エピローグ
アイルランド共和国、首都ダブリン。
白いスーツに身を包み、サングラスをかけている男―――ジェームズはそんな祖国へと帰還していた。
日本からロサンゼルスを経由し、与えられていた職務を完遂させたジェームズは、アタッシュケースを握りしめ、とある研究施設へと足を踏み入れる。
それは『ヘヴンズ・ゲート計画』の中枢とも呼ぶべき場所であり、すべてはここから始まった。
三百人委員会というのはカムフラージュの名称だ。
実際にそんな組織など存在していないし、ジェームズの雇い主は別にある。
「おお、帰ったかいジェームズ。随分と長い海外旅行だったわね。日本はどうだった?」
そんな彼を出迎えたのは、一人の老婆。
齢七、八十はゆうに超えているであろうその女性は、車椅子に座りながら穏やかな笑みを浮かべている。
「ただいま、マザー。そうだな……何人か面白い人間には出会えたよ」
そう言いながら、ジェームズは手に持っていたアタッシュケースを老婆へと手渡した。
「ここに、天使の棺の設計図が入っている」
「そうかい。本当なら、設計者本人に来て貰いたかったのだけれどねえ」
「……紅条一希、か。ヤツの最後だけは高潔だったよ。くだらない妄執から解放された人間というものはああも潔くなるのだな」
ふう、と溜め息をつきながら、ジェームズは老婆に背を向けて施設の外へと歩み始める。
「ジェームズ? どこへ行くんだい?」
「煙草を吸いたくなったものでね。私の仕事はそれを貴女に渡した時点で完遂されたのだ、少しばかり一服させて頂くよ」
◆◆◆
施設の外へ出たジェームズは、胸ポケットから煙草を取り出して口に一本咥えてから、ライターのオイルが切れていたことを思い出す。
チッ、と舌打ちをしつつ、彼は煙草を手に仕舞おうとして―――
「ようやく見つけたわ」
声がした。
落ち着いた低い声、けれど間違いなく女性のもの―――それも、少女然とした澄み渡るような声色。
何より、それは日本語だった。
このアイルランドでは聞くこともないはずの言語。
「お前は―――」
長い黒髪を後ろで纏めたポニーテールを揺らしながら、凛とした表情で鋭い視線を向けてくる少女。
「黒月夜羽……貴様が何故、ここに……?」
「ロサンゼルスへ行ってからずっと貴方の行方を追っていたのよ。アイルランド首都ダブリン、ここが貴方の故郷なの? ジェームズ・モリアーティ」
少女―――黒月夜羽は不敵な笑みを浮かべながら、その手に握っている拳銃を片手で構えていた。
咄嗟にジェームズも胸元へと手を伸ばすが、
「動くな。それ以上動けば先にわたしの銃弾が貴方の眉間を撃ち抜くわ」
「……どういうつもりだ? 何故ここが……いや、そもそも貴様がどうして私のコードネームを?」
「さあ、それについて話す意味を感じられないわね。偽名だってことは解っていたけれど、よりにもよってモリアーティだなんて、ねえ?」
「何がおかしい。犯罪界のナポレオン、まさに私のような人間にピッタリの名前だろう」
「ふうん。それにしては、彼の大悪党に比べて随分と抜けているようだけれど?」
挑発するように、夜羽は空いたもう片方の手で服の内側から『なにか』を取り出す。
それはUSBメモリのような形状をした、ひとつの機器。
「なんだ、それは?」
「貴方が手に入れたと思い込んでいる天使の棺の設計図、その本物よ」
「なっ……―――」
夜羽はそれを地面に叩きつけ、ヒールで思い切り踏み潰す。
「これでもう二度と天使の棺は作り出されない。そして貴方達のアジトもこうして突き止めた。完全犯罪とはいかなかったみたいね、ミスター・モリアーティ?」
「き、貴様ァ……ッ!」
ジェームズは憤りを抑えきれず、胸元へと手を伸ばす。
だが、夜羽はそんな彼の隙を見逃しはしない。
―――銃声が鳴り響く。
正確に狙いを定められていたその弾丸は、ジェームズの右肩へと直撃した。
「っぐ、ぁ……―――!」
反動でよろめき、倒れ込むジェームズ。
すかさずに夜羽は彼の元へと駆け寄って、その身体を踏みつけるように抑え込んだ。
眼の前に突きつけられる銃口。
ジェームズはそれを睨みつけながら、観念したように左手を頭の上に置いた。
「……今の銃声で、中にいる同胞達が気付くだろう。私ひとりを抑え込んだところで、貴様に勝ちの目は無い」
「そうね。わたしだけだったならそうかもしれない」
強気な口調。
夜羽がそう言い放つと、彼女の周りを囲むように大勢の男達が集まった。
そして。
その中に混じる、異質な存在感を放っている一人の少女。
「白百合、第一陣……お願いしますわ!」
まるで妖精のように美しい銀髪を縦ロールに仕上げ、豪奢なドレスに身を包んだ少女―――百瀬百合花。
