⑥適切な距離感
小学六年生になって、だんだん卒業が近づく冬。
もっとも、小学校からの卒業で離れ離れになるような人はそう多くないし、この寒い中、感慨に耽るにはまだ早すぎる。
冬休み真っ只中。宿題の息抜きに、雲が覆い始めた空を眺めながら、ホットのコーヒーを啜った。
こういうボーッとする時、頭に浮かぶのは、やはりあの可愛い金髪碧眼の少女だ。
会ったばかりの頃は幼女だと思ったような気がするが、時が経つのは早いものだ。
シルヴィとの関係は、比較的良好なものへ戻りつつある。
露骨に目を逸らされることもなく、避けられているのかというほど会えないなんてことはない。
ただ、昔ほどベッタリというわけではない。
会えば世間話はするし、友達として、お互いの家に遊びに行ったり、一緒に出かけたりもする。
しかし、前までのように、一日中隣にいるだとか、隙あらば抱きつくだとか、過度な接触がなくなった。
言うまでもなく、男女の友達として、それこそが適切な距離感だ。
逆に、今の今までずっとベッタリなら、それはそれで頭を抱えていただろう。
それはそれで納得はできるものの、寂しいものは寂しい。
シルヴィとの距離が開いて、もう二年ほどになるのだから、いい加減に慣れろという話なのだが。
僕はどうにも、可愛いものに目がない。幼稚園の頃シルヴィにあげた絵本もそうだし、シルヴィ自身もそうだ。
日常の癒しが、そういった可愛いものなのだと、まるで魂に刷り込まれているかのようだ。
もしかすると、前世の嗜好を引き継いでいるのかもしれない。
「お、慶太郎。大晦日なのに勉強してるのか?」
冷める前にコーヒーを飲み終えると、リビングに父さんが入ってきた。
テーブルに広げた宿題を見て、父さんは苦笑する。
僕と似ていたりするのだろうかと、ふと思った。それを判断する人は、今いない。
「何も大晦日まで頑張らなくてもいいんじゃないか?」
「それにしたってお父さんは寝すぎだよ」
「ははっ。違いない」
とっくに昼を回っているというのに、父さんはパジャマのまま、髪もボサボサだ。
「母さんはどこへ?」
「いつまで経っても起きてこないお父さんに溜息をついてから、夕飯の買い物に行ったよ」
「ありゃ。それはまずいな」
あえて詳細に報告してやると、父さんはテキパキと着替え、パジャマを畳んで片付けた。
母さんが帰ってきたときにまでだらしないと、雷が落ちかねない。それこそ、大晦日だというのに。
「お父さん、お腹空いてる?」
「母さん、何か置いといてくれたか?」
「ううん。無いから、適当で良ければ作るけど」
冷蔵庫の中身を確認しながら、何が作れるか想像する。ハムエッグくらいが軽食としてちょうどいいだろうか。
「えぇ、慶太郎の料理はなぁ」
「息子の手料理に対して何、その反応」
「だって下手くそだし」
「お父さんに似たんだよ」
「言うねぇ」
ちなみに父さんは、僕以上に料理ができない。というか、包丁に触っているところを見たことがない。
家に父さん一人になったとき、必ずキッチンの流しにはカップラーメンの容器が空で置いてある。
そもそも父さんには、自分で作るという発想がないのだ。
「それに、焼くだけなら上手いも下手もないよ」
「確かに」
「それで、要るの? 要らないの?」
「うーん、母さんの夕飯を楽しみにしとくかな」
「あっそ」
卵に伸ばしかけていた手を止めて、冷蔵庫を閉める。
まったく、こんなところで惚気られても。
「ただいまー」
「あ、お母さん帰ってきた」
ドサッという買い物袋の音がしたと思うと、父さんはちょちょいと手櫛で髪を整え、母さんの荷物持ちに玄関へ駆けつけた。
精々ご機嫌取りに奔走するがいい。
夕方。
年越しそばの準備をする母さんを後目に、僕は勉強をし、父さんは寝転がって年末特番を見ている。
母さんの機嫌は、可もなく不可もなく。
荷物運びを率先したお陰で爆発は免れたようだが、こうしてゴロゴロしている父さんを見ては、母さんはため息を零している。
とはいえ、父さんが何か手伝おうとしたところで邪魔にしかならないので、必ずしも父さんが間違っているというわけではない。
父さんはそんな母さんを意識しつつも、半ば現実逃避気味にテレビを眺めていた。
仕方ない。助け舟を出してやろう。
「お父さん、ここがわからないんだけど」
「おっ、なんだなんだ?」
父さんはテレビを消して、僕のノートを覗き込んでくる。
