9話 すべては、この瞬間の為に
黒月財閥、地下研究所。
それは黒月夜羽が管理する施設であり、そこでは主に記憶に関する研究が執り行われていた―――のだが、今から一年前にそれらは頓挫し、ほぼ全ての機材や成果は紅条一樹主導による『天使の棺計画』へと吸収されてしまった。
ミカエルシリーズと呼ばれる、黒月夜羽の遺伝子を利用して産み出されたクローン総勢十三体。
そのうち最後の一体であるナンバーXⅢは、数週間前までこの施設に保護されていた。
唯一自我を持つ事を許され、研究の為に生かされてきたミカエルXⅢは、意識を覚醒させてから一年間様々な知識をインプットさせ続けられ、およそ人間への扱いとは思えないような扱いを受けていて―――まさに、この場所は彼女にとって『地獄』であっただろう。
そして、現在。
その場所は『本物の黒月夜羽』にとってただの隠れ蓑でしかなくなっていて。
黒月夜羽の記憶を一年前に獲得したミカエル・プロトタイプにとって、その地獄と呼ぶべき場所は、ただの研究施設でしかなく―――
そのさらに地下。
一年前から影武者を作り上げ、その身を隠していた黒月夜羽の私有施設があった。
「ここが……まさか、ここにまだわたしの知らない場所があったなんて」
三日月絵留は、辿り着いたその場所を眺めながら感嘆の溜め息を吐く。
それもそうだろう、何故なら今の彼女には黒月夜羽としての記憶、ミカエルXⅢとしての記憶のふたつが混在しているのだ。
ここを地獄として認識し、それを管理していた人間としての意識もある彼女にとって、この場所に『本物の黒月夜羽』が潜んでいただなんて思いもよらなかっただろう。
「蜜峰さんの情報では、この場所で黒月夜羽と密会したと言う事ですが……三日月さん。黒月夜羽としての記憶を持つ貴女は、その事を覚えていない―――そうですわよね?」
「……はい。超記憶症候群を持つわたしが記憶していないという事は、わたしが本物の黒月夜羽ではないという決定的な証拠……そして、ここに彼女がいたという証明になります」
絵留の返答に、アリカは満足げに頷く。
そんなやり取りを見て、穂邑は渋い顔をしながら口を開いた。
「本物の黒月夜羽、か。いったい、夜羽はどうして自分の記憶をクローンに移植させたんだろう……?」
「それは……わたしが思い当たらないということは、わたしの持つ『黒月夜羽としての記憶』、つまり一年以上前のわたしでは考えつかないような、何かしらの理由が突然生まれたのかもしれません」
「てかさ、夜羽が自分の記憶を天使の棺を通して君の中に移したんだったら、そうした理由だって覚えているべきなんじゃないの?」
「いえ。この記憶は多分、紅条一樹によって定期的に採取されていた黒月夜羽の記憶データを、ある程度の時間が経過してからミカエル・プロトタイプにインプットさせたものだと思います。つまり、その間にはこのわたしでは知り得ない『空白の期間』が存在している……」
なるほど、と穂邑は合点がいったように頷き返す。
「一年前には運営していたスタッフもほとんど出払っていて、二週間前には『異動』という名目でわたし……いえ、ミカエルXⅢを黒月研究施設へと移送させた後、この施設は完全に閉鎖する予定だったんです」
「あ、そういえばえるが言ってたね。『一年に一度の異動』とかなんとかって」
「あれはわたしがミカエルXⅢを逃がす為、彼女を奮起させる為の誤情報。ここを逃せばまた一年はチャンスがないわよ、っていう」
「そっか……えるを逃したのは夜羽だけど、その夜羽は君自身だったんだもんね。なんだか状況がややこしくて頭がこんがらがりそうだ」
今は無人で静まり返っている施設―――アリカ、絵留、穂邑の三人は暗い廊下を歩きながらそんなことを話しつつ。
白百合の二人は施設前で警備を担当、クリスは先に施設内に侵入して危険がないかを確認しつつ、定期的にアリカの元へ連絡を寄越す手筈になっている。
「それにしても、やけに薄気味悪い場所ですわよね。あたくし、あまりこういうところは好きませんのに……」
