1話 茨薔薇女学院奪還作戦
濠野邸内、朝の十時を過ぎた頃。
僕―――紅条穂邑は、百合花と夜羽を共にし、濠野の当主である咲弥の下へとやってきた。
その目的はただひとつ。
昨日までの僕では気付けなかった―――けれど、今の私でなら気付くことのできる、咲弥のとある反応の真意を確かめる為。
そして、それは恐らく。
この足踏みしている現状を打破し得る一手となるはずだ。
「おはようございます、咲弥様」
開口一番に挨拶の言葉を口にしたのは百合花だった。
昨日も訪れた組長室。
その時と同じく、咲弥は静かに正座で佇んでいた。
「失礼します」僕と夜羽も百合花に続く。
「……あら。三人揃って、どうされたのです?」
鋭い視線、白々しくも浅ましく感じさせない態度。そのどれもが圧倒的な威圧感を放っていて、この部屋の空気を一変させる。
「昨日はあまりまともに挨拶もできず、すみません。僕は紅条穂邑と言います」
しかし、それでもここに来た目的を果たさなければならない。どれだけ気圧されたとしても、それを跳ね返すくらいの気概で挑むべき場面だ。
「……良いんですよ、お気になさらず。美咲に無理やり連れて来られたんでしょう? 関係者であるとは聞いていますが、このような場所にいては落ち着きませんか?」
単なる牽制、などではない。
遠回しに、お前はここにいるべきではない―――という、喉元に刃先を突きつけるかの如き一方的な圧力。
これ以上の発言は彼女の機嫌を損ねかねない、そう確信を以て思わせるほどのプレッシャー。なるほど、濠野組当主の名は伊達ではない。
「いえ、それが全然。むしろとても有意義な時間を過ごさせて貰っています。ところで、お聞きしたい事があるのですが」
「……、なにか?」
「―――紅条一希、という名前に心当たりは?」
僕がその問いを投げかけた瞬間。
張り付いていた空気の中、聴こえるはずもない破裂音のようなものが響き渡った―――気がした。
濠野咲弥のこめかみがぴくり、と動く。
「やはり、関係者か」
先程までとは打って変わった口調。
美咲のそれともまた違う、女性のものとは思えないどこまでもドスの効いた低い声。
「咲弥様、なにかご存知ですの……?」
百合花はたまらずに驚きの声を上げる。
その反応を見る限り、彼女は僕の兄についての知識は無いのかもしれない。
夜羽は黙り込んでいたが、その視線は変わらずこちらへ向いている。あくまでこの場には監視をしに来た、というスタンスを貫き通すつもりだろうか。
「昨日の咲弥さんの反応、あれはどう考えても不自然でした。あの時は僕も気付けませんでしたが、今にして思えばあれは―――」
「そこまでにしておきな。アンタが何を企んでいるのかは知らないがね、百合花ちゃんを巻き込むつもりなら容赦しないよ」
明らかな変わりようだった。
ここまで来ると、驚きを通り越して笑いが込み上げてくるようで―――それは、目の前の咲弥に対して図星を突きつけてやったことへの優越感であり、
「……穂邑、と言ったね。アンタ―――何者だい?」
そんな僕の感情が表に出ていたのか、咲弥は警戒心を顕にして問い掛けてくる。
「一希の妹ですよ。ああ、立ち位置のことを聞いているのであれば―――そうですね、僕は百合花さんや夜羽の味方です」
「それが本当であるとして、ならばなんの為にここへ?」
「貴女の反応を見て確信しました。今回の事件に関わっているものがなんなのか」
今現在、紅条の銘を持つのは僕と兄の二人だけだ。夜羽の話を信じるのなら、兄の手によって僕の両親は死んでいる。
そしてなにより、黒月の研究施設において所長代理をしていた夜羽の地位を奪い返せるのは一人しかいない。
「紅条一希。貴女はその名を知っていたのではないですか? 紅条を名乗る僕のことを初見のうちから警戒していたことがその裏付けです」
「面白い。でも、それだけじゃ甘いね。根拠はあっても証拠としては不十分だろう」
「今の貴女こそがその証拠、ということには?」