父親らしい姿を見せておけば、母さんも苛つきはしまい。そういう打算を与えつつ、僕も疑問を解消しようという算段だ。
父さん、勉強はできる癖に、自分で考えろしか言わないからな。
「任せろ。父さん、これでも国公立大学で」
「そういうのはいいから」
「あ、おう」
息子相手に自慢話を始めようとする父さんを先んじて止め、ペンで参考書の一部を指す。
「これ、なんでこんなことになってるの?」
パパさんがくれた参考書に載っていた、例題のようなものの解答がイマイチ理解できなかったのだ。
「慶太郎。お前、小学生だよな?」
「え? うん」
「知らない間に高校生になってたりしないか?」
「こんな背が低い高校生嫌だよ」
見ると、父さんは口をへの字に曲げ、あからさまに嫌そうな顔をしていた。
「父さん理系だったから、こういうのは」
言い訳と共に逃げようとする父さん。しかし、それを母さんが胡乱な目で見ている。
「お父さん、わかんないの?」
父さん、チェックメイトだ。
「ぐっ」
父親の尊厳はあっけなく崩れ去った。哀れ。
いつぞやの、余計なお節介の仕返しだ。なんて、別にそう意図したわけではないが。
「わからないならわからないで、一緒に考えてよ」
言うと、父さんは渋々僕の参考書を熟読し、一緒に頭を捻ってくれた。
それから、参考書の解説に対して、色々とそれっぽい図解と父さんなりの解釈を加えてくれる。
「おお。さすがお父さん。やっぱり頭はいいね」
「慶太郎、なんか口悪くなったな」
「そう?」
「なんていうか、皮肉っぽくなった」
苦々しい顔で、父さんは言う。
そうかもしれない。
シルヴィと会う機会が少なくなったことで、メッキが剥がれた。と言うと若干語弊があるかもしれない。
今までの人生、シルヴィと過ごした時間の方が長いのだから、中身や外身という話ではないだろう。
僕は、完璧であろうとすることをやめてしまったのだ。
勿論、完璧なんてものは幻で、何回もシルヴィの前でヘマをした。もっと上手くできたろうと後悔したことも数え切れない。
それでも、その後悔は最上の結果を目指したが故だ。
シルヴィという、カッコつける相手がいなくなったせいで、弛んでいるのかもしれない。
「慶太郎」
少し反省をしようかと思考が流れかけたとき、父さんは僕の頭に手を乗せた。
「お父さん?」
「気にすることないぞ。少なくとも、父さんや母さんの前ではな。むしろ、素直になってくれたみたいで嬉しい」
そう言って父さんは、くしゃくしゃと僕の頭を撫で回した。髪がボサボサだ。
「たまにはお父さんっぽいこと言うね」
「その調子だこの野郎っ」
「うわわ」
さらにボサボサにされた。冗談なのに。
蕎麦を食べ終えれば、ちょうどその時間あたりで毎年恒例の歌番組が始まる。
流行りのアーティストなんかに敏感なのは父さんで、僕や母さんは「へぇ、こんなのあるんだ」という気持ちで見ている。
基本的に毎年そんな感じで、数年前の甘え盛りでさえ、大晦日ばかりはシルヴィと会わずに過ごしていた。
さすがにパパさんも大晦日は休みで、お互いに家族で過ごすということになっていたのだ。
昔はシルヴィもそれについてゴネたりもしたそうだが、今は粛々と受け入れていることだろう。
元々シルヴィはパパさんのことも大好きなのだから。
「あら? こんな時間に」
そんな風に思いを馳せていたら、我が家のインターホンが鳴った。
働き者の配達員でもない限り、こんな時間にうちを訪れる人は決まっている。
「お母さん、僕が出るよ」
「そう? 頼むわ」
長話になる可能性を考慮して、上着を羽織って外に出る。
玄関を出ると、顔に冷たい粒が当たった。電灯の周りの粒の軌道を見るに、雪が降っているらしい。
これがこのまま初雪になるのだろうか。
「どうしましたか?」
そんな情緒を感じるのもそこそこに、用事があって来たのだろう二人に向き直る。
「慶太郎君。こんな日にすまない」
「いえ」
割と本気で申し訳なさそうな顔をして、パパさんは軽く頭を下げる。
その横には、やはりシルヴィの姿もあった。
こっちは特に気にした様子もなく、僕に手を振っている。僕も軽く振り返した。
「それで、どういった御用ですか?」
「今日、シルヴィを預かってもらえないだろうか」
「えっ、今日ですか?」