研究所内部はまるで深夜の病院のような雰囲気で、明かりはかろうじて機能していた蛍光灯と、三人それぞれの手に持っている懐中電灯のみ。
道も入り組んでいてまるで迷路のようだし、エレベーターが機能していない上に、非常用階段を降りた先―――黒月夜羽が潜んでいたという区画へ向かうには、ほぼ反対側にあるもうひとつの階段を降りる必要があった。
その辺りは施設の見取り図からクリスが推測し、潜入の結果判明しているので間違いはないのだが―――
「あれ、アリカちゃんってホラー系とか駄目なやつ?」
穂邑が茶化すように言うと、アリカは口元を膨らませながら、
「好きじゃないだけです。それになんですかホラーって。確かに薄気味悪いとは言いましたが、別に何が出るわけでも―――」
「わっ!」
「ぎゃぁぁぁっ!?」
ふざけた勢いで後ろから肩を叩いて声を上げる絵留。
アリカの喉奥から、およそ年頃の少女のものとは思えないエッジの効いた声が放たれる。
「……って、三日月さん! いきなり何するんですの!?」
「ごめんなさい、つい」
「える……悪い子になって……。いや、この場合は夜羽だろうけど……」
などとワイワイやっていると、三人は分かれ道にぶち当たる。
「ええと……ここは左、ですわね」
「ほんと? 右じゃなくて?」
「えっ、右でしたかしら……すみません。あたくし、あまり地図を読むのは……」
「大丈夫、左で合ってますよ。わたしは一度見れば忘れませんから。もう、ほむらさんってば」
「あはは、つい」
「あーもう、お二人とも! 『つい』であたくしをからかうのはお辞め下さいます!?」
激昂するアリカをよそに、穂邑と絵留は思わず目を合わせながら苦笑する。
そうして、三人は左の道へと進み―――
「っと、少しお待ち下さい。クリスから着信ですわ」
言いながら、アリカはスマホを耳元にあてる。
『アリカ様。今はどちらに?』
「あたくし達は今……ええと三日月さん、ここは何階でしたかしら?」
「地下四階です」
「……らしいですわ。何かありまして?」
『いえ。夜羽様が使っていたであろう施設の出入り口は確認できたのですが、少し困った事がありまして』
「困った事……ですか?」
『はい。どうやら暗証番号が必要なようです。思い当たるものは試しましたが上手くいかず……アリカ様は蜜峰様から聞いていらっしゃいませんか?』
「暗証番号……いえ、それは初耳ですわ。三日月さんは―――」
「残念ながら。わたしも解りませんし、わたしなら確実に誰にも思い浮かばないようなパスワードを設定するでしょう。例え、自分の記憶を持つ存在でも、です」
『……恐らく、ですが。船橋灯里様ならご存知なのではないでしょうか?』
「えっ? あの船橋さん……ですか?」
『はい。百合花様はアリカ様に命じて彼女へと繫ぎ、その後に本物の夜羽様と会っているのです。つまり、ここへお越しになられていた可能性が高い』
「なるほど、確かに……解りました。あたくしが一度、彼女へ連絡を取ってみますわ」
『はい。暗証番号が判明し次第、連絡を頂けると助かります。それでは』
それを最後にクリスとの通話は途絶え、間髪入れずにアリカがスマホを操作して新たな連絡先へと通話を試みる。
「船橋灯里……か。そういえば、彼女が結局何をしたかったのか、僕もわからないままだったな」
「それはわたしもです。まさか、彼女が本物の黒月夜羽と繫がっていただなんて」
「……駄目です、出ませんわ。まあ、今更あたくしの連絡を律儀に出る必要なんてないんでしょうけど―――」
と、アリカがそう呟いた時。
「こんな場所までいったい何の用ですか、アリカ様?」
通話越しではなく、肉声で。
三人にとって聴き覚えのある声が、静かな通路の中に響き渡る。
「……え?」
アリカ、穂邑、絵留の三人は驚きながら声のする方へと目を向けて―――
「ごきげんよう、皆様。まさかこのような場所で再びお会いする事になるとは思いませんでしたわ」
そこにいたのは、優雅に一礼する少女。
―――船橋灯里、その人であった。
