8話 天使の梯子《エンジェル・ラダー》
紅条穂邑と三日月絵留は、学院内に残っていた船橋灯里を引き連れて、茨薔薇の園へと向かっていた。
謎の男―――ジェームズの残した言葉と、突然送られてきた本物の三日月絵留からのメッセージ。
それらを踏まえ、穂邑達が出した結論とは―――
『天使の梯子を使う、ですか……!?』
今から数分前。
絵留が灯里に対して告げたのは、彼女が残していた装置『天使の梯子』を起動させたいという要請だった。
黒月夢幻理の計画、その要である天使の梯子を起動させる為には、その計画に携わっていた人間―――すなわち、船橋灯里の協力が必要不可欠であったのだ。
『たった今、三日月絵留から新たなメッセージが届いたんです。『わたしとつながって』……この文章の意味、それはきっと天使の梯子を使えってことなんじゃないかって』
『なるほど。ですが、どうしてそんなことを?』
『あの男に聞いたんだ。天使の棺はロサンゼルスにある。えるが本当に天使の棺と共にあるのなら、このメッセージにだって重要な意味があるに違いない。ヘヴンズ・ゲート計画……何が起きるのかは解らないけど、僕達にできることはもうこれぐらいしかない……!』
そうして、穂邑と絵留の話を聞いた灯里は、共に天使の梯子の保管してある黒月夜羽の部屋―――茨薔薇の園へと向かうことになったのである。
茨薔薇女学院から走ること数分。
寮へ続く道、その端―――茨薔薇の敷地における入口付近から一台の車が現れる。
「な、なんだ……!?」
穂邑が驚いて足を止めると、その車から複数の人間が飛び出してきた。
「あれって……えっ、百合花さん!?」
それは濠野組の有する車であり、そこに乗り込んでいたのは頭領である濠野咲弥。
そして、彼女によって救い出された二人―――百瀬百合花と黒月夜羽であった。
「ああっ、丁度良いところに……! 紅条さん、絵留、船橋さんも!」
穂邑達の姿を捉えた百合花が、彼女達のもとへと駆け寄っていく。
「はぁ、はぁ……よ、夜羽が負傷しているのです。彼女の部屋に連れていき、適切な処置を行いたいのですが―――」
「夜羽って……ええっ!?」
咲弥に肩を貸される形で、車から出てきた夜羽がこちらへ視線を向ける。
穂邑、絵留、灯里―――それぞれがその痛々しい姿を目の当たりにし、目を丸くしながら驚愕を顕にしていた。
「ええと、わたし達も今から部屋に向かうところで―――」
「それなら丁度良いですわ。わたくし達も共に参りましょう。しかし、お母様や白百合達の姿が見えませんが……?」
「それならアリカ様がすべて解決なされました。ふふ……良き妹君をお持ちですね、百合花様」
灯里が自分のことのように誇らしげな口調でそう告げると、百合花は一息、安堵したような表情を見せる。
「そうですか、アリカが……それならば問題はありませんわね。では、今は夜羽を……!」
「わたし、手を貸してきます。ほむらさん、船橋さんは救急セットの用意をお願いします!」
「オッケー、任された!」
「ええ、了解です」
そうして、一同は無事に合流を果たした。
間もなくして茨薔薇は咲弥の引き連れてきた濠野組、総勢百名を超える構成員がすぐさま警備につくことになり、ようやく安寧を取り戻すこととなる―――
◆◆◆
茨薔薇の園、四階。
黒月夜羽の部屋へ集まった穂邑、絵留、灯里、百合花、夜羽。
灯里によって夜羽の足の怪我は適切な処置を施され、すっかり呼吸も安定してきた頃。
本来ならば安静にしていなければならないものの、夜羽本人の希望で彼女もまた話し合いの場に参加することとなった。
「―――天使の梯子を使う、ですって?」
テーブルを囲むようにして座る五人の少女。
その中央には、今すぐにでも起動できる状態にあるヘッドセット型の装置―――天使の梯子がある。
「天使の棺はロサンゼルスにある。ヘヴンズ・ゲート計画が始まるまで残り僅か。その状況下でえるからメッセージが来た。これが偶然とは思えないんだ」
「……ええと、ちょっと待って。さっき自己紹介して貰ったけど、三日月絵留は貴女……なのよね?」
夜羽が疑問を口にすると、絵留は少しぎこちない口調で返答する。
「わたしは、貴女や三日月絵留の偽物。クローンなんです。貴女達の記憶だけを持った、本来は有り得ない存在……」
「クローン……って、ええと……よく解らないけれど、ようするに他にも三日月絵留がいて、それがロサンゼルスにいるってこと?」
「そう捉えて貰えれば大丈夫です。わたしはその三日月絵留を助け出したい。彼女が意味のないメッセージを送ってくるはずがありません。だから、きっと最後の鍵はこの天使の梯子が握っている―――」
