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③羞恥心

 僕が三年、シルヴィが二年に上がった年の、ある日のこと。


 今日はシルヴィが上機嫌だ。


 いや、シルヴィの機嫌が良いのは今日に限った話ではないが、とにかく今日は特別ニッコニコだ。登校から下校まで、今日見たシルヴィはずっと笑顔だった。


「おっとまりっ、おっとまりっ!」


 その理由が、お泊まりである。


 今日はシルヴィパパさんにどうしても外せない出張の用事があるらしく、家に帰ってこられないというのだ。


 シルヴィと過ごすことに命まで懸けそうなあのパパさんだからこそ、今の今までそういうことがなかったのだろう。


 なぜ数年前の誕生日ではダメで、お互い小学生になってから許されたのかはわからないが、パパさんの考えることなどわからない。


 当然のように僕の家で一緒に宿題を終え、夕飯まで遊ぶ。


「ママさんのお料理手伝いたい」


 と思いきや、シルヴィは唐突にそう言いだした。


 泊めてもらう見返りというほどの意識もないほど、シルヴィはうちに馴染んでいる。一体どんな風の吹き回しかと思ったのだが、単純にお手伝いがしたかったらしい。


 おままごとの延長程度の意識かもしれないが、自発的に何かをしたいと言い出すのは良い傾向だ。


「わかった。じゃあお母さんに頼んでみよう」

「うん!」


 そういうわけで、ちょうど夕飯の支度のため二階から降りてきた母さんに頼んでみる。


 もともとシルヴィに甘い母さんなので、二つ返事でオッケーが出た。


「娘とお料理なんて、お母さん夢だったのよね」

「娘じゃないよ、お母さん」

「慶太郎とシルヴィちゃんは兄妹みたいなものよね? なら慶太郎のお母さんはシルヴィちゃんのお母さんよ」

「その理屈はおかしい」


 日頃母さんがシルヴィに向ける愛情を思えば、その気持ちもわからないではない。


「ママさん、ボクはケイの妹じゃないよ」


 しかし、当のシルヴィは、兄妹みたいというところに不服があるようだった。おかしな表現でないどころか、的を得ていると思うのだが、シルヴィの琴線もよくわからない。


「そう? ごめんね」

「でもママさんはボクのママでもいいよ」

「本当!? うちの子になる?」

「パパさんが泣くよ」


 母さんがママで良くて、僕が兄なのは嫌と。それは兄貴分を自称していた者として、ちょっと刺さるものがあったが、勝手に娘を取られそうになっているパパさんよりマシか。


「それより、早く始めようよ。お父さんが帰ってくるのに間に合わなくなるし」


 そう促しつつ、用意したお立ち台に上って手を洗う。


「ケイは手伝ったらダメだよ?」

「えっ?」


 皺の少ない手を念入りに洗っていると、シルヴィが当然のように言った。そんな馬鹿なと思ったが、それに母さんも頷く。


「慶太郎は見てるだけよ。その台もエプロンも一つしかないし」

「なん、だと」

「それに慶太郎、あんまり料理上手くないし」


 地味に刺さった。いや、数回の手伝い経験から、とんと包丁を扱う才能がないことは自覚していたが、何もシルヴィの前で言わずとも。


「じゃあケイの代わりに上手になるよ!」


 と思ったが、それを聞いてシルヴィは俄然やる気になったようだった。


「じゃあケイ、退いて」

「ぐむぅ」


 あの過保護なパパさんがシルヴィに料理をさせるとも思えないし、一日の長があるかと思ったのだが、それを披露することもできないようだった。






 母さんが後ろから覆いかぶさるようにして、シルヴィに料理の手ほどきをしている。僕はそれを座ってぼーっと眺めていた。


 そして僕のすぐ近くには、仕事から帰ってきてジャケットを脱ぐ父さんの姿。


