2話 喪ったもの
ベッドの上、未だ目覚めない少女。
早朝になって結局一睡もできなかった僕は、今日も今日とて学生としての本分を全うしなければならない。
彼女には悪いけれど、書き置きだけ残して登校の準備を済ませる。
もし僕のいない間に目覚めてしまっても、これを読んで貰えれば現状の理解には至るはずだ。
カバンを手に取って部屋から出る。
しっかりと鍵を掛けて、僕は寮を後にした。
◆◆◆
学生寮『茨薔薇の園』から徒歩約五分。
ここ一帯、『茨薔薇』と呼ばれる区域は百瀬財閥の私有地になっていて、僕の通う学校もその一部だ。
茨薔薇女学院。
その名の通り女の子だけが通う女子校であり、お金持ちのお嬢様ばかりが集う由緒正しき学院なのである。
「おっはよーぅ、ほむりゃん!!」
背中を思い切り叩かれながら、聴き慣れた声の持ち主が現れる。
「いったーーーい!? こら、急に人を思いっきり叩かないの!!」
僕がそんな大袈裟な反応をしながら振り返ると、そこにはやっぱり見慣れた顔があった。
いつも通り明るくて元気な、親友とも呼ぶべき少女がそこに立っている。
渋谷香菜。
小柄な体型に貧相な胸。茶髪をお団子みたいにふたつに纏めていて、とても同年代には見えない幼さの残る童顔。
ちなみに『ほむりゃん』というのは香菜だけが呼ぶ僕のあだ名である。
「お〜っ、今日もあたしが教えたメイクちゃんとやってんじゃ〜ん?」
「やらないと香菜が怒るから、仕方なくね」
香菜はこの学院に入学する前からの友人なのだが、常日頃から外見についてのダメ出しをされてきた。
幾度となく文句を言われ続けたので、つい最近になってようやく折れた僕が彼女に教わったのが基礎のメイク技術。
もうほんとにほんとの基礎らしいのだけど、僕はそんな事すら覚えていなかったのである。
「むーん。だってさぁ、素材は良いのに放ったらかしだし。あたし達だってこの学院の生徒なんだから、やっぱり舐められないようにしなくちゃ!」
「はは、なんだよそれ。舐められるだなんて……僕はともかく、香菜はあり得ないでしょ」
そう、あり得ない。
何故ならこの少女、こう見えて超名家の出なのだ。そして何より頭が良い。常に成績トップ3くらいに入っているほどである。
なんともまあ、見た目とは比例して中身や環境が恐ろしい人間だった。
「んー、まあそうかもだけどー。それ、ほむりゃんのおかげで差し引きゼロかも?」
「悪かったねえ、平凡が服を着たような人間で!」
「そこまで卑下しなくても良いじゃーん。こうしてあたしが一緒にいるんだしさ?」
「……はあ。まったく、どうして香菜みたいな人間が僕と仲良くしてるのか、いつになっても理解できない気がするよ」
わかりやすくため息をついて、僕は学院の門を通り抜ける。
この先は完全に生徒と教員のみが入ることを許される神聖な場所だ。実を言うと未だに場違いな気分になったりもする。
どうして僕がこんな学校に通うことになったのか、それは今の僕にはわからない。
「ごきげんよう。渋谷さん、紅条さん」
ふと見知らぬ生徒に声をかけられた。
いや、もしかしたら会った事があるかもしれないけれど、少なくとも僕の記憶に彼女の姿はない。
ただ単にうっかり忘れてしまっているのであれば申し訳ないのだけれど―――
「おはよ、船橋さん。今日もカワイイねぇ。あれ、なんか良い匂いする? もしかして香水変えた?」
「くすくす、ええ……解ります? この香水、私の友人が研究ついでにと製作したものでして」
香菜が話し始めたので、僕は出来る限りの笑顔を浮かべつつ、彼女の隣で無言のカカシに徹していた。
船橋と呼ばれた少女―――やはり見覚えはなかったけれど、見た目はとても綺麗なお嬢様風の少女だった。
背丈は僕や香菜よりひと回り高く、艷やかな黒髪をおさげにまとめていて、その物言いや立ち振る舞いからは気品のようのものを感じさせる。
「ふーん、凄いねぇ。あ、その友達ってもしかして蜜峰さん? あの子そういうの好きだよねぇ〜!」
「さすが渋谷さん、良くご存知ですね。彼女も一緒にご挨拶できればよかったのですけれど、なんでも今日はすごいニュースがあったみたいで。科学研の方達と朝から盛り上がっているみたい。私、入り込む隙間もありませんでした」
「すごいニュース?」
「ええと……確か、人間の脳がどうとか。渋谷さん、何かご存知ではありません?」
「あーそっち系かぁ、あたしそっちは疎いからなぁ。でも興味はあるからまた紹介してよ、色々話も聞いてみたいし!」
「くすくす。ええ、かしこまりました。相変わらず渋谷さんは好奇心旺盛ですね。それでは、本日も健やかにお過ごしなされますよう」
船橋と呼ばれていた少女はそう言いながら礼儀正しくお辞儀をして、優雅にこの場から去っていった。
それにしても、なんともまあコミュ力の高いことだ。
僕は素直に感心しながら、そんな彼女達の会話を見守っていたけれど、とてもあんな風には振舞える気がしない。
渋谷香菜は成績優秀というだけでなく、こういった『人との繋がり』がとても強い。
だからこそ好かれるし、彼女を嫌っている人間なんて恐らくこの学院には存在しないだろう。
すごいなと思う反面。
どうして僕なんだろう、という疑問はやっぱりある。
「ん? どうかした、ほむりゃん?」
女生徒と会話を終えた香菜が、その無邪気な視線をこちらに向けて言う。
別に後ろめたさを感じてるわけではない。
ただ、純粋に知りたくなった―――
「ああ、うん……なんでもないよ」
―――いや、思い出したいと思った。
それだけのことだった。