9話 無垢なる少女は眠りにつく
場所は国外、アメリカ合衆国カリフォルニア州にある大都市―――ロサンゼルス。
海外における百瀬財閥、その研究施設内部へ突撃するは五人の武装兵士達。
そのうち四人は天使の梯子を駆使し、その記憶を相互リンクさせることによって超常的な能力を発揮―――厳重な警備など物ともせず、勢いのままに研究施設を攻略していく。
彼女らのコードネームは『ミカエル』。
本来は実験体として搬入されるはずであったそれらは自我を持ち、反乱を起こしていたのである。
その中でもミカエルナンバーⅠは司令塔として別格の扱いを受けていた。
ナンバーⅡからⅤが意識の共有を行う突撃部隊であるならば、ナンバーⅠはそれらに指示を送る為の特別な個体。
―――その名を、三日月絵留。
天使の棺に保存されていた少女の記憶を移植された、唯一無二の個体であった。
そんな彼女達の侵攻だったが、やがて一人、もう一人とやられていく。
研究施設に配属されているエージェント達とて優秀なのだ。絵留自身、そう簡単に上手くいくとは思ってはいなかった。
彼女達の目的はただひとつ。
三百人委員会によるヘヴンズ・ゲート計画を頓挫させること。その為に、この研究施設のどこかにある天使の棺を処分することだ。
しかし、ひとつだけ問題点が残されていた。
装置を完全に破壊することは難しい―――計画に必要なのは天使の棺内に存在している数多の記憶データであり、それらをまとめて消去させることが作戦完遂への近道となる。
天使の棺の中に眠る三日月絵留の本体も含め、それらを破壊し、この狂った計画を阻止する―――最後の鍵となるべき存在。
『夜羽さん。やるべきことは解りますね?』
『ええ、もちろん。思い出したくもなかったけれど、天使の梯子を通して何もかも理解したわ。自分の記憶と一緒にね』
『ミカエルは残り二体。貴女は天使の棺に集中していて下さい。慣れてしまえばもう片方の意識もリアルタイムで共有できるでしょうけれど、外で奮戦している彼女は恐らくあと数分も持ちません』
『……いいのね、絵留。貴女の本体、もう死んではいるけれど……これを破壊してしまえば、今度こそ貴女は完全にこの世からいなくなる』
部屋中には死に絶えた研究員や警備員、エージェント達の骸が転がっている。
それらを冷めた目で見回しながら、絵留は乾いた声で呟く。
『……わたしは、罪を重ねすぎました。それに、本当のわたしはもうここにはいません。そうでしょう?』
彼女の言う『本当のわたし』とは、茨薔薇にいるミカエル・プロトタイプのことを指しているのだと、夜羽はすぐに気が付いた。
『そう。あの子は貴女を助けたい、って言っていたけれどね』
『それなら大丈夫です。わたしはこれで、本当の意味で助かるんですから―――』
夜羽はナンバーⅢの身体で天使の棺を操作する。
外には彼女達を守る為に戦っているナンバーⅤがいるものの、そちらに意識を回している余裕はない。
天使の梯子によって繋がっているこの意識、記憶も、いつまで保つか解らないのだ。
『ねえ、結局ヘヴンズ・ゲート計画って何だったの?』
手元を動かしながら、興味本位で夜羽は隣の絵留へと問いかける。
『天使の棺に眠る幾人もの記憶を利用し、天使の梯子を経由してそれらを世界中に送信する。これが成功すれば、誰しもが天才の頭脳を手にすることができる―――更に言えば、今の貴女のように、戦場で命を惜しまず戦う兵士と化すことも、できるかもしれない』
『馬鹿げた発想ね。というか、貴女は天使の梯子を使っていないの?』
『いいえ、使っていますよ。正確に言えば別物ですが。わたしと繋がるということは、天使の棺と直接繋がるってことですから。これは特製品です。わたしのこれは、天使の棺の中身をそのままリンクさせているんですよ』
『つまり……天使の棺を破壊したら、貴女も?』
そこで夜羽は気付く。
彼女は天使の棺、その中に眠る三日月絵留そのものなのだと言うこと。それを破壊すれば、彼女の意識すらも消えて無くなってしまうのだと。