◆◆◆
白百合の二人は、施設の入口付近に車を止め、周辺の監視に徹していた。
車内にはミカエルⅦ、Ⅷの二人が無表情のまま佇んでいる。手足は縛っているので暴れる心配はないが、白百合の二人のうちの一人は彼女らの様子を伺っている。
「にしても、こいつら……不気味だよなぁ」
「こら、何言ってるんです。クローンとはいえ人間と変わらない、彼女達も生きて―――」
「いや、それはわかってんだよ。でもさ、百瀬本社で起きた爆発事件……その真相を知ってる身からすっとなぁ。自分の命も厭わない、敵に囚われた瞬間にまるで心が死んだような……」
「君は、同じ状況になったらどうするんです?」
「そりゃもちろん必死に命乞いするし、生きる為なら何でもするさ! 人間なんてそんなもんだろ、違うか?」
「……まあ、解らなくはないですがね」
夜更けに二人、そんな事を話し合って。
意識が少し緩んだ―――その一瞬の出来事だった。
「―――そこの貴方、その子達から離れなさい。死ぬわよ」
「「ッ!?」」
それは、女の声色だった。
警戒心がほんの少し途絶えた、その瞬間を狙い済ましたかのように、その場に一人の少女が現れる。
「動くな! クソッ、いったいいつの間に―――」
シュッ―――という風を切る音と共に、白百合のひとりが取り出した拳銃が呆気なく地面に転がった。
もう片方が無言で銃口を向けるが、暗闇から突如として現れた人影に対する恐怖心が先行し、その狙いが定まる前に少女が二手目を繰り出す。
「ぬわっ、な……なんだ!?」
低姿勢で駆け出した少女の手刀が拳銃を構える右手首に直撃する。
「ぐぁっ!?」
「いたいけな女の子にこんな物騒なもの取り出すなんて、いったい百瀬はどんな教育を施してるってのよ。まったく」
「お、お前……いや、貴女様は―――」
月の明かりが照らす夜空の下。
黒き髪を靡かせて、羽ばたくように一人の少女が舞台へと上がる。
◆◆◆
施設内部、地下四階。
百瀬アリカと船橋灯里―――もとい、黒月亜里華が睨み合う。
二人の亜里華、その邂逅。
しかし、アリカはその事実を知り得ない。
「くすくす。いえ、少しだけ訂正をさせて頂きましょうか。ここでお会いする事になる……というのは、私にとっては予想の範囲内でした」
「ど、どういうこと……ですの?」
「茨薔薇の園へのミカエル襲撃。それを上手くやり過ごした事は素晴らしいとしか言いようがありませんが……そこから先、アリカ様が取るであろう行動が私の想像通り過ぎて、少しばかりガッカリしているところなのです」
「船橋さん、何故ミカエルのことを……いえ、まさか……!」
「そう。ミカエル関連の事件、その全ては私の手によるものなのですわ」
灯里の発言に、アリカだけではなく、穂邑と絵留もまた目を見開いて驚愕を顕にする。
「ここは黒月の地下研究所。三日月さんにとっては馴染みのある場所ですが……ここに本物の黒月夜羽が潜んでいた、ということをプロトタイプである貴女は知り得なかった。そうですわね?」
「それは……ええ、その通りです」
「しかしながら、それを知っている者がいた。白状しますと、私もその一人なのですよ。これまでの様々な事件の裏側には彼女の手が掛かっており、私は彼女に仕える諜報員的な立ち位置にいましたので」
「船橋さんが……!?」
「そうですわ、紅条さん。そしてもう一人……私が貴女に託した女の子―――蜜峰漓江。彼女もまた黒月に関わる研究員としてこの施設に訪れ、黒月夜羽と会合している。それを知ったアリカ様が手掛かりを求めてここへ来る……そう、ある意味ではそれすらも私の計画通りなのですわ」
くすくすと特徴的な笑い声を漏らしながら、灯里は声のトーンを高くしてそう言い放つ。
「それが本当だったとして、だから何だと言うのです……?」
「まだお解りになりませんか、アリカ様。百瀬の次期当主ともあろうお方が、察しの悪い」
「……っ! 煽りは結構です、要件だけを述べてくれませんこと!?」
アリカが我慢し切れずに激昂すると、灯里は深い溜め息を吐き、静かに答える。
