1話 深層心理のメタモルフォーゼ
―――嫌な夢を見ていた気がする。
目が覚めると、いつもの天井があった。
学生寮『茨薔薇の園』一階、紅条穂邑の部屋、その寝室―――間違いない、ここは僕の部屋だ。
暑さに耐えきれず、身体を起こして布団をよける。額に手を当てると汗でびっしょりと濡れていた。
部屋は薄暗い。
窓の外は紺色で、夜が明ける手前といったところだろうか。
ふわふわとした思考をまとめ、これまでの経緯を思い返すために記憶を辿る。
そして、真っ先に脳裏に浮かび上がった光景は、
「あ、ああ……そうだ……える、えるが―――」
車の窓から伸ばされた手、握られた拳銃。
響き渡る銃声、倒れる少女。
そして、三日月絵瑠の―――最期の言葉。
「ん……う……」
鮮明に思い返されていく記憶に戦慄していると、すぐ隣から呻き声のようなものが聴こえてくる。
驚いて視線を向けると、そこには―――
「―――える?」
見間違うはずもない。
そこには、確かに三日月絵瑠が眠っていた。
長く艷やかな黒髪、白く人形のような肌、美しく整った顔付き。そして、自分とは比べ物にならないほどに女性的でしなやかな肢体。
「なんで……えるが……」
強烈な既視感を覚える。
僕は確かに、この光景を二度も目に焼き付けているはずだ。
「生きてる……よね……?」
仰向けで眠っている少女の肩に手をやり、その口元に顔を近づける。
すうすう、と安らかな呼吸を繰り返していて、胸元はゆっくりと上下していることがわかった。
間違いない、生きている。
それなら、あの記憶は―――?
「ん……なに……?」
近づけていた顔―――まさに目と鼻の先の距離で、少女の瞼が開かれる。
それは、しばらくの間こちらを凝視して、
「ああ、そうだった……おはよう、穂邑」
そう言って、その両手で顔を包み込むように触れてきて、
「―――んむ!?」
なんの断りもなく、唐突に唇を奪われた。
「ぷはっ……ちょ、ちょっとなに―――」
ほんの一瞬の出来事に思考が停止したが、すぐに我に返った僕は飛び跳ねるようにしてその場から後ずさると、
「なにって、もう朝でしょう? それなら、おはようのキスくらい普通のスキンシップだと思うけれど?」
そう言って、その少女は妖艶に微笑んだ。
「える……いや、違う。君は……そうだ、思い出した……君は、あの時の!」
「ああ、今はそっちなのね。まあどっちでも構わないけれど、ふうん……そっちの穂邑はそういう感じか」
三日月絵瑠と瓜二つな少女―――だが、彼女はえるではない。
「それじゃあ、改めて。こうして貴女と会うのは二度目かしら。あの時はあっちにすぐ切り替わったみたいだけれど、今はそうはならないようね」
「黒月……夜羽……!」
「ちょっと、名乗るより先に呼ぶのはマナー違反なんじゃない? まあ別にいいけれど。それより、その初心な反応を見る限りだと、あの子とそういうことはしなかったのね」
「そういうこと、って―――」
わけがわからない。
えるだと思っていたら本当は黒月夜羽で、彼女は起き抜けにいきなり唇を奪ってきて、今もこうしてなんの遠慮もなく堂々と振る舞っている。
いや、そんなことよりも。
確かめなければならないことがあるはずだ。
「えるは……どうなった?」
あの時の記憶が間違いでないのなら。
えるは、もう―――
「ミカエルⅩⅢなら死んだわよ」
―――この世には、いないということになる。
「そんな……それじゃ、やっぱりあれは……」
「貴女が気に病むことはないわ。ミカエルⅩⅢはどうせそのうち死ぬ予定だった。あの子が起こした奇跡と百瀬百合花に免じて、せめてその希望くらいは叶えてあげようかと思ったけれど……まあ、大の男達に力の無い女だけで立ち向かおうとしたのが、そもそもの間違いだったってことね」
「香菜は……無事なの?」
「それは心配しなくていいわ、あいつらは最初から渋谷香菜に手を出せるような手合いじゃないから。人質に取るってだけでも相当危ない橋を渡ってただろうし」
淡々と、興味のないことを語るように。
その少女―――黒月夜羽は、どこまでも感情の伺い知れない声色で、ただ面倒臭そうに早口でそれだけをまくし立てた。
「なんで……君は、ここに……?」
「ああ、それは……ま、いいか。本当は貴女の心の整理がついてから言おうと思っていたのだけれど、そうね―――簡潔に答えるなら、今日からわたしが三日月絵瑠としてこの学院に通うことにしたわ」
―――彼女は、いま、なんて言った?