『ミカエルの脳には記憶が残りますが……そうですね。結局、この身体も長くはありません。投薬はとうの昔に切れているので』
『……後戻りはできないってワケか。いいわ、それなら遠慮なくやってあげる』
そうして、夜羽は天使の棺を起動する。
その内に残るデータの消去―――そして、オーバーロードによる装置の爆破。
すべてがこの指ひとつで完了する。
そんな段階まで来た、その瞬間であった。
『ミカエルⅤが突破されました……! 早くっ、夜羽さん!!』
自動ドアが開き、向こう側から大勢のエージェント達が押し寄せる。
彼らは容赦なくその手に握っている銃を向けて―――
『いくわよ、絵留!』
銃声と同時に、夜羽の操作が完了する。
夜羽を守るようにして立ち塞がる絵留の身体は、たちまちに蜂の巣のように撃ち貫かれていく。
『くそっ、間に合わ―――』
追撃は終わらない。
エージェント達の銃口は、夜羽―――ミカエルナンバーⅢへと突き付けられて。
―――死の雨が、降り注ぐ。
消えゆく意識の中、最後に夜羽が聴いたものは、
『ありがとう、夜羽さん……―――』
もはや声すら出ることも敵わないはずだった少女の、最期の言葉であった。
◆◆◆
茨薔薇女学院にて起きた百瀬憂零の騒乱は、実の娘である百瀬アリカの手によって終焉を迎えた。
謎の男―――ジェームズによって撃たれた傷は致命傷となり、敢え無く帰らぬ人となってしまった憂零。
その後、帰還した百瀬百合花によって学院は纏め上げられ、生徒達はようやく自由と平穏を手にすることができたのであった。
一方、天使の梯子を使用した黒月夜羽は意識を失い、目覚めることなく病院へと搬送された。
それから彼女は完全に面会不能となり、穂邑や絵留ですら近付けない存在と化してしまった。
海外、ロサンゼルスでは百瀬財閥の研究施設が謎の集団によって大打撃を受けたという報道が為され、詳細は伏せられていたものの、それは暗にすべてが上手くいったのだと悟らせる吉報となった。
国内の百瀬財閥はトップを失った。
百瀬アリカが当主としてその座につくまでの三年間を埋める為、百瀬百合花が学院を卒業次第、その任を引き継ぐこととなり―――
「あたくしは百瀬アリカと申します。本日よりこの茨薔薇女学院へ通うこととなりました。宜しくお願い致しますね、皆さま」
アリカは百合花の許可を得て、茨薔薇女学院へと転入。
一年にして、次期生徒会長としての役割を期待される存在となっていた。
ミカエル・プロトタイプはというと、これまで通りに『三日月絵留』を名乗って学院生活を送っている。
結局、黒月夜羽は意識不明―――ロサンゼルスで起きた騒動についての詳細は解らないまま。
本物の三日月絵留がいったいどうなったのか、彼女はそれをまだ知らない。
けれど、それでも以前とは少し変わった部分もあった。
「おはようございます、ほむらさんっ」
「うん、おはよ。それじゃ学院に……って、ちょ!?」
「ふふっ、いいじゃないですか」
早朝の登校風景。
合流した穂邑の腕に自分の腕を絡ませて、絵留は笑顔を浮かべながら歩き始める。
あれから三日月絵留のメッセージは来ない。
きっと黒月夜羽がその身をかけてすべてを終わらせてくれたのだ、そう彼女は心の底から信じている。
だからこそ、気に病むのは終わりにした。
自分が何者なのか、それはまだ解らないけれど。
それでもきっと、自分だけにしかない歩むべき道があると―――
「行きましょう、ほむらさんっ!」
悩んで、悩んで、悩み抜いて。
いつかその答えを見つける為に、精一杯に今を生きて行こうと決めたのだ。
◆◆◆
とある日の放課後。
船橋灯里は、校舎裏の倉庫前にて渋谷香菜と顔を突き合わせていた。
「どうしたの、こんなところに呼び出して」
香菜は怪訝な表情をしつつ、呼び出した張本人である灯里へと問いかける。
「……ここ、覚えています?」
「うん。あの時の……蜜峰さんに閉じ込められた時の、倉庫だね」
ぎこちない空気が二人の間に漂う。
香菜にとって灯里は憎むべき相手だ。記憶を奪われ、この学院を陥れようとした存在―――そんな相手に対し、けれども香菜は敵意を剥き出しにはしなかった。