「―――……ここに、貴女達の求めるものがあるのですよ」
「求めるもの……って……?」
「紅条さんもですか、呆れてしまいますわね。けれど、そこにいるプロトタイプ……いえ、三日月さんは勘付いていらっしゃるのでは?」
「わたしは……いえ、これはただの予想でしかない。船橋さん、貴女の口から聞かせてくれませんか?」
「はあ、なるほど。まあ良いでしょう。貴女達はあちら側の黒月研究施設へと向かっていないようなので、そこから説明しますが―――まず、既にミカエルシリーズの身柄は廃棄処分された事になっています。しかし、廃棄されたのはナンバーⅤまで。Ⅵから先のナンバーは、この地下研究所へと移送されているのですよ」
「それって、まさか……!」
「もう機能していないはずの場所。ですが、それはただのカムフラージュ。天使の棺計画が頓挫した瞬間―――黒月夢幻理の計画は、この場所でスタートした」
「黒月夢幻理……って、お母様……?」
絵留が夜羽としての記憶をもとに、その名が黒月夜羽の母親のものであると即座に理解する。
「ええ、そうですわ。そして、私の母親でもあります」
「船橋さん、の……?」
「と言っても、私は拾われただけですけれど。あの人の旧姓―――船橋の家に預けられ、これまで育てられてきましたが、私も『黒月』の人間……ということになりますわね」
「貴女が……わたしと同じ……?」
「正確には黒月夜羽と同じ、ですわね。貴女はただのプロトタイプ。二人の少女の記憶を受け継いだだけの、ただの人形に過ぎません」
「そんなことは解っています。それで、貴女はいったい何がしたいんですか?」
「……私は母親の言う事に逆らった事などありません。ですので、今回の『エンジェル・ラダー計画』についても異論なく、ただ黙って協力してきました」
そう語る灯里の声色は、先程までとは打って変わってどこか低く、沈んでいるように感じられた。
「あの人の目的は単純です。私を含め、自分自身の居場所を手に入れること。子を成せない身体を持ちながら、黒月当主の温情だけで生きてきただけの……そんな、惨めな現状を打破したい。最初はね、それだけだったんですよ」
「当主……お父様、ですね」
「ええ。知っての通り、百瀬百合花は元々黒月の娘です。しかし、彼女を産み落としたが最後、母は子を成せない身体になり―――結果、遺伝子操作による人工子宮から黒月夜羽が産まれた。超記憶症候群という類まれなる才能を開花させた少女は、黒月における唯一無二の娘として育てられた」
「それでは、貴女は―――」
「子を成せない自分を悔やみ、捨て子だった私を拾った母は、私に『亜里華』と名付けた。同時期に百瀬の第二子として産まれた―――そう、貴女と同じ名前をね、アリカ様」
「あたくしと、同じ……」
「どうして同じ名前にしたか、解ります? それはね、いずれ貴女を無き者にし、その立ち位置に私を捩じ込む可能性を加味して……ただ、それだけの理由なのですよ」
「そんな、まさかそれじゃあ……君の狙いは……!?」
一同が衝撃の事実を知った中、しかし灯里は自嘲するように息を吐いて、
「アリカ様を百瀬の次期当主に仕上げ、その座を奪い取る。邪魔になるものは全て排除する。そんなやり方で手に入れた居場所が、果たして素晴らしいものでしょうか?」
「……えっ?」
「私は……あの人には逆らえない。本当は捨てられて死ぬはずだったこの命を繋いでくれたから。でも、それでも……今のあの人は、間違いなく狂っている」
「船橋さん、貴女まさか―――」
「これまで貴女達を欺き、アリカ様を利用し、協力者であるはずだったあの黒月夜羽ですら裏切って……そんな私が、こんなことを言う資格はないかもしれません。ですが、それでも―――」
俯き、唇を噛み締めて。
彼女は黒月亜里華としてではなく、船橋灯里という自分自身の言葉を紡ぐように。
「お願いします。あの人を……黒月夢幻理を、止めてください」
―――すべては、この時の為に。
船橋灯里の戦いもまた、ここから始まる。