6話 それぞれの矜持を胸に
茨薔薇女学院。
早朝、白百合の警備が入れ替わる一瞬の隙をついて、僕達は学院内部へとそれぞれ潜入した。
僕―――紅条穂邑は一階部分。
船橋灯里と蜜峰漓江は三階にある科学研究室へ。
朝方の気が緩んだタイミングを見計らい、僕は一階の廊下を突き進む。
見張りはここを通らない、という情報はあらかじてアリカによって伝えられている。
目指すべきは保健室。
そこに、えるが閉じ込められているのだ。
(あった、あそこだ)
保健室の周辺に見張りはいない。
交代に要する時間は推定でも五分前後とのこと。
速やかにえるを救出し、見咎められることなくこの学院から抜け出さなくては。
扉の前へと辿り着く。
アリカから預かっていたスペアの鍵をポケットから取り出して、出来る限り音を立てないように差し込み、扉を開く。
「―――ほむら、さん?」
部屋の中を覗き込むと、中にはベッドの上で佇んでいるえるの姿があった。
「える……! よかった、無事みたいだね」
保健室の中へと入り、僕はえるの傍へと近寄っていく。
彼女は事を察したのだろう、立ち上がって戸惑いの視線を向けてくる。
「ほむらさん、どうしてこんな……危ないのに……」
「アリカちゃんが僕のところにきてさ。船橋さんとか蜜峰さんも集まって……みんなで、立ち向かおうって決めたんだ」
「で、でも……―――」
「話は後だ。今は早くここから逃げ出さなきゃ」
えるの手を取り、僕は来た道を戻るように踵を返して、
「―――やはりそういう魂胆か。黒月夜羽が動くのかと思いきや貴様だったか、紅条穂邑」
保健室、その唯一の出入り口である扉の向こう側から、一人の男が現れる。
「……お前、は」
その声、その姿。
そうだ、忘れるはずがない―――今、僕の目の前にいる男は、確かに一度出会っている。
「貴方は、あの時の……!」
僕の隣で立っているえるもまた、同じく。
それもそのはず、だって彼女にとってこの男は自分を殺した張本人なのだから。
「久しぶり、と言うべきか。あの時はまさか貴様が黒月夜羽のプロトタイプであるなどとは気付きもしなかったが。いや、今はミカエルⅩⅢとしての記憶を有しているのだったな」
男は嘲笑を抑え込むように、
「ああ、不思議な体験もあるものだ。死んだ記憶と、死んだ自分を見ていた記憶、そのふたつが同時に存在しているというのは、いったいどんな気分なんだ?」
胸元から、一丁の拳銃を取り出す。
それはあの時に見たものと同じ―――
「お前は……えるを、殺した……あの時の……!」
三日月絵留を殺した男達の一人。
僕やえるにとっては因縁の相手とも呼ぶべき存在が、そこにいる。
「……どうして、貴方がこんなところにいるんですか?」
「これが自分の仕事でね。まあ、今回は見届人というのが正確だ。安心するといい、この銃に残されている弾の用途はすでに決まっている」
言いながら、男は胸元にその拳銃を仕舞う。
危害は加えないということか―――いや、油断してはならない。決してこの男は信用できる相手などではないのだから。
「さて、紅条穂邑。ひとつだけ問わせて貰おうか。貴様は何故、無謀にも立ち向かおうとする?」
「決まってる。大切なものを守る為だ」
「守る、か。なるほど。そいつが黒月夜羽でも三日月絵留でもない、ただの作り物であるとしてもか?」
「えるを殺したお前に、何が解る……!」
僕はえるを庇うように前へと踏み出す。
そんな僕へ鋭い視線を向けながら、サングラスの男は淡々と言葉を続ける。
「解らないな。だからこそ問うている。まあ、答えられたところで理解するつもりもないがね」
「なんなんだよ……なんで、お前がここに……」
「百瀬憂零の計画、それの一旦に携わっているとだけ言っておこう。貴様達は知らんだろうが、その計画こそが我々の成すべき偉業の始まりとなるのだよ」
「計画だか偉業だかは知らない。でも、だからって何の関わりもない人達を巻き込んで……これが大人のやり方だって言うのか……!?」
