7話 独りよがりの愚か者は夢をみる
幼い頃、僕は自分が特別だと思っていた。
といっても、他人より優位な立場であるだとか、頭が良いだとか、そんな慢心じみた考え方をしていたわけではない。
孤児院で暮らす僕は、生みの親の顔すら知らなかった。名字もわからない。わかるのは『穂邑』という名前だけ。
孤児院の子供達はみんなが似たような境遇であった。だから仲間意識みたいなものは当然生まれて、みんな仲良く過ごしていたように思う。
でも、その中で僕だけは少しばかり異質だった。
どうして自分が孤児院なんかにいるのかわからない。親の行方も正体も不明。そんな状態でもみんなは『捨てられたんだ』と言う。
誰が決めたんだろう。
僕が捨てられたなんて、そんなこと。
みんながどうしてもネガティブな存在に見えて、僕はあんまり共感なんてできなかった。もちろん、その時はまだ六歳くらいだったから、子供心ながらの説明しがたい感情に過ぎなかったのだけれど。
そんな僕は孤独だった。一人で行動するのが当たり前で、周りの子供と自分は違うのだと思い込んでいた。そうして出逢ったのが百合花だったのだ。
キレイな子だった。ひとつしか歳も変わらないのにしっかりしていて、その子の姿が僕にはとても眩しく見えた。
彼女は自分が養子なのだと話してくれた。そのせいで辛い思いをしているのだとも。けれど当時の僕にはそれがあんまり理解できなくて、両親がいることに対する羨望みたいなものが湧き上がり、少し生意気な物言いをしてしまったかもしれない。
ただ、その出逢いは結果的に僕にとっては大事なものだった。養子という方法を知った僕は、居心地の悪い孤児院から出るためにどこかの家の養子になろうと決意した。
その結果として、僕は夜羽と出逢い、彼女の計らいで紅条家に貰われることになったのだ。
―――どうしてこの記憶が喪われていたのか。
わからないまま、なんの違和感もなくここまで生きてきた。天使の棺が原因ではないのはわかる。だって、それ以前から記憶にはなかったのだから。
ただ、今の自分ならわかるかもしれない。
兄の度々ならぬ実験、それが記憶に関するものだというのなら、それが原因だったのかもしれない、と。
天使の棺。
ミカエルシリーズを天使に見立て、それを使い捨てるかのように利用する、まさに棺桶のような装置。
兄や黒月の計画なんてどうでもいい。
ただ、そんなものがこの世に存在していて、えるを苦しめ続けてきたのだとすれば、それは間違いなく僕の手で潰さなければならない。
目を覚ませ、紅条穂邑。
お前のすべきことは、まだ残っているのだから。
◆◆◆
―――視界が開ける。
聞き覚えのある声がして、僕はゆっくりと身体を起こした。
「あっ、ほむらさん……!?」
すぐ傍で声が聴こえる。
硬い床で倒れていたのか身体の節々が痛い。
「大丈夫ですか、ほむらさんっ!?」
声の主は長い黒髪の少女―――黒月夜羽だった。
いや、この口調から察するに中身は絵瑠なのだろう。
「う、く……。える、なんだね?」
「は、はい。えっと、その……わたし、と言いますか。正確には違うんですけど……」
「どういうこと?」
「ええと……わたしは確かに死にました。ただ、記憶だけが黒月夜羽という人間の中に移されたみたいなんです。こうして、今は三日月絵瑠として話していますが―――」
言葉を途切れさせた絵瑠は、ふう、と一息吐いて、
「―――わたし、黒月夜羽本人でもあるってわけ。まだちょっと慣れないけれどね」
「え……ええ? もしかして、ふたつの人格が同時に存在してるってこと……?」
「そうね。ただ、違和感はあんまりないのよね。妙にしっくりくるというか。どちらの感情も残っているから、未だにどっちがどっちか困惑したりすることもあるけれど」
「に、にわかには信じられないような話だね……」
「―――そう、ですね。わたしもまさかこんな形でほむらさんにまた会えるなんて、思いませんでしたから」
まるで夜羽が絵瑠の真似事をしているかのように見えるが、何故かそうではないのだと理解できてしまう。ここにいるのは夜羽であり絵瑠なのだ、と。
「天使の棺、ね。確かにすごい装置だったわ。ただ、わたしからすれば欠点だらけだった。少なくとも超記憶症候群を克服し得るものではなかったわね。ま、今となってはそれを利用したかっただけ、っていうことも解ってるんだけれど」
「……つまり、夜羽のその特性があるからこそ記憶の移植なんて芸当ができたってことだよね? 完璧に記憶してしまう脳であるからこそ、それを可能にした。ミカエルシリーズなんてものを生み出したのは、そんな特性を持つ人間を量産し、器とするためだった……」
「あら、ずいぶん物分りが良いじゃない。もしかして、そこで伸びてるお兄様から教わった?」
「伸びて―――って、え?」
夜羽が指さした先に倒れていたのは、紛うことなき紅条一希その人だった。ぴくりとも動かない。どうやら完全に気絶しているようだった。
「背後から蹴り入れて大人しくさせただけよ。生きてるから心配しないで」
「いや、生きてるなら―――」
僕は用意していたナイフを探す。しかし、どこにも見当たらない。
そんな僕の様子を眺めていた夜羽は、見せつけるようにその手にナイフを掲げて、
「―――ほむらさん。もしかして、殺すつもりだったんですか?」
「える……? あ、いや……うん。今更隠しても仕方ないから言うけど、そのつもりだった……かな」
「どうして? 実のお兄さんなんでしょう?」
「だって、それは……えるや夜羽を実験のためだけに利用して―――」
