6話 事の顛末
記憶喪失の少女は語る。
彼女の、これまでの経緯を。
「わたしの記憶は一年前からのものしかありません。自分が何者なのか、親は誰なのか、生まれた故郷はどこなのか、なにもわかりません。知らされてすらいないんです」
一年というのは、あまりにも偶然が重なりすぎている―――と思ったけど、彼女が僕のそれを知っている訳はない。
未だに信じきれないとは言え、彼女が嘘をついているようには見えないし、その必要がないのは確かだった。
「わたしはどこかの施設で暮らしていました。それがどこかはわかりませんが、『病院』『研究』という単語をよく耳にしたので、そういった場所だったのかもしれません」
なるほど。
昨日の夜、倒れていた彼女を見つけて救急車を呼ぼうとした時、病院という単語にあれだけの拒絶反応を見せたのは、そういった理由があったからか。
「わたしはその施設ではずっと閉じ込められていました。外の景色さえ見ることを許されない。記憶はなくても、何故か理解はできていました。これが普通ではないのだと。わたしのいるこの場所は間違いなく地獄だと」
……地獄。
これだけ純朴そうな少女にそこまで言わせるのだから、きっとそれは想像を絶するような場所だったのだろう。
「そうして昨日、わたしは唐突に連れ出されました。話を聞く限りでは、これは一年に一度の『異動』だと言っていました。そこで思ったんです。今しかない、わたしがこの地獄から逃げ出すには、このチャンスを逃してはいけないんだ、って」
異動、という単語が何を意味するかはわからないが、彼女が覚えている限りでは一年間、その施設に囚われていたことの裏付けはこれか。
「なんとか隙を見つけて車から飛び出して、追いかけてくる人達から逃げ続けて……。外は暗くて、どこへ行けば良いのかなんてまったくわからなかったですけど……でもきっと、そのおかけで追手から逃げ切れたんだと思います」
追手という恐怖から裸足で逃げ続けたのは素直にすごいと思う反面、どうにもイマイチ腑に落ちない。
果たして、その追手がこの華奢な少女を捕まえられない、なんてことが有り得るのだろうか……?
「ずっと走っていたら、遠くに光が見えて。あそこまでいけば助かるかもしれない、と思って無我夢中になって……気が付くと、転んでいました。今思うと何かに躓いたんだと思います。そのあと、あなたに助けられたんです」
僕が彼女を見つけた時、追手なんてものはいなかった。
完全に見失って探していたのかもしれないが、それにしても出来過ぎている気がする。なんだろう、彼女が嘘をついているとは思わないけど、なにか―――
「あらためて、本当にありがとうございました。あなたがこうして助けてくれなかったら、わたしはあの地獄に連れ戻されていました。本当に……本当に、なんてお礼を言ったらいいのか」
疑問は残る。
だけど彼女はいたって真剣であり、戯れ言だと切り捨てるわけにもいかない。
まあ最初からどんな理由であっても助けるつもりだったのだし、これは単なる事実確認でしかない。
「あの……?」
話し終えた少女が訝しげにこちらを見ている。
「ほむら。紅条穂邑」
「え……」
「名前だよ、僕の名前。僕の親友は『ほむりゃん』とか呼ぶんだけど、同じ呼び方はちょっと勘弁して欲しいかな」
「あ、あの。信じて、くれるんですか……?」
何を今更、と思ったが。
まあ、その気持ちもわからなくもない。
「うん。あの時、君を助けた時から、何がなんでも助けるって決めたからね」
「どうして……?」
「理由? うーん、なんだろ。ぶっちゃけ自分でも良くわかってない。強いて言うなら、そうだなあ―――」
助けた理由。
正直なところ本当にわからない。最初は救急車なり警察なり呼んで任せてしまおうとしか思っていなかった。
それでも何故か。
僕が、彼女を心の底から助けようと思った理由、その引き金があるとするならば、
「うん。一目惚れ、したからかもしれない」
なんて、それぐらいしか思い浮かばなかった。
「へ……え、え―――ええええええええええ!?」
少女はこれまでにないほど驚いていた。
それはそうだろう、僕だっていきなりこんなことを言われたら相手の正気を疑う自信がある。
「いや、うん。だってそれぐらいしかない。はじめて君の顔を見た時、頭が痛むくらいに衝撃的だったのを覚えてる」
「え、う……あ、あの……えっと」
「助けた理由なんてそれだけだよ。でも、こうして今もなお助けてあげたいと思ってる理由はそれだけじゃない。ただの面食いだと思われちゃうのも嫌だから、あえて弁明しておくけれど―――」
人は外見だけではない。
内面も含めてその人を評価しうる材料となる。
確かに第一印象が外見、顔であったのだとしても、それが引き金になったのだとしても。
それからどうやってその人と付き合っていくか、それからもっと好きになるか―――その先は確かに存在している、と思う。
「こうして接してみて、わかったよ。もちろん、これからもっと知っていく事もあるだろうけど、今この時点で、僕ははっきりと言い切れる」
感情的になっているかもしれない。
それでも、僕自身が一度決めたことだけは曲げたくないから。
「僕は君を信じるよ。そんでもって助ける。もちろん、迷惑じゃなければね?」
「―――っ……!」
少女の白い頬がみるみるうちに紅潮してゆく。
もしかしてちょっと照れてる?
そんなに嬉しかったのかな?
それとも、あまりに気障ったらしかった……?
「で、でも。えっと、その……お気持ちは、とても嬉しいんですけど。こういうのは……もっと、段階を踏んでから、と言うか―――」
「……ん?」
「それに、記憶がなくたって、わたしにだって、その……常識くらいは、ありまして」
なんだか、おかしな流れになってない?
「わたし達……女の子同士、ですよ……!?」
「…………、あー」
なるほど、過大解釈させてしまったのか。
まあ、ある意味では間違ってはいないというか、僕としてはそれで正しい方向性の意味合いではあるのだけれど。
「あー、コホン」
僕は話の腰を折るように、わざとらしく咳き込んで、
「じゃあ友達になろう。友達なら、助けるのは当たり前のことでしょ?」
「え―――」
「あ、そうだ。名前、まだ聞いてなかったよね?」
面食らって何も言えなくなっている少女に向けて。ようやく、僕が一番聞きたかったことを、問い掛けることができた。
「あっ、えっと……はい。わたしは―――」
けれど、待ち望んだその答えは、
「わたしはミカエル。『ミカエルXⅢ』です」
あまりにも、現実離れしたものだった。