3話 自我《エゴイスト》
わたしは灯里を連れて一階にある自室へと移動した。
その理由はただひとつ。
天使の梯子―――エンジェル・ラダーについて、現物を手にした状態で灯里から話を聞く為である。
「天使の梯子……まだ保管してあったのですね」
「はい。こんな小さな装置で記憶を通信できるだなんて、未だに信じられませんけど」
「その様子だと、貴女はまだ使ってはいないんですね?」
「それは勿論……実際、使い方もまったく知らないので」
ヘッドセットなのだから頭に装着するのであろうことは想像に難くない。
しかし、この機器には小型爆弾も搭載されているはずだ。普段はドライアイスの入ったクーラーボックスの中に厳重にしまい込んでいるので、突然爆発したりはしないだろうが―――
「黒月夜羽の持つ特性……超記憶症候群。あらゆる記憶を瞬時に、正確に思い返す事のできる能力。この天使の梯子を使う為には、それが前提となってきます」
「天使の棺によって記憶をインプットできるかどうか……それと似たようなものですね?」
「ええ、基本的には同じ原理ですから。普通の人間が他人の記憶を脳に書き込まれたとしても、それを想起し得る引き金……いわばトリガーとなる情報が無く、そもそも引き出す事すら出来ません」
「だからこそわたしを欲した、と。更に言えば、ミカエルシリーズを生み出した理由も本来はそこに帰結する……。天使の梯子がそれと同じなのだとすれば、わたしなら扱えると言う事ですよね?」
わたしと灯里の持ち得る情報は概ね同じものだった。
あとは、この装置の扱い方と―――何よりも、わたしにこの装置を手渡したミカエル達の真意を確かめたい。
「それは、そうですが。もうミカエルシリーズは全て廃棄されましたし、エンジェル・ラダー計画だって……」
「終わった、と思いますか? あのメッセージを見ても?」
「それは……―――」
灯里は困惑している様子だった。
それも仕方がない―――血の繋がりがないとはいえ、育ての親があんな悲惨な死に方をしたのだから。
その結果として、エンジェル・ラダー計画は頓挫したはずだし、彼女もそれ以上の情報は持ち得ないのだろう。
「黒月夢幻理が主導して計画を進めていたとして、ミカエル達が反旗を翻したのは確かです。けれど、彼女達がそうする理由についてはわたしも、貴女だって解らない……そうですよね?」
「……そうですね。自我なんて、天使の梯子がなければろくに持てないような人形―――ああ、いえ、この言い方は貴女にも失礼ですが―――そんなミカエル達が、まさか主とも呼ぶべき相手を殺害するだなんて……」
「別に気にしませんから大丈夫ですよ。わたしだって貴女の事情に土足で踏み込んでいるんですから。手を組むと決めた以上、遠慮はなし。腹を割って話しましょう」
「―――……ふふっ、そうですか。なんというか、やっぱりどこまでいっても貴女は三日月絵留であり、黒月夜羽なのですね」
そこで、口元を緩ませて笑う灯里。
これまでに見たことのない、彼女の人間らしい表情。
「わかりました。私も隠し事はしないと約束します。まあ、と言っても本当にミカエル達の真意については理解が及びませんけれど」
「命令系統のない人形が自我を持ち、牙を剥いた……普通なら有り得ない行動です。わたしは、そこに裏があるんじゃないかって思ってます」
「……つまり、お母様を殺したのはミカエル達の意思ではない、と?」
「黒月夢幻理が計画の主導者であったのだとして、それを殺す理由―――つまり、他の者が計画を乗っ取ろうとしたとすれば?」
「まさか……いえ、でもそうだとすれば……」
辻褄は合う、と頷く灯里。
こんなものはあくまで想像でしかないが、それ以外に整合性の取れるような理由も浮かばない。
ミカエルシリーズはもういない。
本当に、そうなのだろうか?
