6話 覚悟《プレパレド》
わたし、灯里、百合花の三人による同盟が結成されてから三日後の夜。
学業を終え、夕食を済ませたわたしは、なんとなく気が向いて四階にある大浴場へと向かっていた。
いつもは自室にあるシャワーで済ませてしまうのだけれど、開放感のある場所でストレスを発散させたい気分になったのだ。
「あれ、えるるんじゃん。珍しいね〜!」
大浴場の入口付近。
まさに今やってきたと言わんばかりな渋谷香菜がそこにいた。
「香菜さんもお風呂ですか?」
「そだよー。ほむりゃんも呼んでるんだけど……その様子だと、誘われたってわけじゃない感じー?」
「ほむらさんに、ですか? いえ、まったく」
完璧に偶然の一致だったので、わたしも内心驚きを隠せない。
というか、そもそもこの大浴場に穂邑が通っているという事実すら知らなかった。
「えるるん、全然ここ来ないよね? 夜羽は……まあ、入り浸ってたけどさ」
「そうですね、わたしとしてはあんまり。黒月夜羽としての記憶もあるので、新鮮味は無いですけどね」
「なんか、難しい状態だよねー。あたしは夜羽のこと未だに好きじゃないんだけど……でも、えるるんのことは好きなんだよねぇ」
「ふふ、嬉しいです。わたしも、香菜さんとはもっと仲良くなりたいなって思ってました」
実際、香菜が夜羽を許せないのは当然のことだと思う。
彼女はどこまでいっても紅条穂邑を最優先に考えているのだ。
三日月絵留として香菜と初めて会った時、彼女はわたしを夜羽だと思い込み、嫌悪感を顕にしていた。
しかし、その時の記憶は彼女にはない。
船橋灯里によって奪われた記憶を、未だに彼女は思い出せていないのだ。
「良かったぁ。ね、一緒にお風呂行こーよ!」
「あっ、はい。そうですね。ええと、ほむらさんは―――」
「待ち合わせ時間に遅れてくるようなバカちんはほっとこ! あたし、えるるんともっと話したいし〜!」
「ふふっ……わかりました」
普段はとても明るく振る舞い、誰からも嫌われることなく立ち回っている香菜。
けれど、その心の中にいるのは―――ただ一人。
紅条穂邑の為なら、きっと彼女は他のすべてすら切り捨てるだろう。
黒月夜羽でもあるわたしとしては、少しばかり複雑だけれど。
それでも、彼女が三日月絵留を好きになってくれたことは嬉しくて。
彼女や穂邑達が、平穏な学院生活を送れるように―――わたしは、記憶を喪ってしまった夜羽の分までケジメを付けなければならない―――
―――そう、改めて胸に刻み込んだ。
◆◆◆
茨薔薇の園、大浴場。
そこは室内でありながら広大な敷地をふんだんに利用し、さながら露天風呂のような雰囲気を醸し出している、文字通り特別な空間である。
本来、ここを利用できるのはレベル5の地位を持つ生徒のみ―――なのだが、権限を持つ生徒の『傍付き』である者であれば特別に利用することができる、というルールが存在する。
……というか、傍付きなんて制度自体が元々は無かったので、これは完全に後付けなのだが。
百瀬百合花が三日月絵留を傍付きにした事が発端であり、丁度そのタイミングで渋谷香菜が紅条穂邑を傍付きにしたことも重なり、結果として穂邑もまたその権利を手にしていたのだ。
かく言うわたしは黒月夜羽でもあり、三日月絵留でもある。
この学院には絵留として通っているので、地位は最低位のレベル1なのだが、百合花のお墨付きで彼女が入院している間は好きにしていいとのことなので、それに甘えている。
「なんかさー。髪切っても、やっぱりこうして見ると夜羽だなって思うよねぇ」
などと言いつつ、香菜が見ているのはわたしの裸体―――もとい、胸元だった。
「えっと……その、それは……」
「あーゴメンゴメン! 別に他意はないんだ」
「香菜さんも知っての通り、わたしは元々黒月夜羽のクローンですから」
一年前から今に至るまで、本物の黒月夜羽とは違う生活を送っている。
だから、今のわたしが夜羽とまったく同じであるとは言い難いけれど―――
「それに、この身体はつい最近まで黒月夜羽として接してきましたからね」
「なんかややこしいよねぇ。あたし、未だに信じきれてないのかも」
「それは……まあ、香菜さんの反応が普通なんじゃないですか?」
そもそも、クローンなんてあまりに現実離れしている存在だ。
それを何の違和感なく受け入れている穂邑や百合花がおかしいというか、どこかズレているとも言える。
「んー、まあとりあえず身体流そっか! あたし、背中洗ってあげる〜!」
「えっ……あ、はい。お願いします」
そうして、わたし達が互いに身体を洗い合っていると―――
「ごめん香菜、遅れ―――って、あれ……える?」
