3話 平穏は音も立てずに崩れゆく
茨薔薇の領地に、ひとつの影が侵入する。
長い黒髪ストレートを靡かせて、学生服を身に纏った少女。
それは領内にある学生寮―――茨薔薇の園をまっすぐに見つめている。
「目標確認。これより潜入を開始する」
それは黒月夜羽の模造品。
合計十三体にも及ぶ数が作り出された、そのうちの一体。
―――すなわちミカエルシリーズ。
その七番目が、平和な世界を破壊する起爆剤として放たれた。
◆◆◆
「ほむらさーん! トイレ掃除、終わりましたよー!」
かつては美しく長かった黒髪を短くカットした少女、三日月絵留が声をあげる。
廊下の向こう側には、せっせとモップを握りしめて床磨きをしている少女、紅条穂邑がいた。
「ほむらさーん?」
しかし穂邑には声が届いていないのか、彼女が絵留へ顔を向けることすら無く。
(……ああもう、たかが床掃除くらいで真面目なんだから)
絵留は心の中でぼやきつつ、穂邑の元へと歩み寄って行った。
―――今の三日月絵留は、黒月夜羽の記憶をも有している。
人間の人格を形成しているのが記憶だけではないとはいえ、彼女の中では未だに黒月夜羽と三日月絵留の記憶がごちゃ混ぜになっており、その口調や思考もまたチグハグなものになっているのだ。
そのことは彼女自身も自覚しており、普段は意識的に三日月絵留としての人格を優先して表に出している。
だが、その思考の中ではふたつの意識が顕在しており、それが性格に影響を与えているのは否めない状態であった。
(それにしても、なんていうか)
そんな彼女が必死に掃除をしている穂邑を見つめながら、ふと思う。
(わたしがこんなふうに掃除なんか手伝うことになるなんてねぇ……)
三日月絵留と黒月夜羽は、ハッキリ言って真逆の精神性だと言える。
それがこうして同じ肉体に顕在していること自体が奇跡ではあるのだが、ふたりの意識は何事もなく混ざり合い、崩壊することなく確立している。
「ほむらさん。わたし、終わりましたよ」
絵留が穂邑の目の前で言い放つと、
「……ん、ああ。もう終わったの?」
どこか上の空な口調で、穂邑は絵留を見上げながらそう言った。
「ほむらさん、何か?」
「いやその……なんていうか。百合花さん、入院したって聞いたから」
「あ……はい」
それは今朝のことだった。
百瀬百合花の専属メイドであるクリスから、絵留が直々に聞かされた事実―――
「百合花さんの家……いえ、百瀬財閥のビルが謎の爆発を起こしたって」
「それそれ。なんか、いきなりすぎてさ。前にあんな事があったばっかりだっていうのに。今度は警察沙汰になったし」
「命に別状はないって言ってましたし、わたし達は百合花さんの帰りを待つしか……」
「いや、うん。そりゃもちろん、百合花さんの事も心配だけど……そこじゃなくて」
穂邑はいつになく神妙な表情を浮かべる。
「まだ……終わってないのかも、ってさ」
「それは―――……いいえ、それは違うわ穂邑。わたしは確かに天使の棺を機能停止させ、廃棄処分とした。件の計画もそれに伴い中止になったし、所長である紅条一樹……貴女の兄だって責任を問われて謹慎処分となったのよ?」
絵留の口調が一変して夜羽のものへと変化する。
それを受けた穂邑は目を丸くしながらも、平静を保ちつつ言葉を返す。
「わかってる。僕達のやったことは決して無駄じゃなかった。皆で取り戻した学院生活……それを疑っているわけじゃないんだ。でも、それにしてはあまりにも物騒な事件が起きたなって」
「それは……―――そうですね、わたしだって不安には思います。もし爆発が事故ではなく事件なら、ですけど」
「その場にいたのは百合花さん、アリカちゃんの二人だったんでしょ? それなら当然、二人が一番事件の真相に近い存在だから―――」
