7話 平穏な日々、守るべき存在
えるの初登校から二日が経った。
驚くほどに馴染むのが早く、クラスメイトとも仲良くやれていて、学業にも熱心に取り組んでいる。
いきなり勉強に着いていけるか不安だったけれど、えるは凄まじいほどに物覚えが良く、スタートダッシュは完璧だと言えた。
その反面、運動は苦手みたいだけれど。
まあ、それもなんていうか『らしい』と思える。
特に仲良くしてくれているのはクラスの委員長だった。
僕は覚えていなかったのだけれど、どうやら彼女は一年の頃も同じクラスメイトだったらしい。
一年から二年に上がって総入れ替えになったと思い込んでいたけれど、実際、あのヤンキー少女―――濠野摩咲もまた一年から同じクラスだったことを思い出した。
そういう意味で、委員長は僕と摩咲の仲に関して知己であるからこそ、急に仲良くし始めたことに対して疑問を抱いたのだろう。
「三日月さん、明日のテスト範囲覚えてますか? もし解らないことがあれば私が教えますよ」
「ええと、その……テストの範囲、先生が言っていた部分のことでしたら大丈夫です。もう全部目を通したので」
僕が机でぐったりしている中、そんな委員長とえるの会話が聴こえてくる。
「あのね、目を通すのは確かに大事なのですけれど……テスト範囲の中にも、出題されやすい問題とか、読み間違いやすい箇所とかがあって―――」
「そうなんですか? もしかして、そのテスト範囲以外にも覚えておかなくちゃいけないことがあるんですか……?」
「いや、そうじゃないんですけれどね。あー、ええと、なんて言えばいいかな……」
「テスト範囲内だけなら、私、全部覚えてますから……あの、大丈夫だと思います。お気遣い、ありがとうございます」
「へ……覚えてる、って……?」
とまあ、委員長が目をひん剥くレベルの学習能力なのである。
「紅条、今日は廊下の掃除な」
和やかな気持ちでえる達のやりとりを眺めていると、いつものヤンキーの押し付けが始まった。
「廊下ってどこの」
「全部」
「ええ、全部って!?」
「冗談だよ。いつも通り二階の南側半分な」
それだけ言って去る摩咲。
僕は溜め息を吐きながらその背中を見送って、
「ほむらさん、またお手伝いですか?」
えるが笑顔でこちらにやってきて、そんなことを尋ねてくる。
「なんで楽しそうなのかなあ」
僕は彼女の意図を理解しつつ、吐き捨てるように呟いて、
「行こっか、える」
「はい! あっ、すぐに帰りの準備しますね!」
なんてことない、いつも通りの日常。
それを噛み締めながら、僕は感慨に耽るように、
(明日になったら香菜が帰ってくる。それからが本番……だよな……)
予定通りいけば、香菜の退院は今日である。
病院が茨薔薇の敷地外、しかも平日ということもあり、結局最後までお見舞いには行けなかったけれど、
明日。
渋谷香菜が、またここに戻ってくるのだ。
「ほむらさん、どうしました?」
「ああいや、なんでもないよ。準備できた?」
「はいっ!」
この掛け替えのない少女を、香菜に認めさせる。
そして、香菜の身に起きた異常の原因を必ず突き止めてみせる。
僕の戦いは、ここからなんだから。
◆◆◆
放課後。
廊下掃除も終わり、学院内から生徒の半数が下校していく頃。
「ほむらさん、モップ貸してください。わたし戻してきますから」
「うん、ありがと」
手に持っていたモップを預けると、えるは少し離れた場所にある掃除用具倉庫の方へとまっすぐに向かって行った。
それにしても、えるは本当に手際がいい。
一度教えたことは必ず覚えるし、とにかく要領よく何でもこなしてくれる。
着いていけるか不安だった授業も卒なくこなしているし、紛うことなき天才肌というやつなのかもしれない。
「……あら? もしかして、紅条さん?」
なんて僕が感慨に耽っていると、背後からどこか聞き覚えのある声がした。
驚いて振り返ってみると、そこには、
「えっと、君は……ああ、確か―――」
「船橋ですわ。先日はお世話になりました」
「そうだった。ごめん、人の名前を覚えるの、どうも苦手でさ」
船橋灯里。
おさげ状に分けつつ、丁寧に編み込まれた黒髪が特徴的な少女。
蜜峰漓江が企てた生徒監禁事件―――香菜と共に倉庫に閉じ込められていた、もう一人の被害者だった。
「くすくす、でしたら今しっかりと覚えて下さいませ。紅条さんは、私や渋谷さんにとって恩人のようなものですから。是非ともお近付きになりたいですわ」
「いや、それは……大袈裟だよ。実際のところ僕はほとんどなにもしてないしね。摩咲や寮監さんの方がよっぽど上手くやったと思う」
僕が答えると、船橋さんは右手で髪をいじりながら、