「あの子がこの学院に通うことになった要因、それが百瀬百合花の手引きだけだと思った? そもそもアレはわたしの計画における余りもの。不完全体、不良品と言ってしまってもいいわね。それがここに辿り着いた……その偶然を生かさない手はなかった。百瀬百合花に直接頼みに行ったわ、あの子が望むならこの学院に通わせてあげて欲しい、ってね」
黒月夜羽は棘のある口調で、
「元々、ミカエルシリーズは投薬を続けなければすぐに身体機能を崩壊させる貧弱な素体だった。あの子が逃げ出した時点で、その寿命は長くても一ヶ月程度しかなかったわ。だから最期の望みを叶えてあげる代わりに、わたしはあの子を利用することにしたのよ。死んだ後、その立ち位置をそのまま譲り受けることにね」
長くても一ヶ月の命。
そんなこと、まったく知らなかった。
「まあ、それもひとつの目的を達成させる為だけの措置なのだけれど。わたしも本当はその為にこの学院まで足を運んだわけだし。まあ、結局は一日足らずでウチの人間が大勢で探しにきて台無しになったけれどね」
彼女が何を言っているのかなんて頭に入ってこなかった。
えるを利用するだの、寿命が短いだの、もはや話の内容なんてほとんど理解できない。
「さて、貴女にはわたしの目的を教えておくわ。この学院には敵のスパイが潜んでいる可能性がある」
「敵……?」
「わたしはそいつを見つけ出さなければならない。百瀬百合花に協力しているのだって、すべてはその為でしかないわ。貴女がどれだけあの子に執着していたかは知らないけれど、わたしにとってミカエル……いえ、三日月絵瑠の価値なんてその程度のものよ」
わからない、けれど。
どれだけ理解不能であっても、目を背けてはならない事実は確かにある。
「……えるが、なんだって?」
僕は何も知らない。
目の前の女が言っていることが真実であるかすら見極められない。
それでも、許すわけにはいかなかった。
「君や百瀬百合花がなにをしようとしてるかなんて知ったことか! えるが殺されたのに、それを平然と吐き捨てるような人間を、僕は―――」
「どうするって言うの?」
どれだけ僕が怒りを顕にしても、黒月夜羽の表情は変わらない。
冷たく鋭い一言を返すだけで、その目は僕すら見ていないように感じた。
「僕は……えるが、死んだのに……それを―――」
言葉が出てこない。
黒月夜羽は非道だ、と思う。
けれど、えるを殺したのは彼女ではないはずだ。むしろ、彼女はえるを助けようとしていたのだから。
「……はあ。なんともつまらない人間に成り下がったようね、穂邑」
そうして、あからさまに、わかりやすく。
黒月夜羽は落胆し、軽蔑するような声色でそれだけを言った。
「どうして、えるは殺されたの……?」
僕はそれでも、えるのことしか考えられなくて。
「君は、なにもかも知ってるんじゃないの!?」
だからこそ、そう問い掛けるしかなかった。
「まあ、そうね。わたしはすべてを知っているわ。この学院に潜んでいる敵の正体を除けば、ね」
「えるを殺したのは……あの男は、何者なの?」
「あれは殺し屋。ただの雇われ者よ」
「……それじゃあ、そいつを雇ったのは?」
「それを知ってどうするつもり?」
決まっている。
えるを殺した奴らへの復讐、これまで好き勝手にしてきた者達への―――反逆だ。
「はあ。先に言っておくけれど、貴女は紅条穂邑なのよ」
「それが、なに?」
「紅条穂邑はわたしを愛していたわ」
「……は?」
「だから、その姿見が同じミカエルシリーズであるあの子に対して好意を抱いた。それは深層心理に刻まれたもの―――貴女自身のものではない、紅条穂邑という人間の生み出した感情に過ぎない」
「だから、なに?」
「まだわからない? 三日月絵瑠はわたしよ。ミカエルシリーズは黒月夜羽の細胞から生み出された複製素体、いわゆるクローンなの。つまり、まともな人間ですらないわ」
「そんなの……それが本当だとしても、僕には関係ない。えるはえるだよ、君じゃない」
「そうね、貴女はそう言うと思った。だから一応言っておくってだけ」
彼女の言葉の意図がわからない。
もしそれが事実だとしても、三日月絵瑠として生きた少女と過ごした、この僕自身の記憶は本物だ。
紅条穂邑という人間の意識は変質した。
それが僕という存在なのだから。
「戦うというのなら、わたしに協力しなさい」
そうして、黒月夜羽は手を差し伸べた。
「三日月絵瑠がこの学院にいると外部に知られた理由、少し考えればわかるでしょう。貴女が戦うべき相手はそれよ。そして、それはわたしの敵でもある」
「…………」
「冷静に物事を見て、自分で判断しなさい。それが間に合わないなら、わたしがサポートしてあげる。今の貴女は、わたしの知っている紅条穂邑ではないけれど―――それでも、紅条穂邑には黒月夜羽が必要であり、わたしには貴女が必要なのよ」
「……、僕は―――」
「わたしはあの子を使うわ、三日月絵瑠という存在をね。それが気に入らないならこう考えればいい。三日月絵瑠を死なせた原因を見つける為に、その死を無駄にせず利用するのだと」
自分のやるべきことを明確にさせる。
黒月夜羽はどこまでも身勝手で、えるに対しておざなりな態度を取っていたとしても。
僕がすべきことは、もう決まっているのだから。
「―――わかった、君を信じるよ」
そう応えて、僕は彼女の手を取る。
「ようやく少しはまともな目になったわね。ああ、そうそう。ひとつ教えておいてあげるわ」
言いながら、黒月夜羽はその手を握り締め、
「穂邑はね、わたしを夜羽って呼んでいたのよ」
そこで初めて、女の子らしい笑みを浮かべたのだった。
「僕は君のことなんて覚えてない。愛してた、なんて言われてもまったくの他人事だ。だけど―――」
えると瓜二つの少女に、錯覚したわけではないけれど、それでも。
「今は、よろしく。夜羽」
この日。
僕は、一人の少女と同盟を結んだのだった。