「早かったね、お父さん」

「おう。息子が女の子を連れてくるって喋ってたら、早く帰って挨拶してこいって、上司からな」

「だいぶ誤解されてない?」

「早とちりした上司が悪い」


 父さんの年齢的に、ご挨拶の必要な年齢の息子がいるとは思えないはずなのだが。


 ともかく、父さんは毎晩遅くまで働いているし、たまにはこういう日があっても良いだろう。


「それで、慶太郎はハブられてるのか?」

「まあ、そうだね」

「キッチンは女の戦場ってか」


 随分古い考え方だ。しかし現実、そんな感じである。


「あとはこれを頑張って捏ねるのよ」

「はーい!」


 料理の方は順調に進んでいた。勿論、初心者のシルヴィを教えながらでは普通より時間がかかるが、それにしてはスムーズだ。


「わっせ、わっせ」

「シルヴィちゃん、このときにとっても大事なポイントがあるのよ」

「なぁに?」

「ラブパワーを込めて捏ねるのよ」


 ポテトサラダの準備をしつつ、母さんはそんな風にシルヴィを唆した。


「ん、わかった」


 そんな女児向けアニメみたいな概念が料理にあるのかは、果たして定かではない。とはいえ、シルヴィはそれに納得を示した。


 そしてシルヴィは僕の方を振り返って、一瞬だけ目を合わせる。


 だが、シルヴィはすぐに顔を赤らめて、材料の入ったボウルに向き合った。


「ケイ、好き。大好き、大好き」


 そんな呪文を唱えながら、シルヴィは中身を捏ねる。


 さすがに恥ずかしいみたいで、髪の隙間から見える耳まで真っ赤になっているのがわかる。


 僕だって恥ずかしい。


「シルヴィ、別に声に出さなくてもいいんじゃないかな」

「あ、うん」


 あんまりにも直接的な宣言に、僕まで顔が熱くなってきた。


「愛されてるなぁ」


 父さんがニヤニヤしながら小声で囁いてきたので、とりあえず脇腹に肘を入れた。






 シルヴィの愛情がたっぷり入った夕食のハンバーグは、言うまでもなく美味しかった。


 夕飯に対して、食べるのが勿体ないなんて感情を抱いたのは初めてのことだ。


 たっぷりシルヴィを褒めちぎった後、お礼ではないが、僕は洗い物を手伝った。


 その後、リビングのテーブルの上で、日課となりつつあるものを始めている。


「ケイ、何してるの?」

「勉強だよ」


 テレビを見終わって隣にやってきたシルヴィに、顔を上げて返答する。そうすると、シルヴィは嬉しそうに目を合わせて笑ってくれた。


 そして話を続ける。


「学校のお勉強?」

「ううん。前にパパさんが、やると良いって言ってた勉強だよ」

「パパ、ケイにそんなこと言ってたの?」

「うん。まあね」


 オブラートに包んだが、実際は強要されたに近い。


 シルヴィと付き合うならこれくらいやってみせろと、小学校に上がると同時に教材を押し付けられたのだ。


 全くもって小学生が学ぶような内容ではないが、前世の記憶から派生的に得た知識欲というのが存外働いてしまった。


 そういうわけで、立派に日課として、僕の夜の時間を根こそぎ奪っていくのである。


「ふーん。面白い?」

「うん。それなりに」


 全部が全部理解できるわけではないが、見栄もあってそう答えると、シルヴィは隣から参考書を覗き込んだ。


「わっ、漢字ばっかり。全然読めないよ」

「あはは。そうだよね」

「ケイは読めるの?」

「少しはね。お父さんに教えてもらったから」


 内容は、その父さんも苦笑いするようなものだ。誰が小学生に政治経済を分厚い参考書と共に学ばせようと思うのか。


「ケイはすごいね」

「パパさんの方がすごいよ。色んな意味で」


 苦笑しながら言うと、シルヴィはにぱっと笑って、パパさんの自慢話を始めた。


