幕裏 百瀬百合花/2
紅条穂邑が退院して、一週間が経過した頃。
わたくし―――百瀬百合花は、未だに彼女と顔を合わせてはいなかった。執務に追われていたのもあるけれど、記憶を喪ってしまったという現実と向き合えるだけの余裕がなかったというのが本音だった。
しかし―――平日最後、とある金曜日の夜。
自室でくつろいでいたわたくしの元に、紅条穂邑が倒れたという報告が届いた。
学生寮、茨薔薇の園、一階。
レベル1から2の生徒達が暮らしている階であり、紅条穂邑はレベル1という位にいる。わたくしの住んでいる場所が四階であるため、急いでエレベーターを経由して彼女の部屋へと向かう。
紅条穂邑の部屋の前には、寮監を務める濠野美咲が腕を組んで立ちすくんでいた。連絡をくれたのは彼女ではなく、穂邑の友人である渋谷香菜だったが、彼女には時間も遅いため自室で待機して貰っている。
「―――美咲さん! 穂邑さんの容態は?」
「おう、早かったな百瀬。緊急だったんでアタシが医者の代わりに診たんだが、症状についてはよくわからないままだ」
「そんな……それでは、今すぐにでも病院へ!」
「いや、そんなに急くほどでもない。呼吸は安定しているし平熱も保っている。渋谷が言うには唐突にフラっと倒れたらしいが、アタシの見立てじゃ急を要するほどの症状ではないと思う。万全を期して明日の早朝に医者を呼んであるから、詳しくはそこで解るだろう」
美咲は寮監としての責任感はとても強い人間だ。間違っても生徒の危機を見過ごすような愚行は犯さない。その一点においては誰よりも信用しているし、そんな彼女であるからこそこの場所を任せているのだ。
だからこそ、わたくしは美咲の言葉を信じるべきだ。……そうするべき、なのだが。
「ありがとうございました。それでは、ここから先はわたくしが穂邑さんの傍に付きます。美咲さん、明日までこの部屋の鍵をお借りしても?」
「それは構わんが。……紅条穂邑、か。百瀬、お前にとってコイツは何なんだ?」
「それは―――」
穂邑をこの学院に招いたのはわたくし自身である。本来ならば入学条件もクリアしていないような一般人。レベル1という位はあくまでも特殊な処置であり、この学院には基本的にレベル2以上の生徒がほとんどなのだ。
当然、この寮に住まう以上、美咲にも彼女のことは軽く話していた。レベル1という特別待遇の枠組みに半ば無理やり突っ込んで入学させ、寮に住まわせる―――美咲は疑問のひとつも投げずに受け入れてくれたものの、やはり彼女も気になっていたのだろう。
「ああいや、言いたくないような事情もあるだろうし、追求したいわけじゃないんだ。だが、これでも寮の生徒全員を守るべき立場にあるアタシとしては、少しでも己の預かる生徒のことは知っておきたくてな」
「申し訳ありません。隠すようなことでもありませんでしたが、彼女はわたくしにとって……そうですわね―――」
過去の記憶を思い返す。
あれは、言うなれば幼き頃の夢のようなものであり、わたくしにとって―――
「初恋の相手、ですかしら」
それがこの心に宿る感情を的確に表現した物言いであるかは定かではないけれど、今のわたくしが敢えて口にするならば、それが一番しっくりくる形容だった。
◆◆◆
美咲から鍵を預かり、穂邑の部屋へと上がり込んだわたくしは、初めて見る彼女の部屋をざっと見回しつつ、急ぎ足で寝室へと向かった。
敷布団の上で穏やかな顔をして眠る少女がひとり。
「……穂邑、さん」
思わず声が漏れ出てしまう。
倒れた―――というから心配していたが、これは確かに美咲の言う通り杞憂であったかもしれない。
彼女の傍に近付いて、寄り添うように腰を下ろす。
―――職権乱用、とはこの事だ。
わたくしはこの後に及んで思い至った。こうして彼女の寝顔を眺められる幸福に心が踊ってしまっている自分がいる、ということに。不謹慎であると解っていながらも、ここ数ヶ月、彼女と会えなかった寂しさを紛らわせようとしているのだ。
「可愛らしい顔。昔は男の子だと思っていたのに、今ではこんなにも―――」
すう、すう、と小さく寝息が聴こえてくる。
思わずドキリとしてしまうほどにか細く、けれど心地のいい音色だった。
ああ、やっぱりわたくしはこの人のことを―――
気付けば右手が勝手に彼女の額へ触れていた。確かに熱っぽいという訳でもないし、何かしらの症状を煩わせているわけではないようだ。
わたくしはそのまま、その手を彼女の頬へと滑らせて、
「……ん、う―――」
「ひゃっ! ほ、穂邑さん……?」
ぱちり、と目が開かれる。
わたくしは思わず右手を宙に浮かせながら、驚きの声を上げてしまった。
「え……あれ……、誰……?」
穂邑は寝ぼけ眼でこちらを見つめながら、しかめっ面で疑問を口にする。
「あっ、その、申し訳ありません。わたくしは、ええと……この学院の長をしていて……」
「うっ、ぐ―――」
「穂邑さん!?」
「頭が……僕は、いや……私は―――」
僕、という一人称を聞いて、わたくしは心臓が跳ね上がる思いだった。
それは確か、紅条穂邑が幼い頃に使っていた一人称だったはず。まさか、その頃の記憶を取り戻している……?