そういって、絵留は静かにテーブルの真ん中に置かれているそれを眺めていた。
今すぐにでも起動させたい、そんな感情がひしひしと伝わってくるほどの視線。
「しかし、これを起動させるということは、他の端末と繋がるということです。天使の梯子は使用者同士の記憶を共有し、それぞれにアップデートします。そして、それを使用できるのは超記憶症候群を持つ者だけ」
「……ええ。ですから、わたしが起動させます」
「一度起動してしまえば貴女の脳にどれだけの負担が掛かるか解りません。今回は特に、繋がる先に何が待っているのかすら未知数なのです。ミカエル達を通して直接その機能の一端を目の当たりにしてきた私だから解る。きっと、これを使えば貴女は二度と元の貴女には戻れない」
―――沈黙が訪れる。
既に二人分の記憶を所持しているミカエル・プロトタイプではあるが、これ以上新しい記憶を脳につぎ込めばどうなってしまうのか。
「それって、新しい記憶が足されてしまうからマズい、ってこと?」
理解しているのかそうではないのか、誰もが押し黙っている中、夜羽がそんな問いを投げかける。
「そう、ですわね。かといって普通の人間では起動させても意味がない。これを扱えるのは、絵留しか―――」
「いいわ。それ、わたしがやる」
あまりにも軽く、あっさりと。
夜羽は右手を挙げてそんなことを口にした。
「ちょ、ちょっと待って下さい。だって、これは……」
「貴女が偽物だとか、そういうのはよく解らない。わたし、記憶喪失だから。それに計画がどうとか天使の棺がどうとか、まったくもって理解できないけれど―――」
夜羽はあっけらんとした態度で、
「ようは色んな記憶がぶち込まれるからヤバいってことなんでしょう? そして超記憶症候群とかいう能力がないといけない。だったらさ、一日経ったら忘れるわたしの脳なら耐えられるんじゃないの?」
当然のように、そう言った。
「そ、それは……―――いや、そうなのかも……?」
「でも、本物の黒月夜羽がそんなこと……あまりに危険すぎます。それは、わたしが……クローンのわたしがやるべきで……」
「ねえ、絵留。貴女がクローンだとか、そんなのわたしには関係ないわよ。本物かどうかなんて自分ですら解らないんだし。それに、わたしがこうして記憶喪失になった意味……もしかしたら、この時の為だったんじゃないかって思うのよね」
「夜羽さん……でも、わたしは……!」
納得のいかない絵留ではあったが、夜羽の提案には理があった。
一日足らずの記憶しか保持できない状態である彼女であれば、天使の梯子を使っても、アップロードされた記憶ごと明日には消滅させられるかもしれない。
「ねえ、百合花。貴女はどう思う?」
夜羽は隣に座る百合花に向けて問いかける。
百合花は考え耽っている様子ではあったが、深く溜め息を吐いた後、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「……確かに、今の夜羽ならば可能かもしれませんわね」
「百合花さん……!?」
「絵留。わたくしはね、貴女のことを偽物だなんて考えていません。それはきっと、紅条さんや渋谷さん、他の皆さんだってそう思っているはずですわ」
「でも……わたしは……」
「うん……そうだね。僕も、夜羽に賭けてみたいと思う」
「ほむらさんまで……!」
気が付けば、全員の視線が絵留へと向けられている。
今、この場において頑なに否定し続けているのは彼女ただ一人のみ。
「……なんていうか、信じられないんですよ」
そうして、少女は語る。
自らの想い、その心の内を。
「わたしの中にある三日月絵留としての記憶と、黒月夜羽としての記憶。ずっと自分は自分だと信じ込んできた。けれど、やっぱりわたしは偽物で、二人とは違う……ただ、別の自分なんてものもいなくて。だから、貴女は……黒月夜羽は、絶対に黒月夜羽のままでいなくちゃいけないんです。そうじゃないと、わたしは自分の中にある黒月夜羽を捨てきれないから」
「……よく解らないけれど。だからって、貴女が犠牲になる理由にはならないと思うわよ?」
「解ってます。だからこれは、わたしの我儘で……三日月絵留も、黒月夜羽も、自分自身ではないっていう確証が欲しいだけなんです。そうじゃないと、いつまでだってわたしは自分を手に入れられないから」
「自分を、手に入れる……」
絵留の言葉に反応し、灯里がぼそりと呟く。
穂邑、百合花もまた、そんな彼女の想いを聞いて黙り込んでしまっていた。
