過去編 紅条穂邑/2
再び目を覚ますと、真っ白な天井があった。
「……? え、マジ……?」
なんと生きている。
すぐにでも鮮明に思い返せる、あの地獄のような炎の世界から生き延びたとでも言うのか。
「いやいや、ないない。アレ、夢だった?」
顔が引きつっているのが自分でもわかる。
もはや笑いすら込み上げて、よくわからない感情が暴れ回っていた。
身体を起こす。
その瞬間、全身という全身がひび割れるかのような衝撃が襲う。さらには激しい頭痛、そして目眩。思わず倒れそうになるが、なんとか踏みとどまる。
(ああ……いや、うん。これ、現実だ……)
白いベッドの上で白いシーツを被り、白い服を着て、極めつけには白一色の何もない部屋。
とにかく狭い。
窓はあるが白いカーテンで遮られている。外は明るそうだから夜ではなさそうだ。
記憶と状況を照らし合わせ、この場所がどこか推論を立ててみる。病院かなにか、救助されて保護されて治療を受けて安静にしていた、というところか。
(人は、いない。狭いし個室かな)
人の気配は感じない。
静寂。外から鳥のさえずりが聞こえてくるくらいで、本当に何もない。まるで異世界に迷い込んだみたいな。
(生き延びた、か)
別に死にたかったわけではないし、こうして五体満足に生きていることは喜ぶべきことだ。けれど、何故か腑に落ちない。あれはもう、いわゆる絶体絶命というやつだったと思うのだが。
(記憶は……うん、ある。あの炎に囲まれていた死の淵での記憶は、だけど)
自分が何者であるのかもわからないし、あの時より前の記憶も無い。あれが夢でないのなら、助かったとは言えど記憶喪失に変わりはないようである。
まあそれでも助けられたのなら身元も調べて貰えるだろうし、時間が立てばすっと思い出すこともあるかもだし、特に問題はないと思う。
自分でも気待ち悪いくらい冷静だったが、そんな自分を『案外こんなものか』と客観視さえしている。とにかく自分は自分でも他人のような気分だった。
(―――誰か、来る?)
ペタペタ、と、部屋の扉の向こうから足音が近付いてくるのが聴こえる。
丁度良い。タイミングばっちりだ。
「失礼しま―――ほ、ほむらちゃん……?」
扉を開いて入ってきたのは、背の小さな子供だった。
「意識、戻ったの!?」
「あ、うん。おかげさまで」
それは女の子だった。
お団子みたいな髪型で、学院の制服を着ていた。
(……ん、あれ。なんでこれが制服だってわかったんだろ?)
何故すぐ理解できたのかはわからない。恐らく知識として知っていたのだろうが、記憶喪失ではあるので当然、彼女が誰であるかまでは思い出せない。ただし。
「―――ほむら?」
私は訝しげな顔を作って見せて、その言葉を復唱する。
「え?」
目の前の少女は訳がわからないと言わんばかりの表情をしていた。
「ああ、なるほど。それが名前か」
淡々と。
事実を冷静に確認するように、私は呟く。
「どう言う、こと?」
たぶん、この時点で察したんだろう。
この女の子は見た目によらず頭が良いのかもしれない。いや、それだけではなく、私と歳も近いのかも。
「ごめん。単刀直入に言うけど、記憶喪失みたい」
事実を告げる。
その瞬間、女の子の顔がくしゃくしゃになって、息を呑む音がした。
「キミが誰なのか。それに、自分が何者なのか。今まで何をして生きてきたのか。なにもかも、全部。まったく、思い出せない」
そこまで言い終わる前に、女の子はその場でへたり込んで、
「そんなの、うそ……」
まるですべての気力を失ったかのように。
しばらくの間、ピクリとも動かなくなってしまった。
◆◆◆
時間が経つにつれて、平静を取り戻した女の子は、色々と聞きたかったことを教えてくれた。
まずは名前。
私が紅条穂邑であること。
彼女がその友達で渋谷香菜という名前であり、あの場から助け出してくれた命の恩人だということ。
どうやって助かったのか詳しくは聞けなかった。どうやら彼女も無我夢中だったのでよく覚えていないらしい。
あの場所は私の住んでいた家で、あそこに居たのは私と両親と香菜の四人。
事件が起きたのは深夜帯で、皆が寝静まっていた頃だという。
警察や消防隊の話によると放火事件ということで話が進んでいるらしく、放火を起こした物、犯人などは未だに見つかっていないとのこと。
助かったのは一階の自室で眠っていた私と、遊びに来ていた香菜の二人のみ。
両親は二階にいて脱出できないまま焼死体として発見された。眠ったまま死んだのか、或いは苦しみながら息絶えたか。今となってはもう確かめる術はない。
真っ先に放火に気付いたのは夜中にトイレに起きて出ていた香菜だった。
トイレで用を足している時に違和感に気付いたのだという。
彼女が容疑者にされなかった理由は、死にかけていた私を救出したその一点のみであり、今でも候補としては目をつけられているかもしれない。
とまあ、事の顛末はこんなところだ。
なんとも、親不孝ではあるのだが。
両親が死んだと言われた時、胸に飛来した感情は『無』そのものだった。
何も思い出せない以上、言い方は酷いが他人事だとしか感じられなかった。
それだけではない。
実家が全焼して帰るべき場所もなくなったのにまるで実感がないのだから、記憶喪失とは本当に恐ろしいものである。
これからどうするべきか。
何も覚えていないのだからどうしようもない。頼れる身内はいないが、なんでも香菜の祖母が大手グループの会長をやっているとのこと。
こうして病院に入院させて貰えているのもその人のおかげらしいので、もし会えたら感謝の言葉くらいは伝えたい。
「なんだか、変わったね」
香菜が寂しそうな顔で言う。
そんなことを言われても、以前の自分がわからないのだから仕方ない。
なんとなく今の自分を否定されたような気がして、反発精神が働いてしまう。
「思うんだよね。これ、本当に自分なのってさ」
「えっ?」
「こうして話している自分が、君の知っている紅条穂邑という人物である保証って、あるのかな?」
「やめてよ。それは……そんなこと、言わないで」
申し訳ないとは思うけど、これも偽りのない本心なのだ。
事実として、今の自分として意識すればするほど、どんどん違う何かになっていくような、不安というか、違和感―――?
「ごめん。でもさ、もう違うから」
「ほむらちゃん、それ以上は―――」
「違うんだよ。僕はほむらちゃんじゃない」
違うんだ。
だから、もう『私』ではない。
「僕は……って……ほんとに、ほむらちゃ―――」
「吐き気が、するんだよ。僕を……女として、見ないで欲しい。僕は、もう君の知っている紅条穂邑じゃない」
「―――それ。本気で、言ってるの?」
本来なら友達で、命の恩人であるはずの、なんの罪もなく悪意もない少女に対して、最低な行為であることは理解している。
それでも。
これ以上は、限界だった。
「ごめん。独りに、なりたいんだ」
突き放すように、冷たく、しっかりと。
―――『僕』は。
―――『私』を。
この瞬間から、破却した。