「今更、ではありますが。私は、渋谷さんに―――」
「あー、うん。なんとなく何が言いたいかは解るよ。でもさ、その……あたしは、もう怒ってないというか」
「え……?」
「色々見てきて、ちょっとは解ったよ。誰か一人だけが悪いなんてことはなくて、きっと皆それぞれが繋がりあってて……どこに責任があって、罪があるかなんて……そんなの、簡単に決められるもんじゃないってさ」
穂邑の記憶を奪うきっかけになったのは黒月夜羽であると踏んでいたが、その裏には天使の棺―――それを作り上げた紅条一樹がいて、そんな兄との因縁の元、穂邑が自ら記憶を消去したのが真相だった。
誰か一人が悪い、と決めつけることはできない。
アリカの一件もそうだし、今回の百瀬憂零の一件だってそうなのだ。
だからこそ、香菜は灯里を一方的に責める気にはなれなかった。
それに何より彼女は今回の事件では味方につき、穂邑達の役に立とうと努力してくれていたのだ。
「……ですが、それでは私の気が収まりません」
「うーん……それじゃあ、ほら」
そう言って、香菜は右手を差し出した。
「これまでの猫被ってたやつじゃなくてさ。ちゃんと仲良くなろうよ、あかりん」
「え……―――」
「あたし、この学院を卒業するまでに全校生徒全員と仲良くなるつもりだから」
「渋谷、さん……」
二人の手が、重なる。
それは香菜だけではなく、灯里にとっても大いなる一歩。
これまでずっと誰かの命令で動いてきた、猫被りな自分ではなく、本当の自分を受け入れてくれる友人―――蜜峰漓江だけではなく、そんな相手ができたこと。
それが、一番有り得ないとさえ思っていた人間―――渋谷香菜であるということに、心の底から感慨が込み上げてきて。
「ありがとう、ございます」
ずっと告げることのなかった他人への感謝の気持ちを―――その日、初めて彼女は口にしたのだった。
◆◆◆
茨薔薇の園、円卓の間。
定期的に行われている円卓会議を終え、それぞれが解散した後―――
「お姉さま、少しよろしいですか?」
百瀬財閥の当主代理として多忙となった百瀬百合花の代わりに円卓会議を取り仕切っていたアリカは、一息つきながら部屋へと戻り、リビングにあるソファで死んだように寝転がっている姉へと声をかけた。
「あー……なんですの、アリカ。今はちょっと、ゆっくりしたいのだけど……」
「本日の円卓会議で出た議題で、すぐにでもお姉さまの意見を頂きたいものがありまして―――」
真面目な妹と、だらけた姉。
普段では絶対に見られないような、二人だけの時間。
忙しくても、辛くても、どれだけ大変だとしても。
アリカにとってはこの時間こそが何よりも大切なひとときであり、ずっと求めていたものだった。
紅茶とお菓子を頂きながら過ごす至福の時。
昔とは違う、穏やかな姉との触れ合いが、アリカの心を癒やしていく。
「ねえ、お姉さま」
「なに?」
「あたくし、上手くできていますか?」
たわいのない、何気ない質問。
けれど、百合花はそんな妹へ慈愛の眼差しを向けながら答える。
「ええ、もちろん。貴女は自慢の妹よ、アリカ」
百瀬の娘として喪ったものは計り知れない。
両親は死去、百合花は百瀬財閥そのものを背負うこととなり、アリカもまた次期当主として研鑽の日々を過ごしている。
それでも決して辛いだけではなかった。
ずっと交わることのなかった姉妹が数々の困難を乗り越えて成長し、手を取り合うまでに至ったのだから。
そして何より、それぞれが本当に大切なものを見つけられたことも―――
「あ、そうですわ。ひとつ言い忘れていたことがあるのです、お姉さま」
「言い忘れていたこと?」
「あたくし、穂邑さまのことをお慕い申し上げておりますの」
「……、はい?」
「ですので、これからお姉さまとあたくしはライバル、ということになりますわね♡」
「ちょ、ちょっと待ってアリカ、それは―――!」
時にぶつかり合い、時に支え合いながら。
これからはきっと上手くやっていけると、心の底からそう思えたから。
彼女たちの未来は、これからも続いていくのだ。