8話 相反する感情、決意の一歩
茨薔薇の園、寮監室。
そこには美咲の帰りを待っていたクリスと、彼女によって拘束されている二人の少女たちの姿があった。
ミカエルシリーズ、ナンバーⅦおよびⅧ。
彼女たちは両手両足を拘束された上、全身の身ぐるみを剥がれた状態で、虚ろな瞳で呆然と地面を眺めている。
その様相に驚いたのは美咲だけではない。
後から続くようにして部屋の中へ足を踏み入れたアリカ、絵瑠もまた同様だった。
「……目を覚ました、のですわよね?」
恐る恐るアリカがクリスに向けて問い掛ける。
それに対し、クリスは無言で頷き返した。
「こいつらが命令で動くだけのクローンだってなら、別に驚くようなことでもないかもしれないが……な」
「これが、ミカエル……わたしと、同じ……?」
絵瑠はそれが電話越しに話した相手とは信じられないものの、その見た目は確かに黒月夜羽の似姿そのものであり、真偽を疑うことはしなかった。
「目を覚ましてからずっとこの調子です。ワタシが話しかけようとも答えはありませんでした」
「そうですのね。それでは、情報を聞き出すのは難しいかしら……」
「アリカさん、黒月夜羽の行方はわからないんですよね?」
口元に手をあてて考えているアリカに、絵瑠が鋭い口調で問う。
「え、ええ。ですが、彼女が隠れ蓑にしていた場所―――地下研究施設の位置はすでに解っていますわ。蜜峰さんに感謝ですわね」
「なるほど……。他にアテがないなら、そこへ向かいませんか?」
「それは構いませんが、もう日も暮れていますわよ?」
「そうですけど、わたし達は一刻も早くこの茨薔薇の園から立ち去るべきだと思います。ここには無関係な学生たちがいる。今すぐミカエル二人を連れてその地下研究施設とやらに向かうのがベストではないですか?」
「アタシも三日月の意見に賛成だ。寮監って立場上ここから離れるわけにはいかないが、ここにこいつらがいれば後続の仲間が襲って来ないとも言えないからな」
絵瑠と美咲の言葉を受け、アリカは少しだけ思案した後、
「……そうですわね。あたくしも、手遅れになる前に事を収めたいですし」
「決まりですね。足は白百合の方々にお願いできますよね?」
「ええ、それはもちろん。いつでも出られるように待機して頂いておりますわ」
「ならアタシはここで待機だ。だが大人が一人も着いてやれないのは……ああ、クリス。お前が同行してやってくれないか?」
「ワタシは構いません。アリカ様がそのように命令して下されば」
「お願いしますわ、クリス」
こうして、アリカと夜羽はクリスとミカエル二人を連れて、茨薔薇の園から立ち去る事を選択した。
目指すは黒月夜羽が管理するという地下研究施設。
アリカは姉である百合花の為。
絵瑠は己の存在を確かめる為に。
それぞれの思惑を胸に、彼女たちは動き出す。
◆◆◆
紅条穂邑は、ひとり窓の外を眺めていた。
夜空に浮かぶ月は奇しくも三日月の形をしていて、脳裏によぎるのは三日月絵瑠の姿。
(私は反対してる。でも、僕は行きたいと思ってる……か。はは、これじゃまるで本当に二重人格みたいだ)
実際、穂邑の中には『私』として一生を生きてきた自分と、『僕』としてこの一年と少しを生きてきた自分がいる。
どちらも彼女であるとはいえ、それぞれが大切に思うものには明確な齟齬があった。
過去との決別は終わった。
兄である紅条一樹は失脚し、天使の棺計画は頓挫した。
穂邑の力ではなかったけれど、それでも自分が関わった事件である以上、彼女には果たすべき責任があったのだ。
私としての穂邑の戦いは終わりを告げた。
しかし、この一年で得たもの―――特に、三日月絵瑠との出会いは『僕』にとってはかけがえのないものだったのも事実。
だからこそ、揺らいでいる。
手に入れた平穏を投げ捨てて、再び危険に身を投じるべきかどうか。
(私は、香菜とこの学院生活を続けていきたい。けれど、僕はえるのことも大切で……きっと、香菜に言ったら怒るかもしれないけど―――)
穂邑は、自分の気持ちに気付いている。
けれどそれはあくまで『僕』のもので、『私』はそうではないと感じてもいるのだ。
どちらも紅条穂邑でしかないはずなのに、それぞれの思いがぶつかっている状態。
(僕は……えるのこと、好きなんだろうな)
三日月絵瑠は死んだ。
それは揺るぎない事実だけれど、それでもその記憶を受け継いだ少女はまだ生きている。
彼女は黒月夜羽として生きてきて、それが偽りのものだと知ったというのに、それでもなお三日月絵瑠として生きることを選択した。
きっと、強がっている。
自分が何者でもないと知って辛くないはずがない。それは穂邑にだって理解できる感情であり、そんな少女が三日月絵瑠を選んだことを偽りだとは切り捨てられない。
三日月絵瑠は、確かに生きている。
そう感じたからこそ、穂邑は心の底から彼女を認めることができたのだから。
(これは僕の我儘だ。香菜のことを大切にすると決めた私の意思を無視する、本当に愚かな感情……だけど―――)
穂邑はベッドの上から立ち上がり、窓の外へと近寄って、
(今ここで何もしなかったら。きっと、僕は私を許せなくなる)
茨薔薇の園から外へ向かう人影。
それらを見つめ、穂邑はきゅっと唇を噛み締めた。
(ごめん、私……ごめんね、香菜。僕はやっぱり、えるを見捨てられない……!)
