3話 百花繚乱のストレンジャー
僕達が百瀬百合花の部屋を訪ねると、メイドのクリスが出迎えた。
「百合花様なら既に学院へ向かわれています。……ところで、そちらの方は?」
クリスが怪訝な視線を送ったのは夜羽だった。普段通り、いや、普段よりも鋭く冷徹な眼光。それを受けた夜羽は、
「わたしは三日月絵瑠ですよ。どうしたんですか、クリスさん?」
声色を変え、本物の三日月絵瑠のように振舞って見せていた―――のだが。
「そんな訳はないでしょう。三日月絵瑠は死亡したと報告を受けています」
しかし、クリスはそれを一発で看破した。
というよりも、既に情報を得ていたようだったのだが―――
「……ああ、そう。百瀬百合花なら従者にさえも秘すると思っていたのだけれど。はあ……また一人、口裏を合わせる必要があるってわけね」
「やはり貴女でしたか、黒月夜羽様。事の秘匿でしたらご安心を。ワタシは必要のない会話や意思の主張は致しません。先程の質問はあくまでも確認の為ですので」
「ふうん、あくまでも立場は弁えるってわけ? ま、それなら面倒がなくて助かるのだけれど。それで、百瀬百合花はどこに?」
「今頃は生徒会長室で執務に追われている頃合いかと。平日は早朝から深夜まで、忙しい時はこのお部屋にお戻りになられない事も多々あります」
どこまでも単調で事務的な会話の応酬。
そんな二人のやり取りに居心地の悪さを感じていると、後ろから見ているだけだった香菜が唐突に夜羽の肩に手を置いて、
「ここに百瀬先輩がいないのはわかったんだし、さっさと学院まで行くよ」
「ええ、それはもちろん。ただ、ちょっと―――」
急かす香菜の言葉に対し、夜羽はなにか物足りなさそうに、
「……いや。ま、いいか。これも百瀬百合花に確かめれば済む話ね」
「なんか気になることでもあるわけ?」
「なんでもないわ。貴女の言う通り、さっさと百瀬百合花に会いに行きましょう」
そうして、僕達はその場を後にした。
クリスは無言のまま、姿が見えなくなるまでずっとこちらに視線を向けていた、そんな気がした。
◆◆◆
茨薔薇女学院、校舎、生徒会長室前。
「そういえば、あの時もここで会ったわよね」
唐突に夜羽がこちらへ振り向いてそんな言葉を投げかけてくる。
「あの時って……ああ、そうか。あれは夜羽だったのか」
言われて僕も思い出す。
えると二人で百瀬百合花に直談判しに来た時、出逢った謎の女性―――
あの時は意識が朦朧としていてよく覚えていないが、この場所に立って夜羽の顔を見ていると、次第に記憶が蘇ってくる。
『わたしを見ていきなりそんな顔するなんて悲しいわね。ああ……それとも、頭が痛いの?』
いつもの頭痛に苛まれながら、確かにそう声を掛けられた。
『ああ、そっか―――』
そうだ。
多分、これは私にとっての、
『二番目の人格、その副作用ね。不安定な脳に掛かる負荷、てとこ?』
そこで僕の意識はフェードアウトした。
けれど、何故か今の自分は思い出せる。
『……久しぶりね、夜羽』
『ふうん、スイッチ出来るんだ。少しだけ驚いたわ、穂邑』
『切り替え、って意味ならそれは少し違うよ。私はいつでも私だし、普段からずっと紅条穂邑として生きている。『天使の棺』―――新しい人格を作る、なんてよく言ったものだよ。結局、思考しているのも、行動しているのも、すべて私個人であることに変わりはないんだから』
『……どういう意味? 『天使の棺』は欠陥品だった、ってこと?』
『さあね。あれの仕組みなんて私にはわからない。ただひとつだけ言えるのは、紅条穂邑っていう人間はあくまで一人しかいないってこと。一時的に記憶をサルベージできなくなっている状態があるだけで、本質的な人格なんてのはひとつしかない。だから、世間一般で言う二重人格とはまた別のものだよ』
