回想/三日月絵瑠
何も覚えていない一年前のわたしが初めて体験したものは、紛れもない地獄そのものだった。
暗い。何も見えない。
意識が覚醒したことすら気付けないほどの暗闇、静寂。
ただ自分の発する息遣い、心臓の鼓動―――そういったものだけが唯一、これが現実なのだと教えてくれた。
そこに時計はなく、あっても目視できる状況ではなかった為、今となっては完全に体感でしかないが、思い返すと一日以上の時間を過ごしていたように思える。
時間にしておよそ二十四時間。
思考能力すらまともに機能していなかったのが功を奏したか、その時のわたしは、そういった環境下で長時間を過ごしていても発狂に至ることはなかった。
『ふむ。どうやら記憶の消去には成功しているみたいだね。まあ、元々あるかどうかも定かではない夢想の如き代物ではあるのだが』
音が聴こえる。
それは人の声であったが、その時のわたしは正常に認識することも難しく、ただ唐突に起きた聴覚の反応に新鮮さと驚きのようなものを得ていたと思う。
『それでは改めて挨拶を。おはようミカエルⅩⅢ。さっそくではあるが実験を始めよう。君は何も知らない。記憶を失っている状態という設定だ。まずは空っぽの脳に新たな記憶を与えるところからだね』
何を言っているのか理解はしなかった。
後々することにはなるのだが、少なくともこの時は不可能に近い状態であったのだ。
『その様子だと恐怖は感じていないか。普通の人間なら、こんな閉所に一日以上閉じ込められれば多少なりとも精神に異常をきたしてもおかしくはないのだがね。やはり、そういった感情は経験から生まれる訳か』
恐怖、という言葉の意味はわかる。
なぜかはしらないけれど、何も思い出せなくても人間としての基礎知識は根底に根付いているようだった。
『まずは聴覚だ。こうして話し掛けている事自体が実験とも言えるな。ああ、先に教えておこう。ここでの会話の中にある言葉は後々にテストの問題として選ばれるかもしれないから、しっかり覚えておくように』
言葉の意味を理解する為の知能が追いつかないまま、ただそれらの『音』を記憶する。
『次に嗅覚、触覚、味覚と順々に試していくからそのつもりで。そして最後に視覚だ。その暗闇にも意味があってね。一度に大量の情報を脳髄に与えてしまうとパニックに陥る可能性がある。だからこそ、こうして段階を踏んでいく、という訳だ』
感覚の知識はもちろんあった。
匂いにも種別があって、不快感となる『臭さ』にはちゃんと嫌悪感を抱けている。しかし、そういった反応を表に出すまでの行動力が欠如していたせいで、結果的に実験は長丁場となった。
それぞれのアプローチに対し、もう少しわかりやすい反応を見せていれば―――なんて今になれば後悔するけれど、記憶という自己の意思が失われた状態だったあの時の感情には、そんなことを行う必要性や理由なんて生まれる訳がなかった。
『空腹に対する不快感はあるが、それを訴えかける感情が乏しいのか。あくまで知識は存在しても、それを使って動かすだけの理性は生まれないと。記憶の有無、経験の差異とはこれほどのものか』
そうして、結果的にそんな実験は二週間に及んで行われた。
時間の感覚が麻痺していたものの、思い返せばそれくらいだったと今のわたしになら理解できる。
ただ、それは前座に過ぎなかった。
普通の人間ならとっくに発狂してしまうような閉所、暗闇での継続的な五感への刺激。それらが終わると、次の新たな実験が開始される。
痛みや快感、食欲や睡眠欲―――ありとあらゆる人間としての活動に基づいた様々な実験内容。
わたしに自由なんてものはおおよそ存在しない。
強いて言うなら、三ヶ月に亘って実施された図書室による読書期間は、それなりに様々な物語に思いを馳せることで現実から離れられた。まあ、結局のところそれすら実験の一環に過ぎなかったのだけれど。
一年間にも及ぶ数々の実験。
フィクションの物語上で生きている登場人物たちとは比べ物にならない、およそ人間に対する扱いとは思えない地獄の日々。
記憶のない状態で目覚めた時から現在に至るまで、わたしは幸か不幸か人並みの感情を次第に芽生えさせていった。
それが、結果として地獄からの脱走を夢見ることに繋がり―――
『ええと……大丈夫……?』
奇跡は起きた。
わたしは、確かに救われたのだ。
それこそが、わたし―――ミカエルⅩⅢとしてではなく、三日月絵瑠という名を貰った、本物の人間としての人生が始まった瞬間。
どれだけ感謝してもし足りない。
だからこそ、わたしを救ってくれた人達に最大限の親愛を。
この気持ちが、醜悪な実験の積み重ねによって培われてきた存在である自分が生み出したものだとしても。
そう思い抱くこの心だけは、紛うことなき純粋な感情であることを信じて。