「そうだ。モルモットはモルモットらしく黙って利用されていればいい。命が惜しくばな」
こいつは、異常だ。
百合花や夜羽の話では殺し屋ではないかという話だったが、その程度の存在だとも思えない。
百瀬憂零、三百人委員会―――そういった影の存在、それらに連なる何者か。
あの時えるを殺したのも、そういった計画の一旦であったのかもしれない。
情報が欲しい。
えるが殺されるに至った本当の理由、その真実が知りたい。
けれど、でも―――今はそれどころではないのだ。
「……ほむらさん。わたしが隙を作ります。そのうちに窓から逃げて下さい」
ぼそり、と。
えるが背後から耳打ちするように呟く。
「駄目だよ。それじゃあ、僕がここへ来た意味がない」
「でも……!」
「話し合いは済んだか? 残念だが、そこのプロトタイプを逃すわけにはいかない。紅条穂邑、お前だけなら―――いや、その目は諦めていないか。ふん……まったく、貴様のそれは命知らずの阿呆か、それとも勇猛果敢な戦士のものか。どちらにせよ、ここで終わりだ」
確かにこれは万事休す、と言えるだろう。
既に時間は五分を過ぎている。すぐさま白百合の人間が集い、僕達は捕らえられてしまうだろう。
どうすればいい?
どうすれば、僕達はここから無事に逃げ出すことができるんだ……?
『―――校内放送、校内放送。あたくしは百瀬アリカです』
その時、部屋に備え付けられたスピーカーから音声が流れる。
それは間違いなく、アリカの声色だった。
『あたくしはこれより母である百瀬憂零に反逆します。変革の鐘は鳴りました。しかし、それを破壊する為の計画が動いています』
「アリカちゃん……!? なんで、自分は動かないって……」
「ほう、なるほど。随分とせっかちなお嬢様だな」
アリカは百瀬の人間として、憂零の側につく素振りを貫くはずだった。
このタイミングでの敵対宣言―――それは、僕達の作戦には含まれていない。
『白百合の皆さん、貴方たちが成すべきことを見誤らないで下さいませ。百瀬財閥の次期当主として、あたくしはお母さまの計画を見過ごすわけには参りません』
「アリカさん……?」
「校内放送ということは放送室……二階だな。なるほど、そういう魂胆か」
「おい、どこに―――」
何かを察したかのように、男はこちらに背を向けて保健室を後にする。
『舞台は整いました。あたくしのすべきこと、守るべきものの為に……この地を争いの場にしてしまうことをお許し下さい、皆さま』
「争いって、どういう……?」
『百瀬アリカの名において、宣言します。全校生徒、寮に閉じ込められている皆さま。自由を取り戻す為に、立ち上がる時が来たのです!』
「まさか、アリカさん……!?」
この放送が届くのは校内だけではなく。
学院、寮―――この茨薔薇の敷地内、そのすべてに届いているとしたら。
『さあ、始めましょう。この茨薔薇を、貴女たちの矜持を守る為の戦いを―――!』
それは、僕達だけではない。
この学院に通う生徒達、勤める教員、そして―――もしかしたら、疑念を抱いているかもしれない白百合の者達でさえも。
立ち上がり、立ち向かう、その為の号令。
百瀬アリカという、一人の少女が放った決意の現れだった。
◆◆◆
茨薔薇の園、全階層。
それぞれの部屋から生徒達が飛び出し、警備の白百合達と争いながら寮の外へと繰り出して行く。
「みんな、あたしに着いてきて!」
先導するは渋谷香菜。
誰よりもこの学院の生徒達と交流し、あの生徒会長である百瀬百合花ですら敵わない信頼を獲得した、彼女でしか成し得ないこと。
そんな彼女がアリカに提案した作戦こそ、今回の騒動の発端―――
『恐らく白百合の人達はあたし達……特に生徒への危害を直接加えることはできないと思う。あくまで監視、軟禁に留めているだけで、生徒のプライバシー自体は侵害できない。だからこそ、そこに隙があると思うんだ』