「今もなお二人の身が危ない、だから不安だ……ってこと、ですか?」
絵留の言葉に、穂邑は無言で頷く。
「まあ、だからって僕達に出来ることなんて何もない。こんなのただの杞憂だってことも解ってる。でも……不安は、不安なんだ。仕方ないでしょ?」
「そう……ですね。わたしも、気にならないと言えば嘘になります」
穂邑も絵留も、出来る事なんてどこにでもいる普通の女子高生と変わらない。
それでも、数日前に起きた『天使の棺』にまつわる事件を解決に導いた要因のひとつとなったのもまた事実であり、だからこそ他人事とは思えなかったのだ。
「でも、だからこそわたし達はここで待つべきでしょう? ここが、彼女の……百合花の守った世界なのだから」
「そうだね。うん、ごめん夜羽」
その言葉が夜羽のものであると理解した穂邑は、苦笑いをしながら同意する。
「―――さて、と。床掃除ももう終わるし、さっさと切り上げて寮に帰ろっか!」
「はい」
二人は頷きあって並び立つ。
茨薔薇女学院―――その場所は彼女達にとって、そして何よりも百瀬百合花にとっての平和の象徴。
守られたこの世界で、少女達は健やかに過ごしていく。
―――そのはず、だったのに。
◆◆◆
茨薔薇の園、一階。
紅条穂邑はひとり、部屋のソファで天井を見上げている。
絵留、香菜との夕食を終え、自室に帰ってきた彼女はただひとつのことについて思い悩んでいた。
(絵留……夜羽はああ言ってたけど、やっぱり)
彼女の脳裏に浮かぶのは百合花の顔。
あの完璧で抜け目のない、けれどもどこか支えてあげたくなるような一人の少女のことを、ただ想う。
(せめて、お見舞いくらい行けたらなあ)
穂邑は解っている。
自分には何の力もない、周りに頼ってばかりだったこと。結局最後は誰かに救われ続けてここまで来たのだと言うことも。
それでも、不安は消えない。
彼女の中で駆け巡る焦燥感―――何か、嫌なことが起きる予感がする、と。
(爆発事件……百合花さんとアリカちゃん。本当に、それだけしか居なかったのか……?)
疑問が浮かび上がるたび、穂邑は溜め息を吐き出してそれを払拭させる。
理解し難い事件が起こったのは確かだが、それが以前の事件と関わりがあると考えるのはただの錯覚だろう―――そう自分に言い聞かせても、やはり予感は消え去らない。
(解らないことはいっぱいある。前の時だって結局、僕の知り得ないところで色んな事が収束して。死んだはずの絵留が帰ってきて、でもそれは夜羽と一緒で……正直、現実感なんてとっくの昔に―――)
と、穂邑がそこまで考えた時。
部屋に鳴り響くチャイムの音―――突然の来客に穂邑は慌ててソファから飛び上がる。
「は、はーい! 今行きまーす!」
誰かはわからないが、この時間にやってくるとすれば絵留か香菜だろう、なんて楽観的な思考で穂邑は玄関へと早歩きで向かう。
そうして、ドアを開けた先にいたのは―――
「絵留?」
長い黒髪、学院の制服、見目麗しい顔付き。
間違いなく、それは三日月絵留、および黒月夜羽のものであったが、
「……いや、違う。君は誰だ?」
穂邑は一瞬でその違和感を看破する。
それもそのはず、彼女はつい最近になって髪を短く切っているのだ。
「三日月絵留はどこだ」
そして、そんな穂邑の指摘も必要ないと言わんばかりに、その少女は隠す気もなくそう口にして、
「所在を吐かなければ、お前をここで撃ち殺す」
胸元から自然な動作で取り出したそれを、穂邑のこめかみに向けて構えた。
「……絵留は、ここにはいないよ」
穂邑は驚くほど冷静な口調で言う。
「そんなことは解っている。必要なのはその所在だ。三日月絵留はどこにいる」