「……なるほど。少しばかり、気が逸ってしまったようですね」
ふと落ち着きを取り戻すように、咲弥は穏やかな笑顔を浮かべて、
「確証はない―――と言いたいところではありますが、タイミングが良かったですね。実はつい先程に連絡がありました。百瀬と黒月の同盟は真実であり、黒月側で指揮を取っている人間の名は―――」
「紅条一希。そうですね?」
「まさか。本当にあの人が戻ったって言うの?」
僕と夜羽が反応すると、咲弥は言葉なく頷いた。
「穂邑さん、夜羽。その、紅条一希という人物はいったい……?」
「わたしの計画、その立案者。黒月の研究施設における所長、その人よ」
百合花の疑問に答えたのは夜羽だった。
「なるほど。そちらの事情に関してはこれまで詮索しないようにしていましたが、まさか穂邑さんのお兄様だったとは」
「あんなの兄と呼ぶのも憚られる人間だけどね。控えめに言って世界で一番嫌いだよ」
「世界が控えめ? ふふっ、面白いこと言うわね穂邑」
「……夜羽、それ本気でウケてるならマジで性格悪いよ?」
そんなやり取りで話が逸れてしまうものの、咲弥はそんな僕達を見ながら口を開く。
「さて。黒月の計画については、そこにいる夜羽ちゃんが良く知っているでしょうから省くとして。―――それで、貴女はそれを知って何をするつもりですか?」
「決まってますよ。僕は最初からすべきことを定めていたので。その決意の後押しになっただけです」
「……すべきこと、とは?」
「全部、ブッ潰すんですよ。他の誰でもない、僕自身の為に」
◆◆◆
咲弥との会合を終え、僕達は再び客間に集まっていた。
「ほむりゃん、ほんとに行くの?」
香菜が不安混じりの声色で問い掛ける。
僕が記憶を取り戻したことは伝えているが、それでも彼女の意志は揺るがないようだった。
「うん。これは僕の問題でもあるから」
そして、僕は己のすべきことを明確にし、その旨を皆に話していた。
香菜も反対こそしなかったが、やはり乗り気にはなれないらしい。
「百合花さん、そっちは任せたよ」
「ええ、もちろん。必ずやり遂げてみせますわ」
百瀬百合花は宣言通り、百瀬の実家へと向かい、両親との交渉を行う手筈となった。
しかし、その内容には大幅な変更があり、それを提案したのは他でもない僕である。
「夜羽も。今更になってあっちに付くとか言わないでよ?」
「バカにしないで。わたしが利用されてきたことはもう理解したんだから。これ以上あいつらの言いなりになってやる理由なんてないわ」
黒月夜羽は、黒月の研究施設へと向かい、天使の棺及びミカエルシリーズに関する計画の停止に向けて行動することになった。
そこには紅条一希もいるだろう。本来なら僕が決着をつけるべき相手ではあるが、夜羽にとってもそれは同じなのだ。
「ねえ、香菜。最後にひとつだけ、良いかな?」
そして。
僕がすべきこと、僕の向かうべき場所はそれらではない。
「……、なに?」
僕は香菜と向き合い、その瞳を見つめる。
様々な感情が揺れ動くようなその眼差しは、まっすぐに僕へと向けられていて―――
「僕にとって……ううん、私にとっても。香菜は他の誰よりも大切な人だよ」
「へっ……!?」
僕の言葉が予想に反していたのか、香菜は目を丸くして驚きを隠せない様子だった。
「大好きだよ、香菜。これからもずっと、僕の傍にいて欲しい」
それは嘘偽りのない心からの気持ちだった。
私という人間にとって、一番大切な女の子は間違いなく彼女なのだから。
「……ズルいなあ、もう。ほむりゃんにそんな事言われて、認めないわけにはいかないじゃん」
香菜は溜め息を吐いて―――けれど、その声はどこか弾んでいた。
「あたしだってほむりゃんのこと好きなんだから。知ってて今更そんなこと言うなんて、ほんとに―――」
「はは。香菜は覚えてないだろうけど、実はこのやり取り、これが初めてじゃないんだよね」
「……それって、あたしが無くした記憶の?」