「―――穂邑さん! わたくしです、百瀬百合花ですわ!」
「ゆ、り……か……?」
「わたくしは、貴女と出会って……ここまで……すべて、貴女のおかげで……!」
きっと無駄だ、解っている。
それに今は彼女の容態を心配すべきなのだ。わたくしの個人的な感情など捨て置かなければならない状況だ。
けれど、それでも―――
「ゆり、か……百合花、さん……ああ、うん、そうだ……私は……」
「穂邑さん……!?」
穂邑は頭を抑えながら、荒くなった息を整えるように深呼吸をして、
「―――思い、出した。ごめん、百合花さん……私、たぶん長くは……でも、うん……」
身体を起こし、こちらを上目遣いで見つめる穂邑。
「記憶が……お戻りになられたのですか!?」
「……ああ、いや。ごめん。これ、たぶん一時的なものだと思う。夜羽との一件で、記憶喪失になってる……というか、新しい私が自分の中に生まれた、みたいな感じでさ」
「そ、それはどういう……?」
「―――天使の棺。詳しくは夜羽から聞いて。私もあんまり良く解ってないから」
未だに記憶が混濁しているのか、話口調がいつもの敬語ではなくなっているようだった。わたくしは違和感を覚えつつも、彼女の言葉に黙って耳を傾ける。
「たぶん……この記憶に上書きされてしまって、普段は今の私が出てこられなくなってるんだと思う。実のところ、こうして記憶が蘇るのもすでに何度か経験してて……」
「不安定な状態……ということですの?」
「まあ、少なくとも普段の私……いや、今は僕か。もうひとつの……あの人はさ、きっと認められずにいるんだと思う」
「それは……?」
「しばらくはあのまま、こうして私が出てこられることはない、ってことかな。……ごめんなさい百合花さん。迷惑、かけるかもしれない」
彼女の言っている意味は未だに理解できなかったが、それでも。
「そんなこと、気になさらないで下さい。きっといつか、貴女が戻ってきてくれる時がくる……それまで、わたくしはいつまでも待ち続けますから」
「あはは……そう、言ってもらえると、助かる……な……」
ふらっ、と。
穂邑は微笑みを浮かべながら、わたくしの膝下へと崩れるかのように倒れ込んだ。
「穂邑さん?」
返答はない。
代わりに、すうすうと呼吸の音が聴こえてくる。
「……眠って、しまった?」
わたくしは思わず、彼女の頭を胸元に寄せて抱きしめる。
正直、先程の話はほとんど理解の範疇にない。まるで現実感のない話だった。
天使の棺、そして黒月夜羽。
やはり彼女が穂邑の記憶喪失を引き起こした原因だったのだ。これまでは細心の注意を払い、事の根深い部分にまで手を伸ばす真似はしなかったけれど―――
(どうやら、腹を括る必要があるようね)
愛しい少女を胸に抱いて、わたくしは決意を固くする。
いつか、なんて言ってはいられない。
わたくしは、わたくしに出来ることをしなければ。
―――覚悟は、とうの昔に済ませていたはずなのだから。