わたし達は、誰一人として本当に彼女達が全て死に絶えてしまったのかを確認しているわけではない。
警察が事件を解決した―――倉敷八代が裏を取って、その事実が公になったものと変わりないと知っている。
けれど、それすら偽りである可能性はある。
警察すらも欺いた、何よりも上手な影の存在がいるとすれば―――
「三日月さん。貴女は、天使の梯子を使うつもりなのですか?」
「そうですね、使うことで何か手掛かりを得られるのであれば」
「……いくら貴女が既に二人分の記憶を所持し、それに耐えうる精神性を獲得していたのだとしても、ミカエルシリーズ達―――いえ、今となっては何と繋がるかも不明なそれを使うのは……あまりオススメは出来ませんわね」
「わたしの予想では、恐らくこれは鍵だと思います。突然送られてきた三日月絵留のメッセージ……これが始まりの合図だとすれば、無関係だとは思えないから」
かと言って、安易に装置を使うつもりもない。
リスクに見合うリターンを得られる保証が欲しい。その為に船橋灯里の手を借りるのだ。
「とにかく、今すぐに何か行動を起こすのは早計だと思いますわ。関係者……少なくとも、百瀬百合花と百瀬アリカ、黒月夜羽辺りには助力を求めるのが賢明でしょう」
「百合花さんとアリカはともかく、夜羽は……」
記憶障害になった彼女では何の役にも立たないだろう。
今の彼女は大人しく病室で療養に励むべきだ。
「そうでしたね。あの人は……でも、貴女なら彼女の代わりになれる。黒月夜羽として行動したところで、誰にも勘付かれることはないでしょう」
「立場だけを利用する、と?」
「使える手は全て使う。それぐらいの気概は必要だと、私は思いますけれど」
「……そう、ですね。灯里さんの言う事はもっともです。わたし……いえ、三日月絵留が助けを求めた相手だって、元はといえば黒月夜羽ですから」
それでも、今のわたしは偽物で。
この世にはいないはずの三日月絵留はまだしも、未だ生きている黒月夜羽を騙るのは気が引けてしまうのも確かなのだけれど。
「裏で色々と暗躍していた私が言うべきではないかもしれませんが、黒月夜羽に対して貴女が真摯に向き合う必要はないと思います」
「……わたしを、利用していたから?」
「ええ、それもあります。何よりあの方は、貴女を含めミカエルシリーズ全てを道具としてしか見ていなかった。三日月絵留を逃した貴女とは違い、三日月絵留を処分しようとしたのもあの方ですから」
「わたしが殺された理由……ですか」
何度も感じていた事ではあるけれど、わたしは自分で自分を逃し、救い、その最期を看取った記憶がある。
そして、結果的にそれらの黒幕は他の誰でもない自分自身―――その元となる人間、黒月夜羽であったのだ。
「わたしが本物の三日月絵留だったら、もしかしたら恨んだかもしれません。でも、わたしはあくまでミカエル・プロトタイプです。夜羽でも絵留でもない。ただ彼女達の想いを、過去を知っているだけの他人だから」
「……もしも三日月絵留が生きていたら、貴女はどうするつもりなのですか?」
「それは……―――」
本音を言えば、生きていて欲しい。
だって、そうすればわたしは他の誰でもない『自分』になれる気がするから。
黒月夜羽の事だってそうだ。
彼女と会って、話して、自分が黒月夜羽ではないのだという確証が欲しかった。
自分に宿るこの記憶はただの記録でしかなくて、決してわたし自身が体験したものではないと。
だというのに、よりにもよって彼女自身が記憶を喪ってしまった。
「殺して欲しいだなんて……わたしが一番考えないような、そんな思いをするほどの何か……それがいったい何なのかは解りませんが、異常だって言うことだけは解ります」
「私達の知り得ない別の何かが動いているとしても、三日月絵留が助けを求めているのだとしても……貴女は見て見ぬ振りをすることだって出来るのですよ?」
「それでもです。きっと、わたしにしか出来ない事があるはずだから」