挙げ句の果てにこの僕にまで手を下そうとした。放置できる人間ではないのは明白だ。
だと言うのに、夜羽―――いや、絵瑠はどこまでも悲壮な表情を浮かべている。
「わたしの為だ、って言うのなら。ほむらさんは罪を犯さないで下さい。わたしは、あなたがいてくれたらそれでいいんです」
「える……」
「―――それにね。元々はわたしの為の計画だったことに変わりはない。そこの紅条一希だって、黒月が目をつけていなければここまで狂うこともなかったわ。すべての元凶、という意味では黒月……いえ、わたし自身なのよ」
「夜羽だって利用されてたじゃないか!」
「そうね。我が人生、最大の汚点だわ。これからどう払拭してやろうか、考えるだけで楽しくなってくるってものよ」
「それは―――」
「いい、穂邑? 勝手に自分ひとりで責任背負おうなんて意気込んでいるところ悪いんだけれど、これは貴女だけの問題じゃないんだから。黒月の一人娘、黒月夜羽こそが先陣切って解決すべき問題なのよ」
それはそうかもしれない。けれど、僕の兄が関わっていることもまた事実だ。今更見て見ぬ振りなんて不可能だった。
「―――それに。わたし、これでも恨んだりしてないんですよ?」
「え……?」
「だって、この計画がなかったらわたしは生まれていなかった。クローンだったかもしれないし、今こうして考えているのはあくまで黒月夜羽でしかない。それでも、三日月絵瑠という人間は確かにあなたと出逢えましたから」
少女はにっこりと微笑みながら僕の手を取る。
その笑顔は間違いなく夜羽にはできないくらいに純粋で、無垢な少女のものだったから―――
「だから、もう、抱え込まないで。わたしはこれからも、ほむらさんと一緒に生きていたい」
その言葉に、僕の中に渦巻いていた憎悪の感情が薄れていくのがわかった。
ずっと気張って、自分のためだと嘯いて、ただひたすらに目的のために走り続けていた愚か者。
頬に、涙が伝う感触があった。
ようやく肩の荷が下りたような気持ちになる。取り戻したいと願っていたものが帰ってきたのだ。これ以上欲しいものなんてないし、その上でわざわざ何かを喪う必要なんてない。
「える、夜羽……。ごめん……ありがとう……」
「―――ほんと、バカよね貴女。一人じゃ何も出来ないクセに、何かしなきゃ気が済まないなんて。そういうのはね、わたし達に任せとけば良いのよ」
「はは……酷い言いよう、だなあ……―――」
こうして、僕の戦いは終わった。
自分に何が出来たのか、結局それは解らないけれど。
「帰りましょう、ほむらさん」
少女に手を引かれ、自らの居場所へ向かって歩き出す。
紅条穂邑という存在そのものを必要としてくれる人達が居る―――そんな、いつか帰るべきところへ。
◆◆◆
事態の把握には多少の時間を要した。
百瀬百合花の活躍により、囚われていた黒月夜羽を救出。なんでも、絵瑠の意識で僕に通話を掛けていたことがバレてしまい、一希の手によって幽閉されていたらしい。
そうして僕に連絡を取ろうと試みた百合花だったが繋がらず、急いでこちら側へと向かっていると、そこで非常事態が起こった。
百瀬アリカ率いる『白百合』が、監査という名目で施設へと突入してきたのである。
流石の百合花も驚いたらしく、事情を問い詰めると、
『あたくしの立場を利用し、踏み台にしようとした者へ報復をしに参りました。当然、それだけのことですわ♡』
などと、白々しい答えが返ってきたとか。
その一連の騒動の中、百合花はアリカと共に施設内部の徹底調査を実施。夜羽(絵瑠)が単独行動で僕を間一髪、兄の手から救い出してくれた―――ということらしい。
なんともまあ、僕の出番なんて必要のない派手な大立ち回りだった。
そして、今回のアリカの行動は流石に黒月と百瀬の関係性に亀裂を生むことになった。
計画は元々乗り気ではなかった上層部を味方につけた夜羽の手によって頓挫され、百瀬との同盟も解除。騒動の責任はそれぞれの財閥が痛み分けという形で負うことになったようだ。
そのことを受けて百合花は、
『これで良かったのです。貴女が気に病むようなことはありませんわよ?』
なんて、いつになく気軽な調子だった。
―――夜羽と絵瑠について。
結局、彼女達は人格をそのままに留めることにしたらしい。残りのミカエルシリーズの身体を使えば絵瑠の記憶をそちらに分断できるかもしれないとのことだったが、
『もう天使の棺に振り回されるのはゴメンだわ。あんな粗悪品、二度と使うべきじゃないわね』
『あの子達も、わたしと同じ……でも、違う人間だから。利用したりされたり、そんなのはもうおしまいにしたいんです』
と、相変わらず唐突にコロコロと入れ替わる人格に戸惑いながらも、僕はそんな彼女達の意思を尊重しようと思った。
兄である紅条一希は、黒月研究施設の所長を正式に辞任され、今はひとりで謹慎生活を送っているらしい。
目の前で自慢の研究成果である天使の棺を解体され、計画の破棄を言いつけられた瞬間、魂が抜けるかのように生気を消失させてしまったと聞いている。
今の僕は彼に対して特別なんとも思っていないし、おかしな研究さえしないで他人に迷惑もかけずに生きていくと言うのなら、それでいいと思っている。
―――ああ、本当に大変な数日間だった。
色んなことがあったけれど、百合花は無事に茨薔薇女学院―――僕達の居場所を守り通してくれた。
これからはまたいつも通りの平穏な日常が始まる。
今度こそ、そう思っていた。
……けれど。
誰かを、忘れていないだろうか?