「うん。香菜が忘れたって知った時は本当に絶望したよ。でも、今思えば別に大したことじゃなかったんだ」
だって、もうずっと前から彼女の気持ちは変わらずにいたのだから。
「無くしてしまったなら取り戻せばいいだけなんだ。だからさ、もう一回。こればっかりは、どうしても伝えたいことだったから」
「ほむりゃん―――」
「……オイオイ、いつまでイチャイチャしてんだよオマエら」
ふと、呆れ声で摩咲が口を挟んでくる。
「ほんとに空気読めないよね、摩咲って」
「うるせぇ! 目の前でンなコトされたらムズ痒くてしょうがねぇんだよ!」
「……言っとくけど、香菜は渡さないからね?」
「はあ!? オマエ、何言って―――」
摩咲が戸惑いながら声を荒げていると、隣にいた香菜が顔をニヤつかせて、
「あー、ほむりゃんってば知らなかったの? まさきちはねー、あたしじゃなくて―――」
「オイコラ! 香菜テメェ、やめろ!!」
「あっははー、まさきちってやっぱり可愛いよねぇー」
二人が謎のやり取りをしているが、僕にはさっぱり何の事か解らなかった。
けれど、香菜がいつもの調子に戻ってくれたのは喜ばしい。なんだかんだ言いつつも、摩咲にも感謝しなきゃいけないのは確かだった。
「ほんと、貴女達って変わらないわね。一年前の円卓会議の時を思い出して頭痛くなりそう」
夜羽が冗談混じりに苦笑しながら言う。
「ええ、そうですわね。あの頃の平穏を取り戻しましょう」
百合花もまた、それに釣られて笑みを浮かべる。
「そう、それよそれ。百合花はそうやって、笑いながら偉そうにしてるのが一番似合ってるんだから」
「まあ、夜羽にそんなことを言われるとは思いもしませんでしたわ。……でも、そうね。最近のわたくしは少しばかり自分らしくなかった、そう思います」
「そうだね。百合花さんはいつまでも尊大で傲慢で、それでも眩しくて―――キレイな存在でいて欲しいって、僕も思う」
「穂邑さん―――」
だからこそ、絶対に取り戻す。
僕達がいるべき場所―――百瀬百合花の理想の果て、その輝かしくも美しい夢の続きを。
「それじゃあ、そろそろ行こうか」
僕達はそれぞれ違う道を進む。
その道の先にあるものは同じであると信じて。
「あたし、決めた。ほむりゃんと一緒に行く」
「……ハッ。オマエらが行くなら、オレが行かねぇワケにはいかねぇよなぁ?」
香菜と摩咲が僕の隣に立つ。
これほど頼もしい友人を持ったことを、僕は心の底から誇らしく思う。
「穂邑さん。茨薔薇女学院―――いえ、アリカのこと、どうか宜しくお願い致しますわ」
「任せて。まあ、最後になんとかするのは百合花さんだけどね」
「ええ、必ず。成し遂げてみせましょう」
「ま、心配しなくても大丈夫よ。わたしが上手くやれば、それで万事解決みたいなものだし」
そうして、僕達は濠野邸を後にする。
敷地の外縁部には複数の車が停まっていて、そこには見知った人物達がこちらを見つめて待ち構えていた。
「送り届けは任せて貰いましょう。運転手に行き先を告げれば連れて行かせるように指示してあります」
「助かります、咲弥さん」
「……穂邑ちゃん。うちに対してあれだけの啖呵を切ったこと、忘れるんじゃないよ」
咲弥は、やはりドスの効いた声色で―――けれど、そこに敵意は無く。あったのは、彼女なりの激励であった。
「ったく、お前らだけじゃ心配だからな。アタシも行くぞ、百瀬」
その隣で腕を組んでいるのは美咲だった。
彼女もまた反対側の人間だったけれど、今はこうしてこちらに付いてくれている。
それが咲弥の命令であったのか、それとも彼女自身の意志によるものかは定かではないけれど。
「美咲さん……、ありがとうございます」
ここから、僕達の戦いが始まる。
各々の目的を果たす為、それぞれが自分の理想や信念を持って。
後戻りは出来ず、失敗は許されない。
茨薔薇女学院奪還作戦―――その幕が切って落とされた。