まるで機械的な言葉を放つ少女の仕草を見て、穂邑はひとつの事実を確信した。
「ミカエルシリーズ、だっけ。君はそのうちのひとり、だね?」
「答える必要はない。わたしは三日月絵留の所在を求めている」
「はは……絵留とは全然違う。これぞクローン、って感じの振る舞いだ」
茶化すように嘲笑う穂邑だったが、クローンの少女は動じない。
ただ与えられた任務を遂行する為に動くアンドロイドのように、少女は平坦な顔付きで銃を構え続ける。
「三日月絵留の所在を」
「言わないよ。悪いけど、僕にだって意地があるんでね」
「ならば撃ち殺す」
「まあまあ、そう言わないでよ。いつまでもそんな廊下に立ってちゃ―――」
そう言って、穂邑はチラリと部屋の外に視線を動かす。
その挙動を見過ごさなかったクローンの少女は、ぴくりと背後から迫る気配へ振り向いて、
「遅いぞ」
ゴンッ!! と、少女の脳天に強烈な拳の一撃。
そこに立っていたのは寮監―――濠野美咲であった。
「あっ、ぐっ……!?」
クローンの少女は奇襲に対応しきれず、その場に膝をつく。
そのまま、すかさず美咲が少女の手から銃を蹴り飛ばし、身体を床に押さえつけるようにしてのしかかった。
「……ふう。助かりました、美咲さん」
穂邑が冷や汗を拭いながら震えた声を出す。
先程までの冷静さはフェイク―――寮監である濠野美咲がここへ駆け付けると予想しての時間稼ぎの為だったのだ。
「監視カメラに銃を構えたこいつの姿が見えたからな。最初は三日月かとも思ったが、あまりに様子がおかしかった」
「流石です。こんなに早いとは思わなかったですよ」
「伊達に警備任されちゃいないからな。で、こいつは何者だ?」
「……たぶん、絵留と同じですよ」
穂邑はそこまで言って、少女を見下ろす。
「夜羽のクローン体。美咲さんも知ってると思いますけど、たぶんそのうちの一体です」
「こいつが……? なるほど、道理で似てるわけだ」
気絶している少女の身体を担ぎ上げながら、美咲は眉をひそめる。
「にしてもチャカとはな。ここ、日本だぞ」
「そっちの人からすれば珍しくもないんじゃないですか?」
「あのな。濠野組を何だと思って……まあ、見慣れないわけでもないが―――」
「その子、絵留を探していたみたいです」
「……三日月を?」
少女を抱きかかえている美咲に、穂邑は目を細めながら慎重な面向きで言う。
「任務……とか言ってました。あくまで狙われているのは僕じゃなく、絵留―――」
と、そこまで言って、穂邑はふと気付く。
「その子の頭……なにか、付いてません?」
少女の頭には小さく黒いヘッドセットのようなものが付いていた。目立たなかったので気付かなかったものの、それがただのヘッドセットではない事はすぐに察せられた。
「ああ、なんだこれ? カチューシャじゃあなくて……ヘッドセットか?」
「美咲さん、それ外せますか」
「ん、ああ……ほら」
少女の頭からヘッドセットを取り外すと、それを穂邑が受け取る。
「……特に何か聴こえるわけでもない。まさか音楽を聴いていたわけでもないだろうし、通信装置……とか……」
「なんだそれ、スパイ映画とかでよくありそうなヤツか?」
「わかりませんけど……なんだか、嫌な予感が―――」
そもそも、ミカエルシリーズは合計で十三体いる―――その事実がふと脳裏によぎり、穂邑はハッと目を見開いた。
「いや、待てよ……もし、そうだとするなら」
「オイオイ、なんだってんだ?」
「―――美咲さん! その子の拘束、任せます!」
「なっ……紅条!?」
穂邑はそれだけを言い残してその場から駆け出した。
目指すべきは四階、黒月夜羽の部屋―――
(僕の予感が正しければ……絵留が危ない……!)
