回想/紅条穂邑3
ぼんやりとした思考の中、聞き覚えのない声が聴こえる。
『おはよう』
そこには長い黒髪の少女。
自分はどうやらベッドで眠っていたようだ。起き抜けの身体を起こそうとするけれど、うまく力が入らない。
少女はこちらに近付いてくると、ベッドに横たわる自分の傍に寄り添って、
『ねえ、大丈夫?』
『あ、う……』
なんて、口から漏れ出たのはそんな言葉にすらならないものだった。
『どうして―――』
思考は次第に薄れていく。
『……わたし、しばらくこっちに戻ってこれなくなるの。本当はもう少し様子を見ていたかったんだけれど―――』
少女は悲しそうな顔をしていた。
それがどんな意味であるのか、自分は理解できないまま、言葉にならないうめき声を上げ続ける。
『ごめん』
少女は立ち上がる。
今にも消えてしまいかねない灯火のような意識の中、短くも想いの込められたその言葉だけは耳にしっかりと届いていて。
『誓うわ。わたしはいつか、貴女と一緒に幸せを掴んでみせる』
どこの誰とも解らない、他人であるはずの少女が背を向ける。
『さよなら』
―――そこで、自分の意識は完全に閉ざされた。
◆◆◆
七歳になった私は、いつも通り母や父、そして十も歳の離れた兄と四人で過ごしていた。
私が紅条という家に養子に取られたのは、およそ一年前のことらしい。曖昧な言い方になっているのは、私にそれ以前の記憶が無いからである。
実のところ、養子に取られた―――ということに自覚はあまりなかった。
と言うのも、自分がいったいどんな経緯でこの家に引き取られたのかも覚えていないのだ。
『穂邑、今日もお手伝いしてくれるかい?』
兄である一希が朝食を終えた私に声を掛ける。
『うん。いつものお薬だよね?』
『一希、あまり穂邑に無理はさせるなよ』
父が心配そうに言うが、兄は朗らかな笑顔を浮かべて、
『やだな父さん、大事な妹をそんな風に扱うわけないだろ?』
『そうよ、あなた。一希は高校を卒業したら黒月の施設に就職する、未来の天才科学者さまなんですからね』
『はは、やめてよ母さん』
紅条家は特別裕福な家庭というわけでもなかった。
しかし、黒月という家がなにかしらの援助をしていて、私がこの家に引き取られたのもその一環であるという話を聞いたことがある。
純粋だった私は特に不審に思うこともなく、兄である一希の研究にも喜んで協力していた。
自分の居場所があり、そこで自分を必要とされるのは、幼い私にとってはとても充実していたのだ。
『さあ、行こうか穂邑』
そうして、今日もまた兄の部屋へと向かう。
そう―――最初のうちは、本当に何もなかったんだ。
◆◆◆
一年、二年と時が経つにつれ、兄の行為はエスカレートしていった。
小学校高学年くらいの頃には私の身体もそれなりに成長していて、兄は高校を卒業して黒月の施設に就職し、すっかり社会人となっていた。
『ああ……今日もまた説教だ。進捗が悪ければすぐに研究費のことを持ち出してああだこうだと……何もできない、ただの金持ち共が!!』
ガタン、と机にカバンを叩きつけるように置くと、兄はベッドで横たわる私へと視線を向ける。
震えた手を掴まれ、手錠を掛けられる。
これから自分が何をされるのかを想像し、私は歯を食いしばって―――
『穂邑だけだよ、俺の癒やしになってくれるのは』
そう言って兄は服を脱ぎ捨て、無表情のまま私の身体に馬乗りになる。
当然のように全裸で拘束されている私は身動きひとつ出来ない。
『さあ、今日もいつもの続きだよ。大丈夫、これはただの実験なんだから』
そんな日々が繰り返されていくうちに、私の心は疲弊し、摩耗し、擦り切れていった。
しかし、どれだけ心が虚ろになったとしても、私の身体は醜くも押し寄せる快感に抗えず、その身を兄に委ね続けて―――
(ああ……こんなことになるのなら、女になんて生まれたくなかった)
私は兄を恨むよりも先に、自らへの嫌悪感に苛まれていった。
◆◆◆
私が中学に上がる頃には、物事を楽しむなんて精神的余裕はなくなっていた。
小学校では友達なんて作らなかった。終わればすぐに帰宅して兄を待ち、それからはいつもの行為の繰り返し。
それが当たり前だったし、そうしなければ何をされるか解らない。自分が養子である以上、いつ家を追い出されてしまうかも解らないのだ。
