8話 それが歪なものだとしても
綺麗な月の浮かぶ夜空の下―――
ちょうど丑三つ時くらいの深夜帯、僕は茨薔薇の敷地を出た先にある無人駐車場へと呼び出されていた。
「お久しぶりです、紅条さん」
蜜峰漓江。
茨薔薇女学院で起こったあの事件から病院送りになった後、これまでずっと自宅謹慎を言い渡されていた少女。
黒月研究施設での件から二日後。
僕のスマホへ連絡を寄越したのが彼女だった。
「ひとりで来い……って言った割に、そっちは二人なんだね?」
「あら、こちらがひとりだとは一言も。それに、このくらい予想が付いていたのではありません?」
そう口にしたのは、蜜峰の傍らに立つ少女―――あれから姿を消していた船橋灯里である。
「まあ、蜜峰さん絡みとなるとね。まったく思い付かなかったといえば嘘になる。……でも、意外だったのは本当だよ。だって、君達は―――」
「敵同士だった、と?」
まるで僕の思考を見透かすかのように、船橋は口の端をつり上げながら楽しそうに言う。
「うん、そうだね。正直、船橋さんの言葉をそのまま受け止めて、信じ切ってしまっていたところはあるかな」
「くすくす。お人好しさんなのですわね、紅条さんは」
「……灯里ちゃん、からかうのはやめようよ」
と、横から口を挟んだのは蜜峰だった。
「あら? 珍しいわね、貴女が私に意見するなんて。ずっと友達だなんて嘯いて、私を欺いてきたクセに?」
「そ、それは……だから、違うって―――」
なにやら船橋と蜜峰が言い合っているが、棘のある台詞とは裏腹に、その様子は険悪とも違う―――傍から見れば、気を許しあった友人同士の会話のように見えた。
「くすくす。ええ、解っていますとも。騙していたのは私の方。貴女は黒月夜羽に従っていただけ。そうなんでしょう?」
「わ、私は違うよ……それはもうひとりの……」
「二重人格―――解離性同一性障害、でしたっけ? そんなものが本当にあるのかなんて眉唾ものですが……まあ今回は仕方ありませんし、信じるほかないですわね」
「灯里ちゃん、私は―――」
蜜峰が何か言いたそうにしていると、船橋がそんな彼女の背中を片手でポンと叩いた。
「御託は聞き飽きました。ほら、行きなさい」
「でも……!」
「紅条さんなら貴女を復学するキッカケになって下さるわ。私はもう不可能でしょうし、やる事もありますから。ここでお別れ、ですわね」
「ちょっと待って。話が見えないんだけど?」
僕は彼女達のやり取りを呆然と眺め、まったく理解が追いつかないまま蜜峰を託されようとしているらしい。
「紅条さん。女の子を助けるの、好きでしょう?」
「はあ……!?」
「蜜峰漓江を貴女に託します。百瀬百合花に話を通して頂くだけで良いですから。あの御方ならこの子を受け入れてくれると思いますし……ただ、何かしらの理由付けが必要なだけで、ね」
「いやいやいや! だからなんでそうなるの!? そもそも僕達って敵同士じゃなかったっけ!?」
思わず早口でキレッキレの突っ込みを入れてしまう。
蜜峰はともかく、船橋は間違いなく僕達の敵側の人間のはずだ。百瀬アリカによるスパイであり、香菜を記憶喪失にさせた張本人なのだから。
「そうですね。では、ここで私を殺します?」
「いや、だから……それはそれでおかしいと言うか―――」
「恨まれているのは承知の上です。黒月と百瀬の同盟が破棄され、例の計画が頓挫し、百瀬百合花の突飛な行動により、アリカ様が地位を獲得することはなくなった。私が暗躍していたすべての事柄は貴女達の手によって阻止されてしまいましたから。もはや敵対する必要性は皆無ですし、これ以上そちらの邪魔はしないとお約束致しますわ」
「結局、君はなにがしたかったの? どうして香菜の記憶を?」
「彼女が知ってはいけないことを知ったから、です。それ以上でも以下でもありませんよ」
「それに関して話すつもりはない、と?」
「今になっては無意味なお話ですから。せっかく手にした平穏なのですし、これ以上貴女が足を踏み入れる必要性、ありまして?」
確かに、そう言われてしまえばその通りだ。