『ああ、そういうこと。それなら支障はないわね。むしろ計画通りというべきかもしれない。貴女は確かにわたしの役に立ってくれたわ』
『……そう。私はこれから百合花さんに会いにいく。ミカエル―――あの子を助けて貰うために。夜羽がこうしてここにいるってことは、なにか関係があるんでしょ?』
『そうね。ま、それについてはそのうち解るわ』
それは僕ではなく、私の記憶だった。
心の奥底から湧き上がる不快感が身体中を迸り、得もしれない嫌悪感に呼吸が止まる。
「……ほむりゃん?」
そんな僕の様子に気付いたのか、香菜が心配そうな表情でこちらを覗いてきた。
「香菜―――」
僕は思わず香菜の手を取り、己の胸元に抱き寄せる。
「わわっ、ど、どしたの!?」
「香菜……僕は、ここにいる……?」
自分が自分ではなくなってしまうような違和感。
今ここに立っているのが僕であるのだと確信できない。記憶がフラッシュバックする度に、紅条穂邑という人間、その記憶のピントのようなものが徐々に合わさっていくような感覚―――
「ほむりゃんはいるよ、ここにいる」
僕の手を握り返し、もう片方の腕でその小さな身体に抱き寄せるように、香菜は優しくそう囁いた。
小さく、少しずつ息を吸い込み、吐く。
それだけの行為を何度か繰り返していると、次第に頭の中はクリアになっていき、やがて湧き出る記憶はかき消えていく。
それは、これまでにないほどの恐怖だった。
一年前、死すら怖くなかった自分の精神性とはとても思えない。今こうして思考している自分という存在そのものの否定―――もしも、すべての記憶が蘇ったとしたら。
「……あれもまだ完全ではない、か」
ぼそり、と夜羽が呟く。
これまでにない症状―――最近になって変化には気付いていたものの、ハッキリ言ってこれは異常だった。
黒月夜羽との再開によって、紅条穂邑という人間に変質が起き始めているとでも言うのだろうか。
「ほむりゃん、大丈夫……?」
香菜の柔らかい感触に包まれて、僕は思考を落ち着かせる。
「……ああ、うん。ごめん、ちょっと色々思い出してた」
「思い出す……って、まさか―――」
「いや、ごめん。もう大丈夫。今はそれより百合花さんに会わなくちゃ」
僕は名残惜しみながら香菜の身体から離れて、
「行こう、二人とも」
前へ進む。
過去に囚われている暇はない。
今すべきことをする為に、僕は一歩ずつ踏み出さなければならないのだから。
◆◆◆
生徒会長室は思っていたより狭く、質素な内装になっていた。
部屋を囲むのは多くの書物を収納している本棚。奥には人間がまともには通られない程度の小さな窓があり、そこから朝日が薄暗い室内に差し込んでいる。
「あら。随分とお早いご登校ですわね」
光の先、デスクに座っているのは一人の少女。
銀髪縦ロール、黒を基調とした豪奢なドレス、透き通るような白い肌。
「今回は珍しい組み合わせ……いえ、懐かしいと言った方が適切かしら」
その目は常に手元の書類へと向けられていた。
それなのに、彼女―――百瀬百合花はこちらの姿が見えているかのような物言いをしてみせた。
「まだ朝の七時過ぎですわよ。これだけ静かな校舎内、生徒達も早起きな方々しかいない……そんな時にいったいどういったご用件で?」
書類を次々と読み込んでは処理を繰り返し、言葉だけがこちらに対して放たれている中、真っ先に一歩前に出たのは夜羽だった。
「百合花、単刀直入に聞くわ。蜜峰漓江はどこ?」
ぴくり、と百合花の眉が動いた。
「……ふう。開口一番それですか。いい加減に呆れを通り越して溜め息すら出ませんわね」
疲れ切った声色でそう言うと、百合花は手元の動きを止め、ようやくこちらに向き直って、