両親はひたすらに我が子である兄に期待を寄せていた。
黒月財閥という大企業に目をつけられ、援助を受けてまで欲しがられる人材―――そんな一希だからこそ、彼がどんな凶行に及ぼうとも目を逸していたのだろう。
もし兄の行いを告げたとしても、きっと両親は兄を庇ったはずだ。私がそうしなかったのは、子供心ながらにそれが解りきっていたから。
私にとってそんな日常は当たり前のもので。
汚らわしい自分に嫌悪し続け、他の誰とも自ら関わり合いになろうとはしなかった。だからこそ、友達なんて作れるわけもなくて。
『ねえねえ、君……えっと、紅条さんだよね?』
そんな私に声を掛けた一人の少女。
それは中学の入学式が終わり、クラス分けが行われ、各々の自己紹介が終わって今日の行事がすべて終わった後―――
『……誰?』
私は気の抜けた声で返事をすると、その少女はにっこりと笑顔を浮かべて、
『あたし、渋谷香菜。えっと、紅条―――なんだっけ?』
『穂邑だけど』
『ああそうそう、穂邑! すごい名前だよね、それでほむらって読むんだー』
どこまでも元気で勢いのあるテンションで接してくる少女。どう見ても初対面だった。クラスメイトとして自己紹介していたのは微かに覚えているけれど。
『あっははー。めっちゃクールじゃーん。うん、やっぱり決めた!』
『だから、なんなの……?』
私は彼女の意図がまったく理解できないでいた。
ずっと誰に対しても興味を持たず、愛想の悪い態度を貫いてきた私に、どうしてここまで接するのか。
『―――友達になろうよ、ほむらちゃん』
少女―――渋谷香菜は、どこまでも無邪気な笑顔でそう言った。
わけがわからないまま、私は席を立って無視することにしたのだが、
『ちょっとー、待ってよー!』
彼女は諦めることなく、それから毎日のように絡んできて。
『……、はあ。解ったよ、降参』
『え、ほんと!? やったぁー!!』
『私なんかと友達になってなにが嬉しいのかわかんないけど、君がしつこいから仕方なくね』
『えへへー。ねえねえ、香菜って呼んで?』
『はあ……!?』
そうして、気が付けば私は香菜と友達になっていて。ようやく、人並みの学生としての日々を過ごすことになったのだ。
◆◆◆
だからといって、私の日常は変わらない。
繰り返される兄の行為。気が付けば私は声を上げることすら無くなっていた。
されるがまま、従順な人形。
兄の実験という名の凌辱は終わらない。
中学は共学だった為、男子も女子も平等にいたけれど、
『ほむらちゃんってさ、男の子嫌いなの?』
何気ない香菜の一言で、私はようやく自覚する。
無自覚に遠ざけていたもの。
ただ男であるというだけで感じられる恐怖心。
私はそれに兄の姿を重ねていて、いつの間にか拒絶してしまっていた。
自分が男性恐怖症になっていたなんて、本当にそれまで気が付かなかったのだ。
当たり前だと思っていた日常。
尊敬すべき兄、大切であるはずの家族。
それらが途端に歪に見えて、私は初めて疑惑を抱いてしまった。
香菜という親友を得て、普通の女の子としての生き方を知ってしまって。
良くも悪くもそれが引き金となり、私はついに自分の置かれている現状に明確な不満を感じてしまったのだ。
◆◆◆
中学三年に上がった頃、私はついに兄と離れる事になった。
兄がとある施設の所長として就任し、一人暮らしを始める事になったのだ。
『穂邑、元気でいろよ。しばらく会えないけど、俺の事は忘れないでくれよ?』
どこまでも普通な態度。
これまでずっと続いてきた関係性など微塵も感じさせない、ただの兄としての別れの言葉。
その頃の私には、兄に対する敬意なんて少しも残ってはいなかった。
『さようなら、兄さん』
これで悪夢のような日々から解放される。
やっと、私は本当の意味で真っ当な人生を送ることができるんだ―――内心で逸る気持ちを抑えながら、私は兄の背中を見送った。
ただ、自分でも嫌になるのだが、あれだけ兄の慰みものになってきた私の身体は、急な生活の変化に対応できずにいて―――
『ん、くう……はあっ……―――』
それからずっと、私は自分を慰めることを日課にしてしまっていた。
それだけではない。
毎日のように見る悪夢に魘され、私の精神は一向に改善を見せることはなかった。長く繰り返されてきたあの日々が頭から離れない。