好奇心だけで行動するべきではない、というのは身を持って体験した。船橋自身がどんな目的で動いていたのか、ケジメとして知りたい気持ちは当然あるけれど―――
「……、わかった。君がおかしな真似をしないというのなら、これ以上なにも追求したりはしないよ」
「賢明な判断ですわね。私が言えた義理ではありませんが、どうぞこれからの日々も健やかにお過ごし下さいますよう―――」
船橋はお嬢様よろしく優雅に一礼し、その場で踵を返した。その先には一台の車がある。今になって気付いたが、どうやら中に人が乗っているようだった。
「灯里ちゃん!」
そんな彼女の背中に向けて、蜜峰が悲壮な声で呼びかける。船橋は立ち止まり、チラリとこちらへ視線だけを寄越した。
「さようなら、漓江。これまでお互いに騙し合いをしていた間柄ではありますが、貴女との学院生活はそれなりに愉快なものでした」
そうして、船橋は白い車に乗り込むと、そのまま何事もなく駐車場から走り去って行ってしまった。
この場には僕と蜜峰の二人だけが残されて、やけに気まずい空気が流れている。
「……え、えっと。とりあえず、帰ろうか?」
「あの……紅条さん。私、本当に戻ってもいいのでしょうか?」
「それは―――」
彼女が行った拉致監禁事件については船橋の身柄を捕える為、と解釈していた。香菜が巻き込まれたのは香菜自身が足を踏み入れ過ぎたせいでもあるし、それに関しては香菜も認めている。
香菜を刺したのは船橋だったし、蜜峰自身に何かしらの責があるとも思えない。いや、事件を引き起こした張本人ではあるのだから、色々と面倒な立場ではあるのだろうけれど。
「―――うん。まあ、僕がなんとか百合花さんに掛け合ってみるよ。あの人も相当なお人好しだから、きっと上手くいくと思う」
なんてことを話していると、えるを助けた時の事を思い出す。あの時もちょうどこの辺りで出逢ったんだったっけ。
「私、紅条さんにも申し訳ないことをしてしまいました。二重人格……なんて、信じにくいことかもしれませんが―――」
「ああ、それなら大丈夫。僕も似たようなものだったし、今は同じような子もいるからね」
「そ、そうなのですか?」
「うん。だから心配しないで。ええと、あの……媚薬の件に関しては、僕もそこまで嫌だったわけでもないといいますか……」
僕が恥ずかしながらそう言うと、蜜峰は目を丸くして、
「私のこと、好きになって頂けるのですか……?」
「…………、え?」
あ、マズい。これスイッチ入ったぞ。
「お、落ち着こう。僕はその、確かに蜜峰さんは可愛いなって思うけど、ただ別に、だからといってですね―――」
「ところで、女の子同士でも気持ちよくなれるとっておきのお薬があるのですけれど、試して頂けません……?」
「あーあー! とにかくまずは寮に戻ろう! 話ならその後にいっぱい聞いてあげるから!」
なんともまあ、これからまた騒がしい学院生活になりそうだ。
船橋灯里の目的、これからの行方は気掛かりではある。けれど、今は彼女の言葉を信じてみようと思う。
―――何故か? なんて、言うまでもない。
彼女が蜜峰に対して接していた時の態度、表情、口調―――それらは嘘偽りのない、本心からのものだと感じてしまったから。
スパイとして活動していた船橋灯里。
夜羽の命によりスパイを探していた蜜峰漓江。
二人は奇しくも互いに騙し合う関係性ではあったけれど、相手の事情を知っていてもなお友人として学院生活を送ってきたのだ。
例えそれが歪な関係であったとしても、きっと彼女達のそれは―――
「ねえ、蜜峰さん。なんだかんだ色々あったとは思うんだけど……船橋さんについて、どう思ってる?」
「船橋さん、ですか? それはもちろん―――」
蜜峰は俯いていた顔を夜空へ向けて、
「大切な、友達です」
なんの躊躇いもなく、これまで見たこともないような満面の笑みを浮かべながら、彼女は確かにそう言った。
それなら僕も信じるしかないだろう。
誰よりも一番近い場所で共にいた彼女が、今でもなお友人だと言い切った少女のことを。