少女は決意する。
たとえ自分に何が出来るかは解らなくても。
それが親友を裏切り、自分自身の想いすら踏みにじる事になるとしても。
―――それでも、後悔だけはしたくないから。
◆◆◆
「ま、待って!!」
茨薔薇の園を出た先にある駐車場へ、一人の少女が駆け付ける。
その声を聴いて真っ先に振り返ったのは他の誰でもない、絵瑠だった。
「え……ほむら、さん……?」
「はあ、はあ……ごめん、える。僕も……行くよ……!」
「紅条さん……!? どういった風の吹き回しですの?」
次いでアリカも振り返り、穂邑の姿を確かめてはそんな問いを投げかけた。
「僕に何が出来るか、そんなのはどうでも良かったんだ。僕は紅条穂邑である前に、僕自身としてえるを助けたい……!」
「それはいったい、どういう……?」
アリカが首を傾げていると、絵瑠が穂邑の元へと駆け寄って、
「うわ、ちょ……える!?」
そのまま、穂邑を覆うように抱きしめた。
「ほむらさん……わたし、本当に悪い子です。だって、巻き込んじゃ駄目だってわかってても……ほむらさんが来てくれたこと、すごく嬉しい……っ」
「える……」
「これは、わたしが夜羽だからじゃない……三日月絵瑠だから、そう思ってるんです」
「うん、わかってる。あのさ……その」
穂邑が恥しそうに身をよじっていると、絵瑠がそれに気付いたのかパッと身体を離す。
「あっ、ご、ごめんなさい……」
「いや、うん。大丈夫……」
「……ええと。お二人とも、目の前でいちゃつくのはやめて下さいますかしら?」
「「いちゃ……っ!?」」
口を尖らせながら悪態をつくアリカの言葉に、穂邑と絵瑠は顔を真っ赤にさせながら動揺してみせる。
「はあ……まあ良いですわ。紅条さん、本当に良いんですわね?」
「え、ああ……うん。もちろんだよ」
「三日月さんも。巻き込んで、後悔しませんか?」
「はい。ほむらさんの気持ち、大切にしたいから」
二人の迷いなき返答に、今度こそアリカは深い溜め息を吐く。
「……はあ。結果としてあたくしの計画通りではありますけど、なんだか釈然としませんわねえ……」
「アリカ様、準備が整いました」
クリスの呼びかけに、アリカはやれやれと言った態度で肩をすくめながらその場から去っていく。
「わたしたちも行きましょう、ほむらさん」
「あ……ちょっとだけ、良い?」
アリカの後に続こうとした絵瑠の手を取り、穂邑は真剣な眼差しで言う。
「あのさ。僕は君のこと、本当に三日月絵瑠だって思ってるよ」
「え……」
「えるが撃たれて、死んでしまったのは事実。でも、その記憶を持って君がここにいるなら、君はもう紛うことなき三日月絵瑠だよ」
「わたしは……でも、本当は……」
「わかってる。でもさ、三日月絵瑠っていうのは僕が付けた名前でしかない。彼女がミカエルXⅢで、君はミカエル・プロトタイプ。でも、そんな名前じゃなくて、ちゃんとした一人の女の子として生きて欲しいって思ったから、僕は名前を付けたんだ」
穂邑のそれは単なるエゴに過ぎない。
結局、誰がなんと言おうとも彼女たちは別物で、今ここにいる三日月絵瑠という少女もまた複雑な立ち位置にいる存在だ。
だから、これは気持ちの問題。
穂邑が彼女のことをどう思うのか、それだけの話に過ぎないのだ。
「三日月絵瑠はさ、僕にとって大切で……きっとこれからも、かけがえのない女の子だから」
「ほむらさん……」
「だから、助けるって決めたんだ。私は香菜のことが大切で、この学院で平穏な生活を過ごすことを一番に想っているけれど……僕には君が必要だよ、える」