狼狽えて言うと、パパさんは苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
「どうしても外せない仕事が舞い込んだ。団欒を邪魔して、本当に申し訳ないと思っているが」
その申し訳なさそうな顔を、シルヴィにも向ける。
確かに、新年を一人ぼっちで迎えることになるのは可哀想だ。
本人は気にしていないかもしれないが、パパさんは気にするだろう。
「邪魔じゃないですよ。シルヴィは家族同然ですから」
「そう言ってもらえると、助かる」
それからパパさんは「このお礼はいつか必ず」と言って仕事に行った。
現役社長のお礼と聞いて、嬉しいような恐ろしいようなものを感じつつ、シルヴィを伴って家に戻る。
「ママさん、パパさん、お邪魔します」
「あら、シルヴィちゃん」
「んぉ、どうしたんだ?」
ぺこりとお辞儀したシルヴィを、炬燵に入った両親が迎える。
多少気を使わせるかもしれないが、今年だけだろうから我慢してもらおう。
「シルヴィ、炬燵入ってて。ココア淹れるよ」
「はーい。お構いなくー」
話し込んでいたわけではないが、外は寒かった。
シルヴィは炬燵に入って、冷えた指先を温めてホッコリしていた。それを見た両親もホッコリ。
「はい、シルヴィ」
「ありがと、ケイ」
「隣いい?」
「え、あー、うん」
炬燵には無論四面あるが、空いている面ではテレビが見られない上に、シルヴィがテレビを見る時、物凄く邪魔になる。
下心無しに、シルヴィの隣に座る。どこが触れるでもなく、僕らの間は拳一つ分くらい空いている。
このくらいの距離なら、今でもそう珍しくない。ここまでアットホームな雰囲気で同じ炬燵に入るのは初めてだが。
「この並び、久々に見た気がするなぁ」
テレビがCMに入り、父さんがこっちを見て呟いた。そういえば、最近父さんがシルヴィと会う機会はそう多くなかった気がする。
「前はもっとベッタベタにくっついてたわよ。炬燵なのに暑くないのかってくらい」
「お母さん、昔のことを掘り返さないでよ」
シルヴィは何も言わず、恥ずかしそうにマグカップを傾ける。
甘え盛りのシルヴィは、僕の全身を炬燵に引きずり込んだ上で抱きついていたものだ。
「シルヴィちゃん、うちの息子ならいくらでも抱き枕にしていいのよ」
「それは、遠慮します」
「そう? あわよくば寝顔を撮らせて欲しいんだけど」
「もっと嫌です!」
からかわれてムスッとしたシルヴィ。微笑ましい。
「シルヴィ、あーん」
「ふぇ? あむ」
機嫌を直してもらおうと、丁寧に白いのを取り除いたミカンを口に放り込んだ。
「美味しい?」
「うん」
「もっと食べる?」
「ちょーだーい」
雛鳥のように開いたシルヴィの口に、手早くミカンを剥いて放り込む。
一口ごとに機嫌が良くなり、ムスッと固まっていた表情がふにゃふにゃと溶けていく。
「仲良しねぇ」
これには母さんもニッコリ。
しかし、シルヴィはハッとして僕のあーんを拒んだ。
「ミカンくらい自分で剥けるからねっ」
何に対抗したのか、シルヴィは焦ったように言って、シルヴィはもう一個ミカンを手に取った。
「はい、ケイ。あーん」
「え? あー」
お返しとして、僕の口にミカンが詰め込まれる。照れているのか何なのか。
夜も更けてきた。
順番にお風呂にも入り、あとは、もう間もなくの年越しの瞬間を待つばかり。
というのだが、パパさん管理の元、規則正しい生活を送っているだろうシルヴィは瞼が落ちかかっている。
「シルヴィちゃん、布団敷いてあるからね」
「うぅん」
もうこっくりこっくりと船を漕いでいる。いつ寝落ちしてもおかしくないくらいだ。
「シルヴィ、僕はもう寝ようかな」
前のお泊まりでも使った手口だ。眠たげなシルヴィも可愛いが、無理に付き合わせるのは好ましくない。
そう思って炬燵を出ようとした僕のパジャマの裾を、半分眠った状態のシルヴィが掴む。
「まだだめ」
「え?」
「おめでとう、一番に言いたいから」
言いながら、瞼が開いていない。
嬉しいような微笑ましいようなで、口元が弛んでしまう。
「じゃあ、頑張って起きて」
シルヴィの顔を両手で包む。
シルヴィがうっすら目を開けるのと同時に、除夜の鐘が鳴り響いた。
テレビの向こうからは、あけましておめでとうの声がこたましている。
「シルヴィ、あけましておめでとう」
「あけまして、おめでとう」
シルヴィは、ふにゃぁっと笑って、眠りに落ちた。