5話 絶望を打ち砕くは一筋の希望
茨薔薇の園、四階。
穂邑は円卓の間に急ぎ足で辿り着くと、夜羽の部屋から出てくる絵留と鉢合わせた。
「ほむら……さん? こんな夜遅くにどうしたんです?」
突然の出来事に戸惑う絵留ではあったが、できる限り平静を装うようにそう問いかける。
「絵留、夜羽。大変なんだ!」
穂邑は敢えて二人の名前を呼ぶ。
三日月絵留として生きると決めた少女に対し、穂邑が夜羽の名を出す時はいつも明確な理由があった。
それを理解している絵留はごくりと息を呑む。
そして、穂邑が何に対して慌てているのかもすぐに勘付いた。
「もしかして、襲われた?」
声色は一変して夜羽のものとなり、穂邑はそれに驚きながらも小さく頷く。
「知ってるってことは、夜羽のところにも?」
「直接はまだ。ついさっき電話で話しただけよ。穂邑は……怪我ひとつなさそうだけれど」
「美咲さんに助けて貰ったんだ。ミカエルシリーズ……夜羽と瓜二つの女の子だったよ、正直ヤバかった。髪が長くて、すぐ別人だって気付けたのは良かったけどね」
「なるほどね。その身柄は彼女が?」
「うん。拳銃を持ってたけど今は丸裸……って、服まで剥ぎ取ったわけじゃないけど―――」
真剣な表情で語りつつも、冗談混じりに言う穂邑。それを見て、絵留は内心ほっと一安心する。
「先に潜入しているって言うのがその個体だとすると……少なくとも、まだ脅威は払いきれてはいない、か」
「夜羽?」
「あー、えっと……そうね。さっきわたしに電話を掛けてきた奴がまだ別にいるのよ。穂邑達が捕まえたのが武装していたのなら、そいつも同じく武装していると考えるべきね」
「まさか……それじゃあ、もうすぐここに!?」
「落ち着いて。大丈夫、奴らの狙いはわたしだから。わたしが出向けばそれで済む話―――」
「それは駄目だよ!」
穂邑の血気迫る咆哮に、びくりと絵留の身体が跳ねる。
「だ、駄目って。でも、言う通りにしないと何が起きるかわからないじゃない」
「それはそうだけど……そうなんだけど、それでも駄目なんだよ。もう僕は絶対に間違えたくないんだ」
「間違える、って―――」
「自分の目の前で大切な人を喪うのは、もう絶対に嫌なんだよ」
今にも泣きそうな顔で縋る穂邑に、絵留はどうしていいか解らなくて。
「僕じゃ力になれないかもしれないけど……でも、今度こそ僕が君を守るから」
そんな、一歩間違えれば愛の告白とも取れるような言葉を聞いて。
「お願いだから、早まらないでよ……絵留、夜羽」
ふたつの心。
それぞれが真逆の方向性、まったく違うものであったとしても。
ひとつだけ、確かなもの。
少女の中に芽生えている、絶対的に揺るがない同一の感情があった。
「わかりました。ごめんなさい、ほむらさん」
一歩踏み出して抱き締める。
自分より背丈の低い、けれど愛すべき相手。
三日月絵留も、黒月夜羽も。
この紅条穂邑という名の少女のことを、誰よりも愛しく思っているのだから。
◆◆◆
穂邑と絵留の二人は、寮監である美咲と、その妹である摩咲とも合流を果たし、さらには騒ぎを聞きつけて部屋から出てきた渋谷香菜も加わり、円卓の席を囲んでいた。
事の次第を大まかに説明している間、唐突な話にも関わらず、摩咲や香菜も疑うことなく話に耳を傾けてくれた。
そうして、ある程度の事情を伝えた後―――
「問題は……やっぱり、もうひとりのミカエルね」
絵留が渋い顔をしながら口を開いた。
そして、それを肯定するように美咲が頷き返す。
「そうだな。さっきの奴みたいに拳銃まで装備しているとすると厄介だ」
穂邑を襲ったミカエルシリーズの武装は拳銃がひとつ。
美咲がその身柄を確保してからは武装は完全に剥ぎ取ってはいるものの、その意識が戻った時に暴れだしてしまうとも限らない。
よって、美咲はやむを得ず寮監室兼自室であるその場所に、手足を縛った状態でミカエルⅦを閉じ込めているのだが―――
「姉貴、その倒した方はしっかり捕えてあんだろ? ソイツを人質にでもすりゃ少しは大人しくなるんじゃねぇか?」
「ちょっとまさきち、それじゃあたし達が悪者になっちゃうじゃん」
