?」
「そ、そんなことないよ? 歯磨きって、自分ですると結構頭揺れるし。大事をとって、ね?」
「言い訳くさいなぁ」
とは言いつつも、シルヴィの言うことに従うと決めたので、その太腿に頭を預ける。
「ポジションおっけー? 安定してる?」
「大丈夫だよ」
「じゃあお口開けてー」
「あー」
歯医者さんに来たようなものだと考えよう。もっとも、こんな可愛い恋人が歯科衛生士なら、虫歯治療だろうと何だろうと喜んで向かうだろうが。
「結構難しいね」
シャコシャコと歯を磨いてはいるものの、自分でするのと他人にするのでは勝手が違うのか、随分苦戦している。実際、何度も空振りしていた。
「うーん。パパみたいにはいかないなぁ」
そういえば、幼少期のシルヴィの面倒はパパさんが見ていたのだから、必然的にシルヴィの歯磨きもパパさんが担当していたことになる。
あのダンディな髭をこさえたパパさんが、娘を膝に乗せて歯磨き。想像すると、シュールで面白い。
「こらケイ。動かないの」
笑ってしまいそうなのを堪えていたら、シルヴィに叱られた。右手で俺の頭を押さえるその表情は、真剣そのものだ。
予行演習、のつもりなのだろうか。だとしたら、少しこそばゆいものを感じる。
呼吸の合間。不意に、シルヴィとバッチリ目が合った。意識していなかったが、顔と顔の距離は近い。
「ふふ。かーわいい」
ドキッとしたのは俺だけだったようで、シルヴィは揶揄うように俺の頬っぺたをツンとつついた。
まあ、大口開けて歯ブラシを咥えた顔にときめきはしないか。
「大丈夫? 結構長くしてるけど、苦しくない? って言っても答えられないよね」
自問自答して、シルヴィは俺を解放した。
起き上がることを許され、洗面台でうがいまで終えると、自分の分の歯ブラシを持ったシルヴィにシャツの裾を引かれた。
「また練習、付き合ってね」
照れくさそうに言うと、シルヴィは歯ブラシを咥え、シャコシャコやり始める。
予想が当たっていてシルヴィのことを愛しく思うと同時に、なんとなく、外堀を埋められているような感じがした。
昼食にもまたたっぷり時間をかけ、幼少期のシルヴィ風に言うと、ちょうど幼稚園から帰ってきてお昼寝の時間。
「ちょっと勉強でもしようかな」
「だーめ。頭に血を回さないようにしないと」
案の定というか、俺の要望は口に出しただけで却下された。
「それよりさ、ケイ」
「今度はどうしたの?」
「耳かきとかされたくない?」
今度は両親に見られないよう俺の部屋で、シルヴィはそんなことを提案してきた。
「ほら、自分ですると頭がさ」
「なかなか無理があると思うよ」
「むぅ。とにかく、はい。お膝にどうぞ」
最早言い訳もなく、半ば強引にベッドの上で膝枕をされる。ツッコミどころはあるものの、シルヴィの膝枕の心地良さは保証されているので、文句はない。
「よーしよーし」
力を抜かせたいのか、ゆったりとした調子で、柔らかい太腿に乗った俺の頭が撫でられる。
「いい子いい子」
「やっぱり子ども扱いしてない?」
「そんなことないよ。大人扱いのいい子いい子だよ」
「矛盾してる気がするけどなぁ」
「いいからいいから。シルヴィママにたくさん甘えてね」
「隠す気ないよね?」
「えへ」
そういうナニかに目覚めてしまったらどうするのか。まあ、その場合でも受け入れてくれるだろうが。
「お耳触るね」
シルヴィの細い指が耳に触れ、さらに溝をなぞる。身体が反応しないように、精一杯堪えた。
「んふふ。くすぐったい?」
「まあね」
「でもやめてあげなーい」
楽しそうに笑いながら、俺の耳を弄くり回す。初めはこそばゆかったが、だんだんマッサージのようになってきて、心地良さに変わっていった。
「気持ちいい?」
「うん」
「よかったぁ」
安堵の声と共に、もうしばらく耳マッサージを続けた後。シルヴィはベッド傍のサイドテーブルから耳かきを手に取った。
「じゃあ、本番いくよ。痛かったら言ってね」
「わかったよ」