―――襲撃は、すでに始まっていた。
◆◆◆
三日月絵留は、シャワーを浴びてからリビングでくつろいでいた。
ここはかつて黒月夜羽が暮らしていた寮の一室であり、現在はそのまま三日月絵留として学院生活に復帰した彼女の部屋となっている。
(なんだか、不思議な気分……)
実のところ、三日月絵留としての記憶を有してから彼女の生活に多大な変化が起きたわけではなかった。
これまでと同じく黒月夜羽としての生活リズム、ルーティーンをこなし、食事の好みなども特に影響を受けることもなく過ごしている。
ただ、同時に違和感があった。
超記憶症候群なんていう特性を持ちながら、それらに対しての些細な違和感が。
(わたしって、本当に黒月夜羽なの?)
記憶が人格を形成する大部分を締めていると言うのなら、今の自分は果たして黒月夜羽であると言えるのか?
三日月絵留として生きると決めたものの、記憶が消え去ることはないのは確かだ。それが彼女の生まれ持つ特性の所以であり、これからもそれは変わることはない。
だが、三日月絵留の記憶を得てから間違いなく彼女には変化が起きている。
肉体が覚えていても精神が拒絶することだってあるし、事実としてかつての冷めた考え方はおよそ無くなっているのだ。
すべてを記憶するという特性がそうさせているのか、はたまたそれが不完全であるかもしれないという暗示なのか。
―――などと、彼女は思考を巡らせては放棄する。
その繰り返しこそが矛盾であり、自己の否定であることに気が付かないまま。
(わたしは黒月夜羽。そうね、それは間違いない。でも、もう一方で確かにわたしは三日月絵留だっていう自覚もある)
ふう、と一息。
しかし、少女は考えることを辞めない。
(それなら、もしわたしの中にある黒月夜羽の記憶さえも複製されたものだとしたら? わたしにそれを確かめる術はあるの……?)
少女は知り得ない。
本当はその肉体がミカエルシリーズのプロトタイプとして作られたものであり、本物の黒月夜羽が別にいるということを。
そして、知り得ずとも憶測の上で真実に近付いていたのだということも。
(……なんてね。ちょっと悲観的過ぎるか)
自分には超記憶症候群がある。
この脳がかつての記憶をすべて覚えている以上、それは間違いなく黒月夜羽であるという証なのだ―――そう内心言い聞かせるように、少女は頭を振った。
(ずっと忌み嫌っていたものが、唯一縋ることのできる存在になる……なんて、皮肉にもほどがあるわね)
三日月絵留は、クローンでありながらもその特性を有していたが―――肉体亡き今、それを確かめる事はできない。
たった一年の記憶しか存在しない少女にとって、すべての出来事は覚えていて当たり前程度の認識でしかなかった。
故に、自分に何かしら特別な性質があるなんて考えもしなかったし、今更それに違和感を抱くこともないのだ。
(頭痛くなってきたし、ちょっと早いけど今日はもう寝て―――)
そんな彼女に忍び寄る、現実という名の悪夢。
同時刻、一階では穂邑の部屋へ襲撃があったことを、この時の彼女は知らない。
そして、
「……スマホに着信? 誰から―――」
彼女の予感が、
『聞こえますか。迎えに来ました』
その違和感が、
「迎えに……って、いったいどういう……?」
ここにきて、
『隠れていても無駄ですよ。貴女はわたし達によって連れ戻されるのです。ⅩⅢの記憶を持つ者、三日月絵留……いいえ―――』
的中する。
『ミカエル・プロトタイプ。貴女を迎えに来たのです』
「……、え?」
―――その日、少女は知る事になる。
自分が黒月夜羽でも三日月絵留でもない、作られた存在の一つに過ぎないという事を。