 今日の参考書の進捗はいつもより悪かったが、シルヴィが楽しそうに話をしてくれたことに免じて、後日埋め合わせるとしよう。


「あっ」


 シルヴィの話にある程度区切りがついたところで、ピロリロリンと音が鳴った。


「ケイ、何の音?」

「お風呂が沸いたときの音だよ」

「へー。僕の家とは違うね」

「そうなんだ」

「うん。オフロガワキマシタって喋るんだよ」


 機械音声を真似するシルヴィ。そんな微笑ましいひと時にも、次のシルヴィの言葉で緊張が走る。


「ねぇケイ、一緒に入ろうよ」


 そんな無邪気すぎる言葉が、僕の頭の中で反響する。


 僕個人としては何ら構わない。シルヴィがこう言っているのだから、甘えさせてやればいいと思う。こんな風に甘えてくれるのも今のうちかもしれないし。


 しかし、シルヴィがそれを嬉しそうにパパさんに報告したら。どんな目に遭わされるかわかったものではない。


「えーっと、シルヴィは僕のお母さんと入ったら? お母さんも喜ぶと思うし」

「ケイはボクと一緒じゃ嫌?」

「そんなことはないけど」

「じゃあ一緒がいい。ダメ?」


 必殺の上目遣い。相変わらずおねだりが上手だ。最近は特にその辺りが手慣れてきた。断ったら泣き出しそうなくらいに瞳を潤ませている。


 ええい、どうにでもなれ。


「わかったよ。一緒に入ろうか」

「うんっ」


 ぱぁっと笑顔を咲かせるシルヴィ。持ってきたパジャマを掲げ、ウキウキしているのが目で見てわかる。


 そうして一緒に脱衣所で服を脱いだのだが、実際裸になると、思っていた三倍くらい恥ずかしい。


 その感想はシルヴィも同様のようで、ついさっきまで小躍りしそうなくらいだったのが、今はしおらしく自分の体を抱きしめている。


「は、入ろうか」

「うん」


 そんな様子のシルヴィになんだかドキドキしてきて、それを誤魔化すように頭からかけ湯をして湯船に飛び込んだ。


 ただ一緒にお風呂に入るだけ。それ自体はやましいことかもしれないが、所詮小学校低学年。感ずるところなどない。


「ケイ、隣入るよ」

「うん」


 裸のシルヴィが隣にちゃぷんと浸かる。


「はふぁあ」


 間延びした声が浴室に響いて、しばらく。


 初めのうちは恥ずかしかったものの、頭の先まであったまってくると、どうでもよくなってきた。


 やっぱりシルヴィも同じのようで、露骨に逸らしていた視線がこっちを向いた。


「ケイの体、ボクより何だかカクカクしてるよね」

「そう? パパさんに比べたら全然だと思うけど」


 シルヴィに比べれば、休み時間なんかに運動をする分、いくらか筋肉もついているだろうが、完全に骨格の出来上がったパパさんには全く及ばない。


「確かにそうかも。なんでボクはケイやパパと違うの?」

「そりゃ、シルヴィは女の子だからね」

「ふーん」


 シルヴィは曖昧に返事をしながら、視線を湯船の中、僕の下半身に向けていた。シルヴィも、それなりに興味があるのだろう。


 だからって、性教育をするにはまだ早い。それに、僕も恥ずかしい。もっとも、それをシルヴィに悟られないよう、あえて堂々と隠さないでいる。


「シルヴィ、髪の毛洗おうか」

「あ、うん」

「自分で洗える?」

「洗えるよ。でもケイにやってほしい」


 一緒にお風呂に入るなんて我儘を聞いたのだ。今更この程度甘やかしたところで変わるまい。


「いいよ。洗い方教えてね」

「洗い方違うの?」

「多分ね。シルヴィはパパさんと同じ洗い方してる?」

「んー、そういえば、使ってるのが違うかも」


 予め聞いてよかった。下手な洗い方をしてシルヴィの髪が傷つこうものなら、一生モノの損失だ。


「どういう洗い方を習った?」

「えーっとね」


 シルヴィを座らせ、その後ろに立って、シルヴィの言う通りに髪や頭皮を洗っていく。