「蜜峰漓江は貴女の手先でしょう、夜羽」
そして、そんなことを言ったのだ。
「……え? ど、どういうこと?」
僕はわけがわからず困惑するしかなかった。
隣にいる香菜の顔をチラリと伺うと、香菜はただ真剣な表情を浮かべている。
「手先、っていうのはちょっと心外ね。確かにあの子はわたしに対して執着しているようだったけれど、それはもう一年も昔の話よ?」
「誤魔化しても無駄ですわ。わたくしを甘く見ないことね。最近まで蜜峰漓江と貴女が接触していたことは調査済みです」
「……それは、どうやって?」
夜羽の声色から余裕が消えた。
それを見過ごさんとばかりに、百合花は追い打ちをかけるよう言葉を続ける。
「貴女はどうやら彼女の人格について理解していなかったようですわね。蜜峰漓江は二重人格です。黒月夜羽とやり取りをしていたのはその片方だけ。そして、もうひとつの人格はそれを知っていた。彼女から聞き出すのは容易でしたわ」
「ふうん。わたしさ、どうにもその二重人格だとかいうのが信じられないのだけれど。わたしの記憶ではそんな素振りをまったく見せなかったわよ?」
「それは一年前の話でしょう。貴女はこの学院を去ってからはずっと携帯機器による連絡で事を済ませていた。直接会って長い時間を共にしていなければ気付かないこともあるでしょう」
「ちょっと待って。一年前はそうじゃなかったとでも?」
その夜羽の疑問は僕も気になったところだった。
「……その様子ですと、貴女の例の計画によって引き起こされた症状ではない、ということですかしら?」
「まさか。あれを使ったのは穂邑だけよ。それは貴女だって知って―――」
そこで、夜羽は言葉を詰まらせた。
「いや……そうじゃない、とでも……?」
なにかに思い至ったのか、夜羽は黙り込んでしまう。
そして、そんな二人のやり取りに口を挟んだのは香菜だった。
「それで。結局、蜜峰さんはあんたの手先なの?」
「それは……まあ、ここまできたら隠しても仕方ないか。そうね、手先……というよりは仲間に近いわ」
「仲間?」と、僕は思わず聞き返す。
「言ったでしょ。この学院には敵のスパイがいる。最初は向こうがわたしに付きまとっていただけなのだけれど……学院にいられないわたしの代わりに、彼女には『目』になって貰おうと思ったのよ」
「利用していた、ってこと?」
夜羽の言い分に、香菜は苛立ちの混じった声でそう問いかけた。
「さっきから耳障りの悪い言葉ばかり選ばないでくれる? 別にわたしが強制したわけでもない。向こうから役に立ちたいなんて言い出して―――」
「けど、肝心の蜜峰さんは敵のスパイとして容疑が掛けられている。あたしや船橋さんを監禁して、挙げ句の果てにあたしを刺したのは疑いのない事実でしょ。それはどう説明するつもり?」
「だから、それが解らないからこうして百瀬百合花に会いに来たんでしょう。あのね、わたしがなんでもかんでも知ってると思ったら大間違いよ。そりゃあ、今までこの目で見たものならなんでもすぐに思い返せるけれど―――」
溜め息混じりに吐き捨てる夜羽。
それを眺めていた百合花は、デスクから立ち上がってこちらへと近寄りながら、
「蜜峰漓江が敵のスパイ……? 貴女達、いったい何の話をしているのかしら?」
「いやだから、この学院にいる敵のスパイ候補が蜜峰漓江だっていう話で……わたしからすれば、彼女は仲間だったから―――」
と、夜羽がそこまで言った瞬間だった。
「大変だッ!!!!」
バンッ、と大きな音を立てて背後の扉が開かれる。
僕達が驚いてそちらへ振り向くと、そこにはよく見知った少女の顔があり―――
「茨薔薇の園が、謎の武装集団に占領された!!」
濠野摩咲の叫び声が、生徒会長室に響き渡った。




