9話 止まる鼓動、静止する世界
茨薔薇女学院のある敷地から外へ。
住宅街をまっすぐ抜けた先―――茨薔薇の区域外へと抜けて少し進んだ場所にある街の駅、そこから少し離れた場所に設置されているコンビニ、その付近に位置する無人駐車場。
僕とえるは、謎の男の指示通り、そんな場所へとやってきていた。
時刻は七時前。
日も落ちて、辺りには人もいない。
元々この周辺は人だかりも少ないが、今日に限っては不自然なくらいに静かだった。
「ほむらさん、あそこに―――」
そうして、えるが指さしたのは一台の白い車。
その前に佇んでいる、一人の白いスーツを着た男の姿。
「……うん。行こう」
正直、未だに僕は悩んでいる。
このまま、あの男にえるを渡してしまってもいいのか。本当に香菜を返して貰えるのか、その保証もないまま、誰に相談する暇もなく。
けれど、もはや手遅れだった。
向こうの男もこちらの存在に気付いたのか、車の中へとなにかの合図を送っている。どうやら男一人だけではないようだ。
「ほむらさん。わたし、大丈夫ですから」
「……え?」
ゆっくりと車の方へと向かいながら、えるは透き通るような声色で言う。
「きっと、また会えます。だって、こうして一度は出会えたんですから」
「える―――」
「だから、ほむらさんは香菜さんを助けてあげてください。今は……それだけ考えて」
「……うん、わかった」
そうして、僕達は男の前に辿り着く。
「時間以内に来たか、それに予想よりも早い。どうやら覚悟は決まっているようだな。おい、お嬢様を解放してやれ」
男が車の中へ声を掛けると、そこから、
「―――香菜っ!!」
目を隠され、口元を塞がれ、両手を縛られた状態で。
しかし、五体満足のまま、確かに渋谷香菜の身柄が差し出された。
「さあ、交換の時間だ。面倒なことは避けたい。先にお嬢様を解放してやろう。ほら、行け」
「――――――」
もごもごと何かを訴える香菜をよそに、男はその背中を押して僕の元へと渡してきた。
「っ……香菜! 大丈夫!?」
「――――――」
口元は白い布のようなもので強く巻かれており、剥がすのは一苦労しそうだった。
「随分と……あっさり、なんですね。こういう時は、先に寄こせと脅されるものとばかり思っていましたよ」
僕は精一杯の強がりを込めて言う。
しかし、男はそんな僕を嘲笑うかのように、
「子供相手に駆け引きなど必要あるまい。こちらには力づくでもお前を従わせられるだけの用意がある。……が、こんな公共の場でそのような愚行に走るつもりもないのでね。わかるかな、抵抗こそが真に無意味であるのだと」
そう言って、胸元から取り出されたのは一丁の拳銃。
間違いない。
この男は真っ当な人間ではなく、この状況において、僕にできることはなにもない。
従うことこそが唯一、平和的な解決方法なのだ。
「さて。手間をかけさせないで貰おうか。ミカエル、こちらへ来い」
「―――あなたは、誰ですか?」
えるは僕達の前に一歩踏み出すと、男に向けてそんなことを問い掛けた。
「……ほう?」
「その服装、顔付き、声色、何ひとつとして、わたしの記憶にあなたの存在はありません。あなたは、何者ですか?」
「なるほど。流石はあの女の―――いや、それでこそ見過ごせない。こうしてわざわざ手を尽くした甲斐があったというものだ」
「なにを、言って―――」
その瞬間。
僕達と男との間に飛び込むようにして、何者かが現れた。
「ふう、どうやら間に合ったようね。まったく、本当に―――こんな稚拙な手に引っかかるなんて。貴女、本当に変わってしまったのね」
「なっ、お前は―――」
男の余裕ぶった表情は、一瞬にして驚愕の形相に変わる。