摩咲が非人道的な手段を提示するも、香菜は軽蔑の眼差しを向けながらそれに反論する。
そのやり取りに耳を傾けていた絵留―――夜羽は、肩をすくめて溜め息を吐きながら、
「香菜の言う通りね。それにやり方の良し悪しはともかく、たかがミカエル一体如き、向こうが手を緩める理由にすらならないと思うわ」
各々が言葉を投げかけ合う中、穂邑だけが険しい表情で考え込んでいる。
「……ほむりゃん? さっきからすごい顔してるけど、大丈夫?」
「えっ、あ、うん。なんていうか、何か引っかかってて……」
「引っかかるってなんだよ。難しい顔してねぇでオマエも何か案出せって。そのミカエルってヤツがいつやってくるかも解らねぇんだろ?」
「うん、そうだよね。ごめん」
そんな穂邑の様子に摩咲は怪訝な表情を浮かべながら、それ以上の追求はしなかった。
「とにかく。今は目先の問題からね。つまり、これからやってくるであろう敵―――ミカエルシリーズ、その八番目。ナンバーⅧをどうするのか、それが問題よ」
話を元に戻す夜羽ではあったが、それについて明確な意見を提示できる人間はこの場にいなかった。
「……やっぱり相手側の言う通り、わたしがナンバーⅦを引き連れて―――」
「駄目だよ、夜羽。さっきの子……ナンバーⅦだって何とかなったんだ。抵抗できるならするべきだと思う」
「いや、紅条。さっきのアレは奇襲が上手くいっただけだ。あくまで偶然、アタシが気付いてなきゃお前……死んでたかもしれないんだぞ?」
「そうだよほむりゃん! 銃を持ってる相手にまともに立ち向かうなんて無茶だし、ここは皆が暮らしてる寮だよ? 下手をしたら無関係な子達まで巻き込んじゃう!」
「オレもそう思うぜ。濠野組が警備を担当してるとはいえ、基本的な人員は姉貴ぐらいなモンだ。今から呼びつけるにしても数時間はかかっちまうしな」
それぞれが口を開くものの、解決策は一向に導き出されない。
いや、正確に言えば、穂邑だけが唯一の解決策を否定している状況であるとも言える。
三日月絵留、黒月夜羽―――その両方の記憶を持つ少女、ミカエル・プロトタイプの身柄さえ差し出せば全ては丸く収まるかもしれないのだから。
「ほむらさん」
そして、夜羽―――いや、絵留としての口調で少女が穂邑に語りかける。
「わたしの身を案じてくれるのは、わたしが三日月絵留の記憶を持っているから……ですか?」
「……それは違うよ。君が夜羽だろうが絵留だろうが関係ない。今ここにこうしている君はもう僕にとっては大事な女の子なんだ。それをむざむざ見捨てるなんて出来ない」
「なら……もしわたしが元々、黒月夜羽ですらないとしたら?」
少女の言葉に、俯いていた穂邑の顔が上がる。
「ミカエル達の目的が黒月夜羽でも三日月絵留でもなく、このわたしという個体―――ミカエル・プロトタイプの肉体自体にあるとしたら、どうですか?」
「どういう……こと?」
「わたしはずっと自分が黒月夜羽だと思い込んでいた。でも、現実はそうではなかった。わたしはミカエル達のプロトタイプで、黒月夜羽の記憶を天使の棺によって植え付けられただけの存在……つまり、偽物だったのよ」
「いや、何を言ってるんだよ。そんなの―――」
「有り得ない、とでも? 貴女だって知っているでしょう。天使の棺というシステムの本質を。記憶を喪わせるだけではなく、移し替えることすら可能にしたあの装置の事をね」
どこか自嘲気味な口調で語る少女へ、穂邑だけではなくその場にいる全員が目を見開いて視線を向けていた。
真偽は不明であるにしても、少女にとってその事実は衝撃的であり、それを納得して受け入れてしまっている自分自身に対しても驚きを禁じえなかった故の自嘲―――
「それが本当だとしても、僕はやっぱり見過ごせない……」
それでもなお穂邑は引かない。
彼女の脳裏には、かつて本物の三日月絵留を刺客によって撃ち殺された時の鮮烈な記憶が焼き付いているからだ。
「わたしがこの場所にいる以上、これからずっと危機が迫り続ける事になるかもしれません。向こうはミカエルシリーズ……わたしと同じナンバーを割り振られたクローン達です。どれだけ残っているかは知りませんけど、今回だけで終わるはずがないって事くらいは、ほむらさんにだって解りますよね?」
