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回想/黒月夜羽

 生まれた時の記憶がある人間は珍しいと思う。

 といっても、生まれた瞬間というのは思考能力も無く、ただ目に映る光景がぼんやりと思い返せる程度なのだけれど。


 わたしは日本に生まれたが、母国語を習得するまでの思考というのは曖昧なものだ。

 今思い返してみても、その時の自分は物事に対して関心を得られるほどの頭脳は持ち得ず、それ故に何かに対して思考をするなんて行為は当然行えない。


 となると、いくら記憶があったとしても限度がある。

 生まれてからハッキリとした自我を獲得するまでの自分についてなんて、思い出したところで靄がかかったようなものなのだ。


 つまるところ、人は幼い頃の記憶を持たないのではない。持っていても、自分という意思を確立していなかった頃の記憶など有って無いものと同義である―――それだけの話なのだ。


 超記憶症候群(ハイパーサイメシア)

 自分が特質的な能力を所有している事に気付いたのは、小学生の頃だった。


 よく『物覚えが良い』、という言い方をするけれど、わたしにしてみればそんなものは当然のことで。

 例えば教科書を開いた時、そこに書かれている文字に一度でも目を通せば、それは文章ではなく絵として脳髄に記録される。


 試してみて欲しいのだけれど、今見ているモノを数秒間凝視し、それから目を閉じると一瞬くらいはその『見ていたモノ』を寸分違わず脳裏に映し出せるのではなかろうか。

 わたしの場合、その『一瞬』が『永遠』であるだけのことなのである。


 学校ではすぐに天才児として持て囃された。

 自分にしてみれば当然のことをしているだけなのだが、どうやら周りの人間からみると異常なことなのだと言う。


 わたしはその頃から、次第に自分が特別な存在であることを自覚していって。

 気が付けば、周囲には誰もいなかった。


 ―――いやいや、おかしいでしょう?

 別にわたしは何もしていない。周りが劣等なだけであり、自分が特別なだけであり、出来ない者と出来る者の違いなだけで―――


 称賛の言葉はやがて、畏怖の言葉へと変わっていった。


 なんでも覚えられる―――というのは、幼い頃からすれば楽しさが勝るものではあった。

 知らない事を知る、出来ない事が出来るようになる……それはただ楽しい行為であったはずなのに。


 気が付くと。

 わたしは毎晩、夢に魘されるようになっていた。


 夢というのは理不尽だ。

 だって、自分が視たいと思った夢が視られるわけじゃない。こればっかりはいくら記憶力がよくても制御不可能だった。


 化け物、と子供心ながらに罵られ、石を投げられたこともあった。抵抗しようにも女の子は育ち盛りの男子達には勝てなくて、悔しくなって格闘技を覚えようとしたこともある。


 テストで満点を取ったって、褒めてくれる大人はどこにもいなかった。捻くれていたわたしは、わざと問題を間違えて低い点数を取ったこともある。けれど、だからといって誰かに褒められるワケではないという事はすぐに気が付いた。


 そんな過去のトラウマじみた記憶は今でも鮮明に思い出せる。いや、思い出したくもないのに嫌でも浮かんでくるのだ。そんな自分の特性に嫌気がさすまでに、さほど時間は掛からなかくて―――


 自分への嫌悪は、やがて周囲の環境や人間に対するものへと変わっていった。


『君のその能力は、とっても素晴らしいものなんだよ』


 そんなわたしの人生の中で、わたしを認めてくれた人物がいた。

 それこそが『天使の棺』を造り上げた人間であり、黒月に所属していた研究者―――


『感情というのは、過去に経験した出来事が記憶として蓄積されることで作り上げられるものだ。人間というのは本来良く出来た生き物でね、嫌な記憶ほど奥底に押し込めて、都合の良い記憶ばかりを浮上させることでその精神を保っている』


 彼が発した言葉のひとつひとつも鮮明に思い出せる。


『記憶の蓄積量も無限ではないんだ。君のように何もかもをしまい込み、いつでも引き出せるなんてのは致命的に危険なんだよ。むしろその特性を持ち得た上でこれまで生きてきて、よくそんなに真っ当な人格を保っていられるものだよ』


 わたしは、初めて自分の理解者が出来たと思って浮かれていた。言い訳するつもりはないので素直に告白すれば、わたしは彼に縋っていたのだ。


『それは間違いなく異常ではあるけれど、他の人間には無い唯一無二の力でもある。力なんてものは、ようは使い道次第なんだ。君にとってのそれは忌み嫌うべき代物かもしれないけれど、それを必要とする存在だってこの世には確かにいる。この俺のようにね』