「シルヴィ、髪伸びたね」

「そう?」

「うん。初めて会ったときは、もっと短かったよ」


 幼稚園入学くらいのとき。あの頃はショートカットだったが、今は肩甲骨にかかるくらいになっている。


「ケイはどっちの方がいい?」


 僕の手に髪を委ねながら、シルヴィはそう問うた。


 どちらが似合うかと聞かれても、どっちも似合うとしか答えられない。


「どっちも捨てがたいなぁ。シルヴィの好きな髪型にしたらいいと思うよ」

「ケイの好きな髪型がいい」

「そう言われても、決められないよ。どんな髪型でも可愛いし」

「そう? えへへ」


 褒めておくと、その話はそのまま曖昧に終わった。そのうち、髪を洗うのが面倒とかいう理由でバッサリ切るかもしれないが、それもまた良し。


「ケイ、お返しに背中流してあげる」

「背中? 髪の毛じゃなくて?」

「えっとね」


 僕の疑問には答えず、シルヴィはボディソープを泡立てる。そして、自分の全身に塗りたくった。


「シルヴィ?」

「えいっ」


 そのままシルヴィは、僕の体に抱き着いてきた。泡まみれとはいえ、裸同士。しっとりすべすべのシルヴィの肌が、僕の背中に触れる。


「シルヴィ!?」

「パパさんが、こうすると男の子は喜ぶって」


 あの馬鹿親父。純朴なシルヴィに何を吹き込んでいるのだ。シルヴィのパパさんに葬られるぞ。


「どう、ケイ? 嬉しい?」


 柔らかい体を僕に押し付けながら、シルヴィが小さい声で尋ねてくる。


 シルヴィの胸から、僕の背中へ、シルヴィの鼓動が伝わってきた。全力で走った後かというくらい早い。そんなに恥ずかしいなら、やらなければいいのに。


 とはいえ、ここまでしてくれたのだから、色よい返事をしなければなるまい。


「うん。嬉しいよ。ありがとう」

「え、えへへ」

「でも、僕以外にしないでね」

「うん。しないよ」


 そうして、二人して真っ赤になりながら、お風呂を満喫した。






 お風呂上り、シルヴィがうつらうつらし始めたので、父さん母さんに先立って二階の寝室へ。


 僕の家はいつも川の字に眠っているが、今日はそこにシルヴィが混ざることになる。


 ゆるゆると力の抜けたシルヴィの体を支えながら、布団に潜り込む。


「ケイぃ」

「シルヴィ、おやすみ」

「んんぅ、まだ起きてるもん。ふぁ」


 口を大きく開けて欠伸をしながら、瞼も落ちかけのシルヴィは強がる。誰がどう見ても眠そうだ。


「そっか。僕は寝るけど、シルヴィは起きとく?」

「んぇ? ケイが眠いなら、寝ようかなぁ」


 別に眠くはない。しかしシルヴィも、僕が起きていないのに無理に起きようとはしないだろうという判断だ。


「ケイ、ぎゅーってして」

「え?」

「ぎゅー」


 僕が何か行動を起こすより先に、シルヴィが布団の中を這って僕の体にべったりへばりついた。


「シルヴィ、ちょっと苦しいよ」


 半身が僕の体に乗せられ、若干呼吸が浅くなる。眠れないほどではないが、退いてほしいとは思うレベル。


 しかし、シルヴィはその体勢のまま眠ってしまったようだ。耳元に、規則正しい寝息が届く。


「どうしようかな」


 一人で呟く。無理に退かしてシルヴィを起こすのも忍びないし、このまま眠る努力をしよう。


 目を閉じる。


 感じるのは、シルヴィのことばかり。寝息の音も、お風呂の時よりよっぽど落ち着いた心拍も、ぽっかぽかの体温も。どこか甘い匂いもそうだ。


 どうしてか、力が抜けて、落ち着く。


 いつもよりよっぽど寝にくいはずの体勢。なのに、僕は驚くほどあっさりと眠りに落ちたのだった。

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