そこにようやく現れた紅条穂邑。
バスタオルひとつ無い、完全な真っ裸である。
「あ、ほむらさん。こんばんは」
「珍しいね、えるがここに来るなんて」
「……そういうほむらさんも、いつからここに来るようになったんですか?」
「あー、実は先週から―――」
「ほむりゃん、先週ここに初めて来た時からハマっちゃってさー。それから毎日」
「毎日って……ああ、だからいつも香菜さんの部屋に行くとか言ってたんですか」
ここ最近、あまり夜中に会える時間が無いなとは思っていたのだけれど、その謎がようやく解明された。
「……える?」
「なんでもありません」
「なんか、怒ってない?」
「ごめんねぇ、えるるん。ほむりゃんってこういうとこホントにダメダメだから……」
「いえ、大丈夫です」
「ちょ、え、二人ともなんなの〜〜〜!?」
―――とまあ、そんなこんなで。
遅れてきた穂邑をわたしと香菜でからかいながら、大浴場での賑やかな時間が過ぎ去っていくのであった。
◆◆◆
その日は結局、香菜に無理やり連れられて彼女の部屋で一夜を過ごした。
黒月夜羽としては昔にこうして三人でよく遊んだなと言う感慨深さもあり、三日月絵留としては慣れない女子会で楽しい気持ちもあり―――自分自身、どちらが本当の感情なのか判断ができないまま。
二人の仲を邪魔するつもりはないし、いつもは遠慮していたけれど、こうして集まって共に過ごしてみるとそれが余計な気遣いだったと実感する。
女の子同士で何をそこまで気にすることがあったのか、と反省しつつ。
過去の記憶を取り戻した穂邑は、誰よりも香菜を大切にすると思っていたのだが、彼女は三日月絵留という存在のこともとても大切に想っている―――そう確信させられた。
だからこそ、話すわけにはいかない。
きっと穂邑はあの事を知れば『自分も戦う』と手を挙げるだろうから。
百合花の退院まで残り四日。
百瀬の闇を暴き、三日月絵留を救い出して。
すべてが終わった時に、今度こそ紅条穂邑は三日月絵留と再会するのだ。
それはわたしのような紛い物ではない。
黒月夜羽だって、きっとそのうち記憶を取り戻す。
その時に夜羽を名乗るべきなのはわたしではなく、今は病院にいる彼女の役割だから。
―――そうやって、きっと。
わたしは、他の誰でもない『わたし』になるんだ。
◆◆◆
早朝、一番に目が覚めたのは香菜のようだった。
客間に布団を敷いて三人で眠っていたのだけれど、起きた時には彼女の姿はなく、幸せそうな寝顔で眠っている穂邑がいるだけだったから。
なんというか、無防備すぎて唇のひとつでも奪ってやろうかとすら思ってしまう。
これは間違いなく黒月夜羽としてのガワが強く出てきてしまっている。
絵留なら、こういう時―――
「ほむらさん……」
正直に言ってしまうと、絵留としても穂邑の事は好きだ。
恋愛対象……とかではない気がするけれど、香菜に嫉妬してしまうこの気持ちが、夜羽のものだけとは思えない。
というか、そもそも夜羽の場合は嫉妬とかしないと思う。
今までわたしは夜羽だから、なんて言い訳をしてきたけれど、きっと絵留としても穂邑の事を欲しがってしまっている。
百合花に残り一ヶ月と余命宣告を受けた時のあの気持ちは、未だに心の中で燻っているのだ。
「わたし……本当は、こんなに……」
顔を近付けてみる。
すうすう、と整った寝息が聴こえてきた。
記憶を取り戻してから、彼女は特別変わることはなかった。
しいて言えば、女の子らしさが少しだけ増したかな、といったところ。
言葉遣いも意識的に変えないようにしているというか、記憶が戻ったところで自分は自分、というのを強く意識しているように思える。
それでも、わたしには解る。
夜羽だからでもなく、絵留だからでもなく。
そのどちらもであるからこそ、わたしだからこそ解ることもあるのだ。
「ん……」
髪を切ったのは、わたしがわたしであると主張したかったから。
穂邑がショートカットにしたのを見て、真似しようと思ったわけじゃないけれど―――なんというか、心境的には似ているような気がしている。
新しい自分を受け入れて、これから生きていくという決意。
穂邑もまた、ふたつの自分をひとつに纏め、その上でどうするかを選んだのだから。
「起きないんだったら……キス、しちゃいますよ?」
唇を近付けて、まったく目覚める気配のない少女の鼻先に自分のそれをすり合わせる。
(ああ……やっぱり、わたし―――)
すんでのところで、止める。
わたしは、穂邑にとって三日月絵留の代わりなのに。
彼女にとってわたしが絵留であるなら、本当の絵留はどんな気持ちになるだろう……?