「なんていうか、つまらない考え方してるわよね、貴女」
しかし、張り詰めた空気をぶち破るかのように、夜羽は平然とそんな台詞を吐き捨てた。
「それで自分が壊れてしまったら意味ないでしょう。感情論で物事を決めるのも時には大切だけれど、今は目の前に最善手が転がっているのよ?」
「それは……」
「ていうか、こんなの記憶がなくたって解るわよ。貴女はわたしじゃない。黒月夜羽はわたしひとりしかいないのだから」
絵留だけではなく、他の三人も夜羽のその言葉に目を見開いて啞然としている。
取るに足らない、どこまでも当たり前なこと。
それを記憶喪失の人間にぶつけられ、絵留は返す言葉を失っていた。
「今この場でベストを尽くせるのは貴女じゃない、わたしよ。正論をかざして殴りつけるのはあまり好きじゃないけれどね。ほら、いい加減に認めなさい」
夜羽の言葉はどこまでも純粋で、間違いがなくて。
それは自分の中にある黒月夜羽とは違う―――そう、絵留は確かに感じ取っていた。
……けれど。
例え記憶が無いとしても、彼女は他の誰でもなく黒月夜羽そのものであったのだ。
「―――……そうですね、解りました。貴女に託します、夜羽さん」
「ええ、任されたわ」
そうして、夜羽は装置を手にした。
灯里が傍へと寄ってその補助に回る中、隣に座る百合花が夜羽の手を握りしめる。
「今更、皆まで言うつもりはありません。宜しくお願いしますわ、夜羽」
「大丈夫だって。やっと貴女の役に立てるわね、百合花」
笑みを浮かべながら、頭にヘッドセットを装着する。
天使の梯子―――使用者同士の記憶を共有する装置を。
「装着、完了しました。あとは起動させるのみです」
「ありがと。ええと……ごめん、誰だっけ?」
「船橋灯里です。貴女とは……そうですね、悪友……とでも言えばいいでしょうか」
「ふうん。やっぱりそういう感じだったわけね、わたしって」
夜羽は目を閉じ、息を吸い込む。
「いいわ。やっちゃって、灯里」
「本当に……いいのですね?」
「もちろん。どうなるかは解らないけれど、まあ頑張ってみるわ」
灯里は少しだけ戸惑いつつも、周りを見回した後、深呼吸をして―――
「天使の梯子、起動します」
―――装置が動き出す。
その瞬間、閉じていた夜羽の瞼がカッと開かれる。
「あ……ぐ、ぁ……―――!」
突き刺さるような激痛が夜羽の脳髄へと襲いかかり、一瞬のうちに彼女の視界―――その記憶は、ここではない別の場所へと飛ばされていく。
歪む光景、滲む世界。
幾多もの色が、音が、何もかもが混ざり合い、五感のすべてが消え去り、新たな感触、感覚を獲得して、それもまた別のものに侵食されていきながら。
黒月夜羽そのものであり、けれどこの瞬間に黒月夜羽ではなくなった彼女の脳裏に浮かぶもの―――それは、
「―――……えますか、……さん……」
ふと、我が身のことのように思い出す。
自分が今、まさに死に絶えようとしていることを。
「聞こえていますか、夜羽さん」
そして、同時に。
死の淵にいる自分を見つめている、もうひとりの自分を見下ろしている自分の記憶もあり―――
「時間がありません。さあ、早く行きましょう」
そのどれもが同じ顔で、同じ記憶、意識を共有していることも。
隣で話しかけている少女もまた、自分と同じ存在であり、けれど違うものだということも。
何もかも、すべて。
一瞬のうち、刹那の間に理解してしまった。
「ぁ……う……」
息も絶え、今にも死にゆくであろう自分。
これにもう用はない、これは十分すぎるほど働いた。
だからもう眠らせてやろう―――そう思い、わたしは手に持っていたナイフでそれの喉元を切り裂いた。
「ぁ―――」
死んだ。
こうなればこれはただの肉塊だ。
これからの作戦において、残された同胞はあと三体。
「夜羽さん、ですよね?」
隣に立つ少女が聞く。
そう、わたしは黒月夜羽だ。
いや―――夜羽だった、が正しいけれど。
「ああ……頭、痛い。一人分の記憶が足されただけだっていうのに、これか……」
「仕方ないですよ。きっと、その痛みはあちら側にいる黒月夜羽のものでしょうから」
「……なるほどね。ちょっと意識がまだ朦朧としているみたい。天使の梯子を起動して、こっちとリンクしたまでは良いけれど……ええと、貴女は―――」
夜羽、もしくは夜羽であったモノは、隣の少女の姿をまじまじと眺める。
黒く長い髪、整った顔立ち、すらりと伸びた身体つき。
ああ、知っている。
それも当然だろう、彼女は―――
「こちらでは初めまして、ですね。わたしは三日月絵留。貴女を―――夜羽さんを、ここでずっと待っていたんです」