 あの頃のわたしは、ただ自分が必要とされることに喜びを感じていて。

 自分を救ってくれるのはこの人なのだ、と盲目的に信じきっていたのだ。


『俺が開発しているのは君にとって間違いなく有用な代物だ。名前はまだ決まっていないのだけれど、君が……そうだな、中学を卒業する頃には実用化に至っているはずだよ』


 天使の棺。

 どうしてその名になったのか、結局聞けないままだったけれど。


『これは記憶を作り出す装置だ。人間の脳髄から記憶を完全に消去するのは難しくてね。出来る事と言えば、せいぜい奥底に閉じ込めてしまうことぐらいなんだ。君の場合はその『奥底』がすぐ手の届く位置にあるのが問題だった。けれど、それを思い返そうとする意識はどこから生まれているのだろう? 君は本当に生まれてから無意識に記憶を取り出していたのかな?』


 装置は箱の形をしていて、人間がひとり丸ごと入り込めるくらいの大きさだった。

 完成したそれを試すための実験は、しかし非人道的だということで未だに行われずにいたのだが―――


『不快に思わせてしまったら申し訳ないのだけれどね。君は、今の『黒月夜羽』という人格があるからこそ過去の記憶を取り出し、様々な感情を発露させているに過ぎないんだよ。結局は人間であることに代わりはないからね。例えば君が今まったくの別人になったとしたら、過去の記憶を思い返した時に得られる感情は別物になる―――俺は、そう考えているんだ』


 その為の『天使の棺』である、と。

 この時の彼は、そう断言していたはずなのに。


『今の記憶に新たな空っぽの記憶を上書きする。人間の人格が記憶から形成される以上、それは新たな自分が生まれるに等しい。まあ簡単に言ってしまえば二重人格みたいなものだね。正確なメカニズムは異なるけれど、ほとんど同じようなものと思ってくれていい。超記憶症候群(ハイパーサイメシア)―――君のその特性は凄まじいものだ。それを科学的に制御することはとても難しい。だからこそ、君はその力と向き合う必要がある』


 何もかもを記憶し、何もかもを思い返す力。

 確かに上手く使えば世界中の誰しもか羨む絶対的な力だろう。けれど、わたしにとっては忌むべき存在でしかなかった。


 だからこそ、救ってくれると信じていた。


『天使の棺は空の記憶を植え付ける。空っぽだから何もない、無そのものだ。けれどそれはいわゆるエピソード記憶―――これまで体験してきた思い出などに対するアプローチであり、意味記憶―――身体の動かし方から言語の扱いといった部分には影響を及ぼさない。つまり、人間としての機能は残したまま、新しく空っぽな人格を得られる、と言う訳さ』


 それでも、黒月財閥はわたしを実験の被験体として扱うことを許さなかった。

 研究者である彼もまた、自分の造り上げたものを認められない事実に頭を悩ませていたのかもしれない。


 だからこそ、生み出されたのだ。

 わたしの細胞を利用して創り上げられたクローン体―――ミカエルシリーズが。


 わたしは確信していた。

 ミカエル―――あの子達が実験を繰り返すことで、いずれわたしが救われる日が訪れるのだ、と。


 そうして、一年前のあの日。


『どう……して、こんな……真似を……―――』


 がくり、と研究者である彼の身体が崩れ落ちる。


 滴る赤―――紛うことなき血痕。

 腹部をひと突きされた彼は、やがて静かに意識を失った。


『これでこの施設の所長はいなくなった。こんなくだらない研究はこれで終わり。目を覚ます時だよ、夜羽』


 彼を刺した少女は、狂気に満ちながらも安堵の表情を浮かべて。


『あの子達を犠牲にするまでもない。私が証明してあげるよ。これがいかにくだらないものだったかってね』


 虚ろな瞳をした罪人は苦笑いをしながら、


『……本当に、良いのね?』


 天使の棺が起動する。

 わたしだけではなく、今まで誰一人としてそのシステムがどんな結果を生み出すのか知らないままだったのに―――


『うん。もう後戻りはできないしね』


 その少女は微笑んで、なんの迷いもなく箱に触れる。


『ああ、穂邑……やっぱり、貴女しかいないのね』


 どこまでも忌み嫌われてきた自分を、本当の意味で救おうとしてくれたからこそ。


『確信したわ。わたしはずっと貴女を待っていた。あの日の出会いは偶然なんかじゃない、運命だったのよ』


 わたしは、絶望に苛まれた自分の手を引いてくれる存在を待ち望んでいたのだ。


『十年前の誓いを、ようやく果たす時が来たわ』


 その結果として。

 少女は―――紅条穂邑は、罪を犯してしまった。


『さあ、共に開きましょう―――』


 それがすべての始まりであり、


『―――わたし達の希望の箱、天使の棺を』


 わたしにとっての希望であったとしても。

 きっと、彼女にとっては絶望の始まりであったのだ。

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