幕裏 百瀬百合花/1
茨薔薇女学院を設立し、二年目。
わたくし―――百瀬百合花の悲願とも言える第一歩は順風満帆と言えた。
しかし、十年前の約束は未だに完全な形で果たせたとは言い難い。
「あ、百合花さん。おはようございます」
―――早朝、学院の廊下にて。
赤みのかかった茶髪をポニーテールに纏めた一年の生徒に声をかけられる。
「あら、穂邑さん。ごきげんよう」
紅条穂邑。
彼女はわたくしが直に推薦して入学して貰った相手であり、十年前に出逢ったことのある、いわゆる幼馴染みたいな存在だ。
けれど半年前、入学式の後―――
『お久しぶりですわね、穂邑さん。わたくしです、百合花です』
『……ええと、ごめんなさい。推薦して貰っておいて失礼なんですけど、実はよく覚えてなくて』
……そう、彼女は記憶を失っていた。
異常を感じたわたくしは数度のカウンセリングを設け、紅条穂邑という人間の記憶について探りを入れたのだが、どうやら幼少期―――特に紅条家へ養子に取られる前までの記憶が無くなっているようであったのだ。
「百合花さん、いつも朝早いですよね。それにすごく忙しそうだし……お昼にたまに学食に誘って貰えないとほとんど会えないから」
「……え、ええ。名前だけとはいえ、学院長代理と生徒会長の兼任はなかなかに大変ですから」
こんな具合に、どこか他人行儀なところも違和感がある。
見た目も昔と比べて随分と女性らしくなったし―――かつては男の子と見間違えるほどだったから、久しぶりの再会は色々な意味で衝撃的なものだった。
「香菜も言ってましたよ、たまには一緒に遊んだりしてみたいって」
「渋谷さんとは円卓会議でしか顔を合わせませんが、そう言っていただけるのは光栄ですわね」
「夜羽なんかずっと文句ばっかりですよ。あの人はいつも根を詰めすぎなのよ〜って」
と、穂邑さんは苦笑いしながら言った。
幼少期の記憶がなくとも、その時に共にいたもう一人の少女―――黒月夜羽ともいつの間にか仲良くなっていたらしく、時折彼女の話もこうやってしてくれる。
「あの子に心配されていてはわたくしもまだまだですわね。というか穂邑さん、そろそろ敬語も辞めていただいて構いませんわよ?」
「え、あー……なんていうか、まだ慣れてないみたいで」
「ふふっ、まあ少しずつで結構ですから。それでは―――」
わたくしは少し気不味くなって無理やり話を終わらせて踵を返した。
穂邑さんも特に執着することもなく、一言別れの挨拶を告げて去っていく。
どうして彼女が覚えていないのかは解らない。
何かしらの原因が存在する記憶喪失なのか、それとも単純に幼少期の出来事が露と消えてしまっているだけなのか。
解らない、けれど―――
(やっぱり……もどかしいな)
わたくしにとって彼女は特別だった。
十年前に交わした約束―――再び三人で一緒にいようと決めて。
そう思えるようになったキッカケは、わたくしが家出をして公園で穂邑さんと出逢ったからだから。
……だからこそ、辛い。
仕方のない事だと割り切れたらどれだけ良いのだろう。
でも、そんな簡単にいけば苦労はしなかった。
百瀬百合花、紅条穂邑、黒月夜羽。
幼馴染三人は確かに再び集まり、同じ場所で過ごす事が出来ているのに。
心は、どうしても離れてしまっている気がした。
◆◆◆
それから数ヶ月後。
黒月夜羽の退学と共に、紅条穂邑が入院した。
原因は放火魔による紅条家の炎上。
当日、偶然にも遊びに来ていた渋谷香菜の手によって穂邑さんだけはなんとか一命を取り留めたが、重症。彼女の両親は帰らぬ人となってしまった。
全治一ヶ月、入院費はどうやら渋谷の御令嬢としての立場を利用した渋谷香菜が支払うとの事だったが、実のところわたくしも裏でこっそり手を回していたりする。
しかし、問題は身体だけではなかった。
―――記憶喪失になった、らしい。
以前のような幼少期部分の記憶が抜けている、程度の話ではなく。
これまでの出来事、更には自分自身の事についてさえも完全に忘れてしまったのだと言うではないか。
わたくしはにわかに信じられず調べを入れたが、どうやら夜羽の―――いや、黒月財閥で進められている何かしらの計画に関わりを持ってしまい、それが原因であるというところまでは掴むことができた。
紅条家を燃やした放火魔は未だに捕まっていないらしく、その道のプロによる犯行である可能性が高い。どうやら穂邑さんは黒月の禁忌に触れてしまったようだ。
そこまでのレベルになると、わたくしも安易に手出しは出来ない。出来る事と言えば穂邑さんの身柄を確保し、安全なところで守る事くらい。
「クリス。あちら側への根回しは済んだかしら?」
わたくしは自室のソファで横になりながら、お茶を用意してきたメイドのクリスに声をかける。
「……は。すでに動きがあるようで、本日の午後にはこちらから直接手を下せるかと」
「なんとかギリギリセーフってところ? わたくし一人では間に合わなかったし、貴女には感謝しなくちゃいけないわね」
「ワタシは百合花様に仕える身としてご命令を遂行したに過ぎません。……が、今回のような強硬手段はそう何度も行う事は難しいでしょう」
「……解っているわ。今回は特例だから」
わたくしはふう、と一息ついて天井を見上げる。
……なんとか間に合った。
もしこのまま穂邑さんの身に危険が及んでいたとすれば、わたくしは自責の念で潰れてしまっていたかもしれない。
いくら渋谷の御令嬢とはいえ、渋谷香菜一人だけの力では穂邑さんを守り通す事は難しいだろうし、今回ばかりは結構な無茶を通す事になってしまった。
しばらくは大人しく、この自分の作り上げた箱庭の中で過ごすとしよう。
(穂邑さん……)
しかし、本当の記憶喪失となってしまった彼女を、わたくしは受け入れる事が出来るのだろうか?
当分の間は顔を見せるのも控え、彼女の心の傷が癒えるのを待つべきなのかもしれない。
―――もうすぐ三年目。
ここからが正念場なのだ。余計な心労を抱え込むほど、この頃のわたくしにそんな余裕など持ち得なかった。




