過去編 紅条穂邑/1
―――夢を見ていた。
僕こと紅条穂邑が思い出せる記憶の一番古いところへ潜っていく。
ある意味では、この僕という意識が生まれた時とも言える過去の出来事。
そう、それは。
紅条穂邑が、渋谷香菜に救われた日の記憶だ。
◆◆◆
目が覚めると、辺り一面に炎が上がっていた。
見覚えのない場所だ。
フローリングの地面、崩れかけている壁や天井にまみれ、際限なく炎が回っている。
暑い、とてつもなく熱い。赤黒い火の放つ熱気が今にも襲いかかってくるようだった。
……こんな場所で、何故?
私が何故こんなところで目を覚ましたのか、まったく理解が及ばない。
そもそもここがどこなのかもわからないし、なによりも―――
「え……いや、は……?」
思わず声を漏らす。
あまりにも困惑して気づかぬ内に独り言を呟いていたようだ。
(いやいや。ほんとに?)
すぐそこに迫りくる炎という名の死。
いつ焼け死んでしまってもおかしくないし、この時の自分は混乱のあまり気付いてさえいなかったが、まともに呼吸ができる環境ですら無くなっている。
(嘘でしょ。自分が誰か思い出せない)
半分パニックになってはいたが、それが記憶喪失であるということは即座に理解した。
理解はしたが、事態の解決になるわけではない。一旦それは置いておいて、この現状をなんとかしなければならない。
かといって、そう簡単になんとか出来るような状況ではなかった。
どうやら自分は女のようだが、女一人でこの状況をなんとかできるとは到底思えない。
本当に訳がわからない。
どうして私がこんな目に合わなきゃいけないんだ……?
疑問は怒りに変わり、怒りは諦めに変わり、諦めは失意に変わる。
もう、無理だ。
まさか私が記憶を失い、こうなった意味も理解できず、死ぬ理由も知らないまま、終わりを迎えることになるなんて。
もしかしたら、こうなってしまったのは自分の責任なのではないか―――なんて、なんの根拠もないネガティブな思考すら脳裏をよぎる。
今にも崩れ落ちそうな天井や壁。
恐らくどこかの屋内、焼け焦げて原型も留めていないが、この場所がこうなった理由はいったいなんだと言うのか。
他に誰かがいる気配も感じ取れない。
最初から誰もいなかったのか、それとも燃え尽きてしまったか、この空間がそれを感知させないのか―――それは定かではないけれど。
自分がここにこうしている理由。
まったくもって何も思い出せない私からすれば、こうなった原因は自分にあるとしか思えない。
(ああ。まあ、それなら仕方ないかな)
自分が原因であるというのなら、これは罰だ。
記憶がなくなってしまったことも、ひとりで孤独に死んでいくことも。
何もかもが因果応報なのだとすれば、ギリギリ納得できるかもしれない。
(まあ何も思い出せないし。未練とか、別にないかも)
そう思うと、何故か心が静かになった。
目を閉じると熱も感じなくなって、音も遠くなる。まるで時間がスローになる感覚。このまま死んでいく自分に与えられた、刹那の瞬間だろうか。
(どうせ死ぬんなら、今この瞬間を大切にしよう)
目を閉じたまま、思考を巡らせる。
どれだけ冷静になっても自分のことは思い出せない。いままで何をして生きてきたのか。名前も、年齢も。性別は感覚ですぐに理解できたけど、何か得体の知れない違和感があるのは事実だった。
(なんだろ。記憶なくなる前の私って、自分のこと、嫌いだったのかな?)
わからない。
思い出せないのだからわかるはすがないのだけど、違和感の正体として辻褄が合うとすれば。
たぶん、私は自分を女だと認めていない。
それがどういった経験からもたらされた感情であるかはわからない。けれど、何も覚えていない自分でも、呼吸の方法や言葉の意味が本能で理解できているのと一緒で、感覚としてわかってしまう。
きっと私は自分が許せない。
自分が許せないから、殺そうとしたんだ。
だって、そうじゃないと説明がつかない。
自分が女であると考えるたびに感じる嫌悪感、その正体を。
(何故かはわからないけど、気持ち悪いなあ)
別に女という性別に対する嫌悪ではない。自分がそうであるという事実に激しい苦悩のような何かを感じる。女として生まれてきたことに対する憎悪のようなもの。
(まるで他人事みたい。でも嫌なものは嫌だし、ほんっとに吐き気がしてくる)
きっと何かあったんだろうけど、生憎と今の自分は覚えていない。
もしかしたら、本能的な部分が無理やり記憶を消したのかもしれない。オカルトチックだけど、元の魂は無くなって、今の自分は空っぽなのかも。
(何もない。だから、怖くもない)
今まで積み重ねてきたもの。
これから積み重ねてゆくもの。
そういったパズルのピースがすべてごっそり消え去って、まっさらな自分がポツリと立っているだけ。
―――ああ、そうか。
こうなると、人は『死』に対して恐怖すらしなくなるのか。
もはや生きる理由もない。
記憶を思い出す為に生きる、なんて目的が発生するような状況でもない。
ただ願うなら、どうせなら苦しまずに死にたいなあ。
「―――、―――!」
五感がシャットアウトされ、思考も奈落の底へと落ちていく。
その間際。
人の声が聴こえたような、そんな気がした。