(かなわない、なぁ)
夜羽でも絵留でもなく、わたしが自分を手に入れられた時、それでも穂邑を好きだと思えたなら。
(その時はきっと、素直になれるといいな……)
自嘲気味に笑って、わたしは顔を離そうとした―――その時。
「二人ともっ、大変だよ!!!」
勢いよく寝室の扉を開き、切羽詰まったように声を張り上げたのは他の誰でもない、香菜であった。
「……えるるん、何してんの?」
「あっいえ、これはその―――」
「ん……あれ……もう朝……?」
完全に寝込みを襲おうとしているポージングだったわたしと、香菜の声でようやく目を覚ました穂邑。
そんな光景を見て、一瞬固まってしまった香菜であったが―――
「ってか、それどころじゃないんだって!!」
「な、何かあったんですか……?」
「香菜、ちょっと……起きたばっかで頭いた……」
その表情には、冗談など返せるような余裕の色は完全に失われていて。
「ほむりゃん……あのね、落ち着いて聞いて」
「いや……うん……なに……?」
香菜は、穂邑の目を見て―――
「今朝のニュースで、報道されてて。同姓同名なだけかと思ってさ、調べてみたんだけど……」
―――信じられない事実を、口にする。
「紅条一希……ほむりゃんの、お兄さん。間違いない、本人だった」
「え……?」
「マンションの自室で、死体が発見されたって……自殺だろうって。ニュースに……なってた」
「……兄さん、が?」
「ちょっと待って下さい、香菜さん。それっていつの話―――」
紅条一希が死んだ?
それも自殺だなんて……つい最近、わたしは彼と会ったばかりだというのに。
「発見されたのは昨日の夜で……死亡推定時刻は、三日前の深夜頃……らしい」
「兄さんが死んだ? なんで……?」
「そんな……わたし……いえ、でも……」
三日前ということは、わたしが会った次の日ということになる。
確かに無気力ではあったけれど、自殺するほど病んでいたとはあまり思えない印象だったと思う。
「あたしも、これ以上は……」
「自殺って……なんで……?」
穂邑は兄である一希を恨んでいた。
未遂ではあるものの、自分の手で殺そうとしていたくらいなのだ。
それでも、実際にこうして死んだと知るのは衝撃的で……困惑しているのだろう。
―――彼が、自殺?
本当に……そうなのだろうか?
「ほむらさん……」
もしも、わたしがあの日会いに行かなければ、彼は死ぬこともなかったのだろうか。
自殺なんてのは嘘っぱちで、本当は何者かに殺されたのかもしれない。
となれば、その理由は明白だ。
彼は本来喋ってはならないことを吐いたのだ。
三百人委員会、百瀬憂零―――そんな言葉が脳裏に浮かび上がってくる。
「……いや、うん。大丈夫だよ。ちょっと驚いたけど、別にあの人がどうなったって、僕は……」
「ほむりゃん……」
他言無用、と彼は言っていた。
それがどれだけの意味を持つのか、わたしはその言葉を軽く見過ぎていたのではないか?
もしも、想像通りの事態だとすれば―――情報を共有した灯里や百合花、そしてわたし自身にも危険が迫っているかもしれない。
「……えるるん、どうしたの?」
「―――えっ?」
「思いつめたような……さっきから、何かに気が付いたみたいな顔してる」
「そ、そんなことは……」
この渋谷香菜という少女はとても敏い。
彼女に隠し事をするのは難しいが、それでもこればかりは話すわけにもいかない内容だ。
「えるるん……ううん、夜羽に聞くよ。何か心当たりでもあるんじゃないの?」
語気の強い、確信めいた口調。
言い逃れしようにも、上手い言葉が浮かばない。
「える……?」
―――本当は、巻き込みたくなんてなかった。
けれど、これ以上は駄目だ。
穂邑の兄である一希を巻き込んだのは紛れもなくわたし自身であり、それを彼女に隠し通すなんてことは出来ない。
だって、偶然にしては出来すぎている。
間違いなく紅条一希の死の要因はわたしも含まれているはずなのだ。
「もしかすると……わたしが、関係しているかもしれません」
「ど、どういうこと……?」
だから、これはケジメだ。
独りよがりで話すまいと決めていたけれど、きっと穂邑は知るべきで、こうなってしまった以上は無関係とは言えなくなってしまったから。
「これから話すことは、絶対に誰にも言わないで下さい」
覚悟を決める。
わたし達の戦いに彼女を巻き込んでしまう、その責任を負う―――大きな、覚悟を。