恐る恐るといった手つきで、木製の耳かきが侵入してくる。そのままカリカリと、控えめに外耳道を擦ってきた。
「気持ちいいよ、シルヴィ」
「やった」
安心させてあげたくて、ほんの少しお世辞が入った感想を伝えた。そのお陰か、だんだん動きに硬さがなくなってきたように感じる。
「お痒いところはございませんかー?」
「ふふっ。それは美容室だよ」
冗談も言えるようになって、緊張は解れたと言えるだろう。そんな中でも、俺の耳を傷つけないように丁寧にしてくれている。その優しさが、耳かきそのものに増して心地いい。
「あは。びくってした。これが気持ちいいの?」
「う、うん」
「またびくって。ケイってばかわいいなぁ」
そして、俺の弱点も知られつつあった。嬉しそうなシルヴィとは対照的に、こっちは恥ずかしい。
「ふーっ」
「ふぃ!?」
今度は不意に息を吹きかけられて、変な声が出た。
「あっはは。ふぃ!? だってぇ」
「あ、あんまり笑わないでよ」
「ふーっ」
「うっ、く」
すっかりシルヴィのおもちゃにされてしまっている。恥ずかしいのに、不思議と悪い気はしない。
またシルヴィが俺の耳元に顔を寄せてきた。また来るかと思って身構えたが。
「だいすきだよ」
これでもかというくらい甘ったるい声で、そう囁かれた。
胸の奥がぶわっと熱くなるのを感じる。ロマンチックさの欠片もない例えをすると、熱々の湯豆腐を喉の奥に流し込んだくらい。
「だーいすき」
愛の囁きに脳が溶けていく。ずっと聞いていたら頭が馬鹿になってしまいそうだ。
「あれ、ケイ?」
「ん?」
「なんで泣いてるの?」
愛しさが込み上げすぎた結果、気付かない内に涙として溢れていた。シルヴィの太腿を濡らす前に、サッと拭う。
「シルヴィのことが大好きすぎて、かな」
「あは。なにそれ。じゃあボクも泣いちゃうかな?」
「試してみようか」
起き上がって、シルヴィの耳元に口を寄せる。金色の髪を流すと、可愛らしいお耳が姿を見せた。
「シルヴィ」
「はぅ」
「大好きだよ」
「ぁ」
白かったシルヴィ耳が、瞬く間に赤く染まっていく。
「シルヴィ?」
くすぐったかったのか、若干俯いたシルヴィの表情を確認する。蒼色の瞳は潤み、口元はだらしなく緩んでいた。
「すっごく幸せ」
「はは。だよね」
「なんというか、もう、えいっ!」
言葉で言い表せなくなって、シルヴィは抱きついてきた。強い締め付けが、言葉よりも雄弁に感情を語っている。
「大好きだよ」
「ボクもボクもっ」
ダメ押しに囁いてあげると、シルヴィは抱きついたままぴょんぴょん体を飛び跳ねさせた。一番安静でない状態だが、そんなことが気にできるほど落ち着いてはいられない。
「よーしよし」
「えへへぇ」
ゆったりとしたペースで頭を撫でてあげると、締め付けは緩み、ぴょんぴょんしていた体も落ち着いてきた。
「ハッ、いつの間にかボクが甘えてる」
「気づいた?」
「むぅ。恐るべしケイの魔力」
当初の目的というか目論見を思い出したようで、シルヴィは俺の腕の中から離れ、また正座で太腿をぺちぺちと叩く。
「今度は反対側ね。気持ちよーくしてあげるから」
自信たっぷりに宣言するシルヴィ。俺は顔をシルヴィのお腹に向け、また寝転がった。
「じゃあ、またマッサージからするね」
シルヴィの手が俺の耳をこねくり回す。絶妙な力加減で、耳の周りから肩までの力が抜けていく。
正面にお腹があるため、さっきよりも、シルヴィの鼓動や呼吸を強く感じる。それに、シルヴィの体で光が遮られて。それから、シルヴィの匂いや体温に包まれて。
だんだん思考が纏まらなくなってきた。
これは、意識が、落ちる。
〜シルヴィア視点〜
「そろそろ本番、ってあれ?」
ケイの呼吸がさっきよりずっと落ち着いていて、規則正しく体が上下している。返事もしないし、寝ちゃったかな。
起こさないように、静かにしてよう。あ、でも、ちょっとだけなら触っても大丈夫だよね。
優しく優しく、頭を撫でてあげる。今なんか、すごく甘やかしてる感じ。