彼女の放った号令と共に、白百合と呼ばれるエージェント達が一斉に研究施設内部へと突入していく。
「はは……まさか百瀬百合花まで動いていたとは。年端も行かない女子供に出し抜かれてしまうなんてな……」
「終わりよ、ジェームズ。貴方との因縁、ここで断ち切らせて貰うわ」
茨薔薇女学院にて起きた騒動からおよそ一ヶ月。
黒月と百瀬の協力により、ヘヴンズ・ゲート計画はその根幹から完全に叩き潰されることになる―――
◆◆◆
黒月夜羽の記憶は完全に元に戻っていた。
天使の梯子を使用した事がキッカケとなったのか、はたまた自然治癒によるものか。
医師にも判別がつけられない、奇跡的な回復だったのだと言う。
記憶を取り戻した夜羽は、ロサンゼルスで起きた悲惨な戦いについても覚えていた。
天使の棺とリンクしていたミカエル・ナンバーⅠ―――三日月絵留の最期も、脳裏にしっかりと焼き付けていたのである。
しかしながら、彼女はそれで諦めるわけにはいかなかった。
事の真相を知り得る唯一の人間として、その責任を果たす為、彼女は単身でロサンゼルスへと飛んだのだ。
そうして真相を追い求め、百瀬百合花の力をも借りて―――すべての根幹となる地、アイルランドへと辿り着いたのである。
―――ヘヴンズ・ゲート計画。
それは才能を拡散させ、いわゆる超人と呼ばれる存在を科学的に生み出し、人類を次の世代へと進ませる為の扉となるべくして考案された計画。
超記憶症候群を持つ人間だけではなく、ゆくゆくは平凡な一般人ですらそれを可能にさせる為の実験だったが、天使の棺が破壊されたことによってそれらはすべて凍結となった。
非人道的であり、非現実的でもあるこの計画に、一部の研究者達は己の人生をも賭けようとしていたのだという。
だが、それらの夢は儚くも終焉を迎えた。
天使の棺をめぐる争いは、完全にその幕を閉じたのである。
◆◆◆
茨薔薇女学院、一階。
紅条穂邑はいつも通りに朝の支度をしつつ、三日月絵留の訪問を待っていた。
何気ない、平穏な日々。
かつて経験した事件、騒動が嘘だったかのような静けさ。
代わり映えのない学院生活―――けれど、それは何物にも代えがたい宝物のような時間であった。
ふと、インターホンの音が響き渡る。
穂邑は早歩きで玄関まで辿り着くと、いつもの調子で扉を開いた。
「―――おはよう、穂邑」
そこにいたのは、三日月絵留―――ではなく。
どこまでも似ているけれど、まったくの別人。
「え……もしかして、夜羽……?」
黒月夜羽。
穂邑にとっては百合花と同じく幼馴染であり、一ヶ月ほど前から入院して音信が途絶えていたはずの少女が、学院の制服を着てそこに佇んでいる。
「ずっと会いたかった。貴女が天使の棺を起動させて記憶を喪ったあの日から、ずっと」
「え……えっと、どうして夜羽が―――」
穂邑が抵抗する暇もなく、夜羽はその身を抱き寄せた。
ふわりと嗅ぎ慣れない甘い香りが漂い、それこそが正真正銘、彼女が三日月絵留ではないことを証明している。
穂邑が記憶を喪ってからというもの、これまでずっと黒月夜羽として接してきたのはあくまでその記憶を有していたミカエル・プロトタイプであり、一ヶ月前に出会った本物の黒月夜羽は記憶障害となっていたのだ。
だから、これが本当の再会。
かつて誓いを立てた少女が想い焦がれていた相手との、確かな邂逅―――
「よ、夜羽……あの、苦し……」
「わたし、ずっと貴女に謝らなくちゃいけなかった。本当はもう二度と会わないって決めたのに。それだけが心残りで……」
震えた声、嗚咽混じりの言葉を精一杯吐き出して。
「だからずっと、会いたかった……!」
誰よりも毅然な態度を貫いてきた少女が、涙を流しながら思いの丈を告白する。
「……うん。僕もさ、話したいこと……いっぱいあるんだ」
気付けば穂邑が抱き締める形になりながら、優しく囁くように言葉を返す。
そんな彼女の言葉に、夜羽は今度こそ―――
「ごめんなさい……ありがとう、穂邑……」
―――泣き崩れ、その身を委ねて。
ずっと抱え込んでいた想いを、やっと伝えることができたから。
虚ろな罪人は、無垢なる少女を救った。
決して犯した罪が赦されるわけではないけれど、それでもなお前へ進もうとする気持ちがあるならば―――
「もう大丈夫。大丈夫なんだよ、夜羽」
人は間違いを正すことのできる生き物だ。
どれだけ道を踏み外そうとも、前を向く意思さえあれば、自分だけの歩むべき道を見い出せるはずなのだから。
これは、そんな少女達が記憶を見つけ出す物語。
“失敗するのは人の常だが、失敗を悟りて挽回できる者が偉大なのだ”―――シャーロック・ホームズ