この記憶を、どうにかして消し去りたい。
私はいつ耐えきれなくなってもおかしくない自分の身体、精神に限界を感じ始めていたけれど、それを香菜に話すことはできなかった。
羞恥心だけではなく、そのせいで香菜が離れて行ってしまうかもしれない―――それがなによりも怖かったから。
汚れてしまった自分を受け入れてくれるなんて、到底思えなかったのだ。
◆◆◆
中学を卒業する前、私宛に一通の手紙が届いた。
送り主は『百瀬百合花』。
その内容は、とあるお嬢様学院への招待状だったのだ。
丁度進路について悩んでいた矢先に飛び込んだそれは、私にとって興味の湧くものではあったが、その名前についてはまったく覚えがなかった。
気になって百瀬について調べると、百瀬財閥という大企業が当て嵌り、百瀬百合花という人物についても実在することが解った。
両親にその旨を伝えると、何故か二人揃って嬉々とした様子で入学を勧めてきたので、私は特になんの疑問を抱かぬまま、その学院へと入学を決めた。
なんとなく一人は心細かったので、親友である香菜を誘ってみると、彼女も喜んで提案を受け入れてくれた。
香菜が大企業のお嬢様であることは聞いていたので、彼女なら招待状がなくても入学の資格を持っているだろうと踏んだのだが、案の定すんなりと入学まで漕ぎ着けたようであった。
そうして、私と香菜は中学を卒業し―――
『皆様、初めまして。わたくしは百瀬百合花。この学院の生徒会長を務めているものです』
入学式を終え、無事にその学院―――茨薔薇女学院へと進学することができたのである。
◆◆◆
入学式の後、クラスでの自己紹介が終わって。
私は、偶然にも『黒月』という名の少女と邂逅を果たした。
それは、兄である一希が就職したという施設を運営する大元の黒月財閥―――その御令嬢であったのだ。
黒月夜羽と名乗ったその少女は、どこまでも尊大で自分勝手な振る舞いを見せていた。
私はそんな彼女の態度に苛立ちを覚え、半ば逆恨みのように突っかかり―――
気が付けば、私達は友人関係になっていた。
『……夜羽は良いよね、頭が良くて。私なんか全然駄目だし。周りはみんなお金持ちのお嬢様ばっかりで……ほんと、どうしてこんな学院に入学できたんだか』
『なによそれ、いきなりどうしたの?』
『いや、だって。私には何もないし。夜羽的に言えばつまらない人間、ってやつじゃない?』
『才能や権力だけが人間としてのアイデンティティだとでも? はあ、そんな考え方こそがつまらない人間である証ね』
なんて、落ち込んだ私に喝を入れてくれることもあった。
まるで昔からの馴染みのように、夜羽は私に接してくれていて―――
『おはようございます、穂邑さん』
『あ、百合花さん。どうも』
生徒会長である百瀬百合花―――彼女が手紙を送ってくれたということもあり、入学後、直接会って話を交わしてから、すっかり名前で呼び合うくらいには親睦を深めていた。
こうしてすれ違った時に挨拶をする程度ではあるけれど、たまに昼食を共にすることもあり、和気藹々と仲良く過ごしたりもした。
百合花や夜羽とはこの学院へ来てから初めて会うはずなのに、私は他の誰よりも彼女達に気を許していたように思う。もちろん、一番の親友は香菜だけど。
そんなこんなで、私の新たな学院生活は順風満帆そのものだった。女子校ということもあり、いちいち男子に対して恐れることもない。
本当に、楽園のような場所だと思っていた。
◆◆◆
そんな私の学院生活は、唐突に終わりを告げる。
久しぶりに姿を見せた兄である一希と、その傍らに佇む夜羽。二人に従うまま、私はとある施設へと連れられる。
『ここは、なんなの……?』
私は夜羽に訊ねるが、返答はない。
その代わりと言うように、一希が口を開いた。
『俺の研究がようやく完成したんだよ、穂邑。やっと全てが報われる時が来たのさ。お前は覚えていないかもしれないが、これは夜羽ちゃんの為に計画されたものなんだ』
『夜羽の……それは、どういう……?』
『さあ、これを見てくれ』
一希が機械にカードを通すと、静かに扉が開かれる。
その先に待ち受けていたものは、僕の想像を絶するような光景だった。
『これが計画の要―――ミカエルシリーズだ』