ケイはそう思ってくれてるかな。ちゃんと甘えてるって気持ちになっててほしいなぁ。
もし子どもができたら、お耳掃除中にこうしてお昼寝しちゃうこともあるよね。それで、動けないボクにケイが飲み物を用意してくれたり、そのまま寄り添ってくれたり。今は、ケイがお昼寝しちゃってるけど。
ケイの髪で遊びながら、理想の未来を思い浮かべる。想像するだけで、身悶えしそうなほど幸せな気分になっちゃう。起こしちゃうから我慢するけど。
「んん」
髪を手で梳いていたら、擽ったいのか、ケイが身を捩った。もっと顔をボクの体に寄せてきて、おでこをボクのお腹にスリスリしてくる。
あーもう可愛い。いつもキリッとしてるケイが赤ちゃんみたいに甘えてきて。お口も開けっ放しだし。
可愛いし、もうちょっとちょっかい出してもいいかな。
頬っぺたつんつん。思ってたより柔らかい。なんか食べちゃいたいな。
あっ、触ってわかったけど、口元にちょっとお髭が生えてる。まだ産毛みたいな感じだけど、将来はパパみたいになるのかな。
そのまま調子に乗って、唇に触れてみた。
ぷにぷに。頬っぺたよりも柔らかい。
なんか、ちょっとだけドキドキする。ケイの唇に触れた指で、自分の唇に触れてみた。同じ間接キスだけど、あーんよりももっとドキドキする。
すごく、キュンキュンして、もし直接キスしたら、どうなっちゃうんだろう。
してみたい。
ケイも同じ気持ち、だよね。きっと。
でもケイって意外とロマンチストっていうか、完璧主義だし、ムードとか色々気にしそう。それに、そういうのは大人になってからとか言いそう。だから、やっぱりボクから仕向けるべきかな。
でもでも、キスしたいって誘うのはさすがに、恥ずかしいかも。
こうなったら、そういう状況を作ってあげるしかないか。でもそうすると、どうしてもやらしい子みたいになりそうな気がする。
「うにゃっ」
そんなことを考えていたら、ケイのおでこがお腹にぐりぐりされた。変なこと考えてるのがバレちゃったかな。
「ぁ、やば」
お腹が刺激されたせいで、ちょっとトイレに行きたくなってきた。でも、せっかくボクに甘えて寝てるケイを起こしちゃうのは勿体ない。
「ぅ」
意識したせいで、もう危険水位まで達してきた。
「んー」
「あっ、こらぁ。ぐりぐりしないでよぉ」
ケイのおでこがさらにボクのお腹へ追い打ちをかける。背に腹はかえられない。ケイを起こそう。
「ケイ、起きて。ねぇ起きて」
「んん?」
朝はすぐ起きたくせに、こういうときだけ寝起きが悪い。モジモジしてるのバレちゃって恥ずかしいのに。
「あぁ、ごめんシルヴィ。寝ちゃってた」
「そ、それはいいからっ。頭退けてっ」
「大丈夫? 足痺れた?」
ケイに上体を起こしてもらって立ち上がったけど、ケイの言う通り、足も痺れてて歩きにくい。我慢だってしないといけないのに。
「く、ぅ」
「だ、大丈夫? 手貸そうか?」
「大丈夫っ。大丈夫だから」
おトイレまで連れてってもらうなんて、恥ずかしすぎる。でも壁伝いじゃないと歩けないのも事実だし。
人生最大のピンチかも。頑張れボクの膀胱。
「あぁやばいぃ」
「ほらシルヴィ、掴まって」
内股でちょっとずつしか進めないボクを見かねて、結局ケイが手を差し伸べてくれた。
「僕のせいで、我慢させちゃったね」
「ちがっ、ぅ」
「全部僕のせいだから。我慢できなくても大丈夫だからね」
こんなときに優しくしないでよぉ。ボクの女として、彼女としてのプライドがぁ。
「どんなシルヴィでも大好きだよ」
「好き、とか、今言わないでよぉ」
どんな状況でも嬉しくて、お股が緩んじゃう。
「ふぃぃぃ」
結局、間に合った。女の子の尊厳はギリギリ守られたけど、本当にギリギリだ。ボクの体感的には、失ったところも多い気がする。実際、ほんのちょっと出ちゃったし。
あれ。もしかして、ボクって色気ないかも。
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