「いえ、それでも……あの時、蜜峰さんの一番近くにいてくれたのは、紅条さんですから」
彼女は、どこか嬉しそうにそう言った。
「そっか、君は蜜峰さんの……あれ、その手どうしたの?」
右手をよく見ると、手のひらを包帯で巻かれているようだった。
「あっ、これは……その、先日の調理実習で」
指摘されて気付いたのか、船橋さんは右手を後ろに隠しながら、恥ずかしそうな表情でそう答える。
「ほむらさーん! モップ返してきました―――って……えっと、その……どちら様ですか?」
掃除用具倉庫から戻ってきたえるは、船橋さんを見ると少し驚いた表情をしながらそう言った。
「ああ、この人は船橋さんって言って……ええと、なんて言えばいいかな」
「―――黒月、さま?」
ぼそり、と。
船橋さんは、えるの顔を見た瞬間―――目を剥いてそう呟いた。
「え……あ、いや! 違うんだ。この子は三日月絵瑠って言って―――」
僕が慌てて弁明しようとすると、船橋さんはハッと我に帰るように、
「別人……そう、ですわよね。そんな筈はありませんもの」
「船橋さん……? もしかして、黒月夜羽って人のこと、何か知ってるの?」
「え……ええ。少しだけですけれど……そう、蜜峰さんからよくお話を聞いていましたの。同じ科学研究部員として尊敬できる人がいると」
科学研究部―――それは確か、蜜峰漓江が所属していた部活動の筈だ。
そこに、黒月夜羽もいたということか……?
「ええと……船橋さん、よければその話、もう少し詳しく―――」
「あ、いえ……ごめんなさい。私、そろそろお迎えが来る頃合いですので、行かないと」
「えっ、ああ……それは仕方ない。ごめんね、また今度」
「ええ、またいずれ。ごきげんよう、紅条さん。……ええと、三日月さんも。健やかにお過ごし下さいますよう」
「は、はい。ごきげんようです」
別れの挨拶を済ませると、船橋さんはその場からそそくさと立ち去って行った。
お迎えということは、彼女は自宅から通っているタイプのお嬢様ということだろう。
それにしても、ここにきて意外な共通点が発覚してきた。
黒月夜羽という少女に関して、僕はまだあまりにも知識不足だったが、あの蜜峰漓江と関係性があるとは思いもしなかった。
……いや、もしかして。
香菜は初めから気付いていたのではないか?
「ほむらさん?」
「あ、うん。そろそろ帰ろうか」
もしも、香菜がえるのことを黒月夜羽だと思い込んで行動を起こしたのだとしても、そこに蜜峰さんが関わってくるのはおかしな話だ。
だとすると、この二人の関係性は必然的―――初めから何かしらの接点があったのだ。
香菜は学院に通う生徒達のほとんどと交流を持っている。
そして、あの日―――朝の登校時、船橋さんと会って話していた時も、確かに科学研究部と蜜峰漓江の名前が出ていた。
その時点で香菜はなにかに勘付いていたんだ。
だからこそ、蜜峰さんの起こした事件に真っ先に飛び込んで行けたのだ。
ようやく、パズルのピースが集まり始める。
やはり、これまでの出来事の裏にはなにかが潜んでいる。それこそがすべての元凶ともいうべき存在であり―――
「黒月夜羽……か」
「ほむらさん?」
「あ、ごめん。なんでもないんだ」
黒月夜羽。
きっと、その少女こそが最後のピースなのかもしれない。
そして―――ミカエルと名乗ったこの少女が、黒月夜羽と瓜二つだというのは、本当に偶然なのだろうか。
本人は記憶喪失である、と主張した。
あの百瀬百合花も、それが真実だと太鼓判を押した。
もちろん僕自身、えるが嘘を吐いているとはまったく考えてはいない。
けれど、それでも。
この一連の騒動の中心にいるのが黒月夜羽なのだとすれば―――えるの存在もまた、必然的なものかもしれない。
そして、その存在こそがすべての―――
(いやいや。なにを考えてるんだ、僕は)
浅ましい思考を振り払う。
僕は誓ったはずだ、この少女を幸せにすると。
ならば、それこそが大切なことであり、一番優先すべきことのはずなんだ。
「ねえ、える」
「は、はい。なんですか?」
そうだ、守らなければ。
この無邪気で純粋な、掛け替えのない少女を。
「学院生活さ、楽しい?」
僕のそんな唐突な問いに、えるは目を丸くして、
「―――はい! とっても、楽しいです!」
満面の笑顔を浮かべて、そう答えたのだ。
「そっか、それならよかった。……うん、本当に」
ならば、迷いは捨てよう。
これからみんなで―――帰ってくる香菜も一緒に、あのヤンキー女もまあ加えてやってもいい。
ミカエルではなく、三日月絵瑠という少女と共に―――みんなで、幸せな学院生活を続けて行くんだ。