そうして、今度は穂邑が絵瑠の手を引き寄せて、その身体を抱きとめる。
「もちろん、夜羽のことだって忘れてないけどね?」
「ほむらさ―――……、ふふっ」
絵瑠は目尻に涙を浮かべながら、そんな穂邑の顔を見下ろして。
「あの、本音を言ってもいいですか?」
「えっ?」
「わたし、香菜さんに嫉妬してました。こんなに好きなのに、きっとほむらさんはわたしには振り向いてくれないだろうなって」
「っと、それって―――」
そうして、絵瑠は無理やり穂邑の唇を奪った。
「……!?!?」
「っ……ふふっ、やっとできた」
「え、える!?」
「わたし、悪い子ですから」
それだけを言い残し、絵瑠は照れ隠しのようにアリカたちの待つ車のほうへと走り出す。
穂邑はいったい何が起きたのか理解できないまま、そんな彼女の後ろ姿を眺めていて―――
(いつの間に、こんな……いや……)
彼女は、夜羽であり絵瑠だ。
それが偽りの存在だとしても、その記憶は確かに彼女自身の中にあり続けている。
だからきっと、三日月絵瑠として生きていくことを選んだとしても、彼女はそれを抱えていくのだろう。
(とりあえず、香菜にだけは内緒にしとかなきゃだなぁ……)
そうして、穂邑の中にあった迷いの残滓は消え去った。
この先に待ち受けるのは、平穏とはかけ離れた裏の世界。
大切なものを守るため、彼女たちは力を合わせて闇へと立ち向かう。
◆◆◆
茨薔薇の園、四階。
渋谷香菜は自室のリビングから外を眺めていて―――そこには親愛すべき相手、穂邑の姿があった。
(やっぱり、そうなるんじゃん。ほむりゃんのバカ……)
心の中でそう吐き捨てるものの、その表情は穏やかだった。
彼女はきっと三日月絵瑠のことを見捨てられない、そういう人間性であるのだと、一人の親友として理解していたから。
(……わかってる。本当にバカなのはあたしだ)
大切な人を守りたい。
その気持ちは痛いほどに理解できるし、だからこそ香菜は穂邑を行かせたくない一心で貫いていた。
けれど、こうなるだろうとは思っていた。
その上で自分が何をすべきなのか、香菜は深く溜め息を吐いて思考する。
(ほむりゃんだって、きっとわかってる。自分に何が出来るかじゃない……何をしたいのか。大事なのはそれだけなんだってこと)
―――自分に力なんてない。
渋谷の御令嬢だと言われても、末っ子の自分には大した権力もない。
だからこそ、自分自身で何をすべきか選んできた。
多くの知識、多くの人脈―――手にすべきものは努力の積み重ねでちゃんと得ることができた。
だからこそ、無力を実感する。
現実を直視してしまうからこそ、これが一介の学生風情が努力で越えられる壁ではないということを理解してしまう。
けれど、それでも紅条穂邑は立ち上がった。
大切なものを守りたい―――きっと、ただそれだけの願いの為に。
(えるるん、可愛いもんなあ。夜羽と違って素直だし。あたしなんかよりずっと女の子っぽいしなあ)
そんなことを思いつつ、香菜は頭を振る。
(女の子同士だってのに……もう、やっぱりほむりゃんもバカ。バカバカ。あたしだって―――)
立ち上がる理由ならある。
けれど、それは自分自身の意思ではないかもしれない。
大切な人がそうしたいと願ったから、自分もそれを助けたいと思っただけ。
結局のところ、渋谷香菜という人間の行動原理の根底には、紅条穂邑という人間の存在が強く根付いているのだ。
(あたしだって、好きなんだから)
恋は盲目、と言うけれど。
香菜にとっての『大切なもの』は、そんな言葉だけでは片付けられないくらいに大きくて―――
(あたしにできること……きっと、あるよね)