「黒月夜羽でも、三日月絵留でもない。貴女が自分でそう思うのなら尚更、貴女に責任なんてありはしないのに?」
「ええ、もちろん」
責任感で動いているのとは違う。
これは他の誰でもない、自分自身の為の行動に過ぎない。
夜羽の見舞いに定期的に向かっているのと同じように、自分を自分で確かめる為の。
「ミカエルシリーズが本当に全ていなくなったのか、それについては真実は闇の中。ですが、確実に言える事がひとつだけ存在していますわ」
「……と、言うと?」
「貴女がこうして生きている。もしも計画を奪い取り、何かを企んでいる者がいるとして……それが必要としているもの、それが貴女自身である可能性は限りなく高いでしょうね」
「だから、下手に動くのはかえって危険だと?」
「端的に言えばそうです。それでもやる、と言うのであれば止めはしませんが。その覚悟は……まあ、聞くまでもないでしょうけれどね」
灯里は理解した上で忠告しているのだろう。
確かにミカエルシリーズが居ない、というのは間違いだった。
わたし自身が生き残っている以上、計画は進行し得ると言う事なのだろう。
「当然、万全を期した状態で挑むつもりです。だから貴女にこうして―――」
「ええ、解ってますわ。ごめんなさい、つい口を出してしまうのは私の悪い癖で。少しでも気になる事があると、どうしても……ね」
「ふうん……策士というかなんというか。さっきのあんな姿を見せられてなかったら完璧だったんですけどね」
「あ、あれは忘れて下さい……っ!」
などと、軽口が叩ける程度には話し慣れてきた。
敵にすると厄介で、何を考えているのかもよく解らなかった相手だが、こうして接してみれば彼女だって普通の女の子なのだ。
「……もう。いつもあんな事、してるわけではないですから」
「蜜峰さんは……その、わたしも知らなかったんですけど、二重人格……なんですよね?」
「らしいですわね。私も最近までは知りませんでしたし。彼女が研究しているものは、黒月夜羽の為……記憶を部分的に消す為の刺激を生むもの。それのひとつが性的欲求……その結果として生まれたのが媚薬であっただけです」
「普段の彼女とは思えないほどの性格でした。今のわたしともまた違う変貌の仕方……百合花さんは天使の棺によって別の記憶を植え付けられたんじゃないかと疑っていましたけど、蜜峰漓江は一般人。超記憶症候群の持ち得ない人間が、二人分の記憶を持てるかどうかは……」
「それを言えば、紅条穂邑もそうなのでは?」
「彼女は空の記憶を無理やり脳にインプットして、その結果として元の記憶領域が深層心理の底に沈んでしまっただけで―――」
そこまで言って、思い出す。
そもそも天使の棺の目的は記憶を保存することではなかった。それをそう利用しようとしたのは何故だったか。
「記憶の保存……死ぬ前の自分、走馬灯……か」
「えっ?」
わたしの呟きに、灯里はポカンとした表情で聞き返す。
「昔に、そう言っていた人がいたのを思い出したんですよ。ああ、これは黒月夜羽としての記憶なんですけど」
「それは……?」
「紅条穂邑の兄であり、黒月の研究にその身を捧げていた脳科学の天才。天使の棺を完成に導いた、元所長―――紅条一希」
「……ああ、彼ですか。それが何か?」
黒月夜羽は彼に依存していた。
自分の特異な性質を忌み嫌い、忘れられない記憶を捨てたいと願ったわたしの―――
「天使の棺……三日月絵留……保存された記憶……」
そこで、思考のパズルがかちりと合う。
もしかすれば、彼なら何か知っているかもしれない。
「灯里さん。明日の放課後、少し付き合ってくれませんか?」
「え……付き合うって……」
「少し、行きたいところができたので」
正直に言えば彼に頼るのは気が引ける。
わたしの親愛する紅条穂邑にとって忌むべき男であり、舞台から降りたとは言え、彼は未だに妄念に囚われたままだろうから。
それでも。
敢えて、灯里の言葉を借りるなら―――
「使える手は全て使わないと、ですから」