ずらりと並べられているガラス張りのケースの中にそれぞれ一人ずつ、女の子の人形のようなものが眠るように横たわっている。
その数、計十二体。
どれも同じ容姿をしていて、私はその顔を見て絶句していた。それは、すぐ傍にいる黒月夜羽とまったく同じ顔をしていたのだ。
『これは夜羽ちゃんのクローンだ。これらを使い、俺の研究の成果を示すんだよ』
兄はもはや狂っていた。
久しぶりに会ったその顔はやつれていて、身体は細く明らかに栄養が足りていない。
ただ研究のみに没頭し続けてきたのであろうことは想像に難くなく、今こうして見せられているものは常軌を逸している。
『夜羽……本気なの……!?』
私が問いかけても夜羽は何も答えない。ただ目の前の光景を見つめ続けている。
『さあ、この先だよ穂邑。俺がこれまで努力して作り上げてきたもの、その結晶とも呼ぶべき装置……『天使の棺』があるのはね』
そうして私は広い空間を抜け、狭い通路を通り、その場所へと辿り着く。
そこにあったのは、機械で出来た箱―――いや、棺桶のような形をしたなにかだった。
『これは、なんなの……?』
私の疑問に答えるのは、やはり兄であった。
『これはね、人間の脳髄の記憶を制御する装置なんだ。と言っても出来る事は限られていて、記憶そのものを消去することは出来ない。ただ新しい記憶を植え付けることにより、擬似的に記憶の上書きを行う事が出来るのさ』
『そんなことをして、いったいなにを―――』
『おや、知らなかったのかい? 夜羽ちゃんはね、超記憶症候群という特別な力を持っているんだ。だが、それによって彼女は苦しんでいた。だから、それを救う為にこの計画が始まったんだよ』
黒月財閥の御令嬢である夜羽、それを救う為に始まった計画―――それがあのクローン達や、このおぞましい装置を生み出し、挙げ句の果てにそれらに私の兄が関与していたという。
あまりの現実味の無さに吐き気を催したが、私はなんとかそれを抑える。
『しかし、しかしなんだよ穂邑。上層部は何を思ったのか計画を停止しようとしているんだ。いや、それだけではない。クローン実験の成果を根こそぎ奪い取ろうとまでしている! このままでは『天使の棺』は何の成果も生み出さないまま錆びれゆく運命なんだよ!』
『兄、さん……?』
『かといって、第二段階すらクリアしていないこの状況で夜羽ちゃん自身を実験台にするわけにはいかない。だから、ここで穂邑の出番なんだ』
『……、え?』
私は一瞬、なにを言われているのか解らなかった。
『これを使えば実質的に記憶は失われる。ああ……、俺は後悔しているんだよ穂邑。昔からずっとお前を自分の為だけに痛めつけ、嬲り、犯してきた事を』
『なに、言って―――』
『だから、忘れてしまおう。なにもかもすべて! そして一からやり直すんだ。俺と穂邑は、本当は仲の良い兄と妹でしかないのだから……!』
その一言で、私の中の『なにか』が切れた。
これまでずっと仕方ないと割り切っていたもの、忘れようとしても忘れられなかった過去。
それを、よりにもよって兄の口から言われる筋合いなど存在しない。
『ふざ、けないで……』
私は近くにあった工具箱からドライバーを手に取って、
『お前が……お前のせいで、私は―――!』
頭に血をのぼらせたまま。
私は、勢いのまま目の前にいる男に向けてそれを突き刺した。
『なっ、やめ……ぐ、はっ―――』
『ちょっと、穂邑……なにして……!?』
夜羽が駆けつけるが、時は既に遅い。
私の手元のドライバーは男の腹部を貫通し、そこから大量の血液が吹き出す。
『どう……して、こんな……真似を……―――』
兄はその場で意識を失い倒れていく。
それから、私は『天使の棺』を起動させ、自らの身を以て証明することになった。
兄の作った装置で、結果的に兄の言う通りの結果になってしまったことは癪だったけれど―――
どうしても、あの過去だけは消し去りたい。
その上で、私が兄を刺したという事実が残っていれば―――きっと私は、これから罪人として生きて行くことになるだろう。
それこそが、真の意味で兄との決別になる。
私は、罪を犯すことで―――記憶を失ったとしても、兄から身を引くことができるのだ。
そう……これで良かったのだ、と。
私は消え行く意識の中、ただそれだけを考えていた。