だが、そんな男の反応を無視するように、突如として姿を見せたその少女はチラリとこちらへ目配せをして、
「ミカエル―――ああ、えっと……今は三日月絵瑠、なんだっけ。貴女が望むのなら、すぐにでもそこの腑抜けた女と一緒にここから立ち去りなさい」
「貴様、何故この場所に……!」
しびれを切らせた男の胸元から抜き出されたそれは、間違いなく本物の凶器そのものだったが、
「―――シュッ!」
その動作は一切の無駄もなく。
弧を描くように放たれた少女の回し蹴りが、男の手元にあった銃を弾き飛ばした。
「なっ……こんなバカな、ことが……!」
「残念だったわね。三日月絵瑠の位置情報は常に監視されているの。どこかの完璧主義の塊を気取っている学院長サマが見逃すはずはないでしょう?」
「そうか……百瀬百合花……ッ!」
男が憎悪に満ちた瞳で睨みつけているもの、それは、
「なにをしているの、早く行きなさい!」
長い黒髪を後ろで縛り、黒いスーツを身に纏う少女。
「君は―――」
その顔を、僕が見間違えるはずもない。
けれど、確かに僕の隣にはえるが立っている。
―――そう、それはつまり。
「なぜだ……なぜ貴様が邪魔をする、黒月夜羽!」
「簡単なことよ、わたしの計画にこの子が必要ではなくなっただけ。利用価値なんてとっくに無くなっている。それを勘違いして追い回しているような、貴方達みたいにつまらない人間が目障りだからよ」
黒月夜羽。
ああ、そうだ―――私は確かに彼女を知っている。
「価値がない……だと? は、ふざけたことを。そのようなハッタリが通用するとでも思っているのか。それならば、なぜ貴様はそうしてその女を守ろうとする?」
「それがわからないから、貴方はつまらないのよ」
それだけを吐き捨てて、夜羽は再びキレのある蹴りを繰り出そうと―――
「なるほど、確かにそれはそうなのかもしれん。だが―――結局、貴様はそのつまらない人間とやらに出し抜かれるのだ」
パァン、と。
生まれてからこれまでに一度も聴いたこともない、鼓膜が破けてしまいそうなほどの轟音と共に。
「……え?」
車の窓から突き出された手には、一丁の拳銃が握られていて。
そこから放たれた弾丸を受け、目の前にいた少女―――三日月絵瑠は、背中から勢いのままこちら側に倒れてくる。
「―――チッ。だから、早く行けと言ったのに」
その刹那。
世界が―――感じている時間が、なにもかもが。
「目的は果たした。―――出せ!」
ゆっくりと、静かに、音も立てずに。
「ほ……むら、さん……」
真っ白になって。
感情が吹き飛んで、意識が朦朧とし始めていく。
「わたし……少しの、間だけ、でしたけど……」
その華奢な人形のように美しく儚い少女は、
「とっても……しあわせ、でした……から……」
胸元から赤い液体を垂れ流しながら、最期の力を振り絞るように、
「わたし……なにも、してあげられなくて……」
震えながら、掠れきった声で、最後まで無垢な笑顔を絶やすことなく、
「それだけが……こころ、のこり……で―――」
身体はぴくりとも動かなくなって、吐く息は途切れ、その目蓋は開かれたまま。
「……………………………………………………」
―――静寂の中。
あっけなく、三日月絵瑠はその命を終わらせた。
「もしもし。悪いけれど今すぐ処理班を手配して。……ええ、ミカエルⅩⅢが死んだわ。まだ目撃者はいないけれど、このままではいずれ騒ぎになる」
なにが起こったのか、意識が追いつかない。
それからどれだけの時間が経ったのか、自分がどうなったのか、なにも理解が及ばないまま。
悲しみも、怒りも、苦しみも、なにも感じる暇もなく、すべてが早送りの映像を見ているかのように過ぎていって。
―――その日。
紅条穂邑は、大切なひとを喪った。