「解ってる。解ってるんだ……だからこそ、解らないんだよ」
穂邑の意地、それは誰もが共感している。
だからこそ一蹴は出来ないし、何とかしたいと頭を悩ませているのも確かだった。
けれど、もう時間は残されていない。
今にもミカエルが襲撃し、この茨薔薇の園で取り返しのない事態が巻き起こってしまうかもしれないのだから。
「……もう、限界だな。Ⅶがここへ来てからそれなりに時間が経っているし、後続のⅧもすぐそこまで迫っているのは明白だ。寮の警備を任されている身として、アタシはアタシに出来る事をする」
「姉貴、何するつもりだよ?」
「寮の外で交渉しよう。摩咲の案を採用するでもないが、Ⅶを材料に向こう側の意向を聞き出す。状況によっては武力行使に出てくるかもしれないし、そうならないように三日月にも同行して貰うぞ」
「はい、解りました」
「いや待ってよ美咲さん、それじゃあ前と何も変わらない―――」
「なら他に案があるのか? この寮に住む人間全てを巻き込まず、これから先も安全を確保できる、そんな都合の良い方法が」
「それは……っ」
穂邑は言葉を詰まらせる。
諦められない気持ちだけが先行し、彼女の頭の中は依然としてパニック状態のまま。
周りの人間達が冷静に物事を判断し、どうしようもない事実を受け止めて解決に向かおうとしているのに、穂邑だけは別だった。
「言っておくが、武力に武力で対抗するのは論外だ。さっきのアレはやむを得ずの対処であり、寮監として為すべきこと、その最優先事項は寮に暮らす学生達の安全の確保。この一点をクリアできない限り、アタシはお前の提案がとんなものであろうと受け入れはしないぞ、紅条」
容赦のない美咲の言葉。
それを歯を食いしばりながら黙って聞き入れる穂邑。
―――返答は、無言。
「三日月、行くぞ。時間が惜しい」
「……はい」
美咲が円卓の席を立ち、絵留がそれに続く。
穂邑は声を出せず項垂れて、それを慰めるように香菜が寄り添い、摩咲は険しい顔のまま天井を見上げている。
誰もが望まない、けれど仕方のない選択。
吠えるだけでは何も解決しない―――無力さを実感させられた穂邑は、ぎりぎりと噛んだ唇から血を垂れ流しながら、悔しさを堪えて。
「お待ち下さい」
―――その場に、一人の女性が現れる。
今は居ない百瀬百合花、その部屋から出てきた金髪のメイド服を着た女性―――クリスである。
「たった今、ワタシの元へ連絡がありました。茨薔薇の園近くでミカエルと思わしき少女と交戦し、その身柄を捕えたと」
「えっ?」
あまりに唐突な発言に、その場から去ろうとしていた美咲と絵留の足も止まり―――穂邑、香菜、摩咲の三人もクリスへと向き直った。
「クリスさん、それはいったい……?」
穂邑が聞き返すと、クリスは鋭い眼差しで視線を向ける。
「皆様どうやら切羽詰まったご様子ですが、ひとまず落ち着いて下さいますよう」
「おいおい、いったい誰がそんな―――」
摩咲がそこまで言って、クリスが無言のまま片手を前に突き出して静止する。
そこに握られているのはスマホであり、その画面は遠くからでも解る、通話中のもので―――
『あー、あー、聴こえますかしら? えー、こほん。偶然ではありますが、こちらでミカエルを捕まえました。百瀬本社で起きた事件のことはご存知でしょう? アレは彼女らの仕業なのです。どうやら間に合ったようで僥倖、と言うべきですかしら』
静まり返っていた円卓の間に響き渡るスマホの音声。
それは、この場にいる誰もが聞き覚えのある少女のものであった。
『あたくしは百瀬アリカです。皆様、円卓の間にいらっしゃるのでしたらそのままで。渋谷さん、いるなら今すぐ他の円卓メンバーを集めなさい。あと数分もしないうちにあたくしもそちらに合流しますから』
「アリカ、あんた百瀬の事件に巻き込まれたんじゃ……!?」
名指しされた香菜が驚いて声を上げる。
それは確かに皆の知る少女、百瀬アリカの声であり、
『さあ、円卓会議を開廷しますわよ』
―――予想外の人物によって、事態は好転する。