アリカは香菜からの連絡を受け、彼女の提案に乗った。
『ですが、あたくしは何をすれば……?』
『アリカは皆を奮い立たせるだけでいい。お膳立てはあたしがしておく。安全性の伝達、作戦の説明。それはきっと、あたしにしかできないことだから』
そうして、香菜は生徒達全員にメッセージを送り、生徒達は彼女の言葉を半信半疑ながらも信用しようとした。
そこに百瀬財閥次期当主であるアリカの言葉が重なることで、皆の意思が固まったのだろう。
『あたくしは皆さまを陥れた張本人です。今更あたくしが何か言ったところでどうしようもないのでは……?』
『そうかもね。でも皆、心のどこかでは解ってると思うんだ。アリカだって背負っているものがあるんだってこと。一番じゃないからこそ解る、そういうものなんじゃないかな』
『ですが……』
『それに、今は皆にとって共通の敵がいるじゃん? 百瀬憂零……まあ、ゲームで言うところのラスボスみたいなものだと思えばさ。きっと、皆が立ち上がる為の最後の鍵はアリカが持ってると思うんだ』
そうして香菜とアリカの計画は始まった。
―――すべては、各々の守るべき矜持の為に。
◆◆◆
百瀬アリカは放送室から抜け出し、三階にある科学研究部室へとやってきた。
そこには予定通り、船橋灯里と蜜峰漓江の姿があった。
「―――……アリカ様! 先程のアレはいったいどういうおつもりなのです!?」
灯里は慌てた様子で、部屋にやってきたアリカに向けてそう問いかける。
「渋谷さんと立てた作戦ですわ。茨薔薇に滞在している生徒達には白百合が危害を加えることはない、という裏付けのもと、あくまでも彼女たちの自主性を尊重した反乱。ようは争議行為、ですわね」
「そんなことをして、もし間違って被害者が出てしまったらどうするのですか……!?」
「これはあたくしの命令ではありません。皆さまが己の意思で行うもの。つまり、それぞれの責任を自分自身で背負う戦い。覚悟のできていない者が立ち上がることはありませんからね」
「……侮っていたわけではありませんが、正直驚いています。なるほど、それが貴女の出した結論ですか」
「ええ、あたくしは百瀬の次期当主。そんな百瀬に縋っている者達であるからこそ、この地を……自由を取り戻す為に立ち上がるはずですわ」
そんなアリカの本心を灯里は見抜くことはできなかった。
ただ、それでもその決意を馬鹿にすることもなく、卑下するわけでもない。
それが彼女の選択であるなら、それを尊重する。
船橋灯里の生き方は、これまでずっと誰かの意思に従い、命じられたまま行動するものだったから。
「それなら、私も腹を括りましょうか。誰もが健やかに暮らしていける世界の為に」
「灯里ちゃん……アリカさん……」
そして、蜜峰漓江もまた決意する。
彼女もまたこの学院に対して背負うべきものがあるからこそ、立ち上がる為の理由があるのだから。
「茨薔薇の園から生徒達が押し寄せてきます。渋谷香菜が先導し、円卓の皆さまも全員が協力して下さる。他の誰でもない、自分の為の戦いです」
「そこから、百瀬憂零がどう出るか……それが問題ですね」
「……ええ。だからこそあたくしも動かねばなりません。反抗の意思を示した以上、先頭立ってお母さまに立ち向かうべき人間はあたくしなのですから」
戦いの火蓋は切って落とされた。
現時点で放送室にて流れている音声データが途切れたということは、すでに百瀬憂零によって手が回されているということに他ならない。
アリカは胸に手を当てて、激しく鼓動する心臓の音を感じながら目を閉じる。
(見ていて下さいませ、お姉さま。あたくしは……いえ、あたくし達は、きっと貴女の大切なものを取り戻してみせますわ)
誓いを立て、思いを馳せる。
それは彼女にとってただ一人、己のすべてを賭してでも守りたいと願った姉の為に起こした―――正真正銘、最後の反抗期だった。