2話 現実は悪夢よりも残酷で
とある都市部の総合病院。
黒月夜羽、百瀬アリカの二人は待合室で顔を突き合わせながら座り込んでいた。
かれこれ一時間以上、二人はまともに会話も交わさぬまま黙り込んでいる。
百瀬財閥本社ビルにて起きた、百瀬源蔵の殺害―――凄惨な爆破事件。
すぐさまそれらは警察沙汰となり、現実は瞬く間に過ぎ去っていった。
百瀬源蔵はこめかみに銃弾を受け即死。
社長室含むその階層の一部分は爆発によって酷い有様になってしまった。
その現場に立ち会っていた百瀬アリカは奇跡的にもほぼ無傷。待合室にて腰を下ろしているその姿を見ても傷のひとつも見受けられない。
「……お姉さま」
ぼそり、と声を出したのはアリカだった。
夜羽はそれに反応するわけでもなく、ただ渋い顔をしながら地面を見つめている。
「あたくし……あたくしの、せいで……」
これまでまったく喋りすらしなかったアリカだったが、痺れを切らしてしまったのか、膝に載せた両手をわなわなと震わせながら口を開く。
「どうして……あたくしなんかを、お姉さまが……」
アリカが思い悩むのも無理はない。
彼女がこうして無傷でいられるのは、姉である百瀬百合花がその身を呈して庇ったからなのだった。
突然の出来事に呆然と立ち尽くしていたアリカの手を引き、社長室から飛び出すように逃げ出そうとして、
『お姉さまっ、なにを―――』
百合花は全身を使ってアリカを抱き締め、その背中で爆風を諸共に受けてしまったのである。
爆発によって襲撃者の少女は跡形もなくなり、銃弾で撃ち殺された源蔵の死体も黒焦げになって発見された。
騒ぎに駆けつけた社員達が見つけたのはそんな非現実的な状況と、爆風に吹き飛ばされた二人の少女。
百瀬百合花は背中にかけて全身が全焼、生死に関わる重症を負ってしまったのである。
「なんで……恨まれても、仕方ないこと……あたくしは……」
それからずっと、アリカは理解のできない感情に苛まれていた。
百瀬百合花の妹である彼女はこれまでずっと姉に対して劣等感のようなものを抱き続けていたのだが、時期当主の座を勝ち取る為、つい数日前に百合花の運営する茨薔薇女学院を奪おうと画策―――荒業とも言える強硬手段すら行使したものの、結局は百合花の手によって阻止されてしまう。
はたから見れば反抗期の妹によって起きた姉妹喧嘩のようなものではあったが、百合花にとって一大事であったのは間違いなく、その実、百合花は百瀬の当主としての権利を放棄してまで茨薔薇を取り戻すことを選択。
結果として、百瀬の次期当主はアリカの手に渡ったが、それを彼女自身は納得などしていなかった。
アリカはただ、百合花に勝ちたかった。
ずっと姉の背中を眺め続けてきた彼女は己の劣等感との決別こそを望んでいたのだ。
「あたくしより……お姉さまの、方が……」
前から解っていた。
自分よりも姉の方が優れている。
母親は自分こそが百瀬の娘だと言って疑わなかったが、父親は百合花のことを贔屓にしていた。
嫌だった。
比べられる事が嫌だったわけではない。
幼い頃から共に生きてきた姉を恨んでいたわけでもない。
『おかえりなさいませ、おねえさま!』
十年以上も前のこと。
まるで世界のすべてが敵だと思い込んでしまっているような顔をしている姉を、少しでも楽にしてあげたい―――幼心ながら、アリカは大好きな姉のことを想って出迎えて。
『こんなところでなにをしているの、アリカ。わたくしなんかに構っていないで、貴女は勉強でもしていなさい』
その時の百合花は、ただひとりの姉妹であるアリカの事でさえも冷たく鋭い目で睨んでいて。
『……は、はい。ごめんなさい、おねえさま』
その時、アリカは気付いてしまった。
姉の見ている『世界』の中に自分も含まれていて、姉に劣っている自分にできることなど何一つとしてありはしないのだ、と。
「あたくしを抱き締めてくれたことなんて、これまで一度もなかったのに……!」
静まり返った待合室で、アリカの独白だけが響き渡る。
それを聞いている夜羽は何も言わないままだったが、その表情には薄っすらと変化が見て取れた。
「どうせなら……あたくしが……」
自らのやった行いに後悔はない。
茨薔薇を奪い、百合花の実権を奪い、百瀬当主としての地位を手に入れる。
それが姉に勝つ唯一の方法だと思っていたし、それこそが自分のすべき事だと信じていた。
本来なら恨まれても仕方のないこと。
だと言うのに、百合花は百瀬と縁を切ったばかりか、身を呈してアリカを守り通した。
……今更になって、何故?
その理由が理解できなくて、アリカの思考はひたすら困惑し続けている。
「わからない……わからないですわよ、お姉さま……!」
完璧に叩き伏せるつもりで戦った。
姉の大切なものをすべて奪い取り、妹である自分の方が優れていると思い知らせる為に行動した。
それはただ自分の為だ。
これまでずっと苦しい思いをしてきたアリカの最初で最後の反抗期―――そうなるはずだったのに。
「これじゃ、何の意味も……」
アリカの悲痛な呟きは止まらない。
これまで黙り込んでいたのが嘘のように、どんどんと言葉が溢れていく。
「ねえ、アリカ」
そんな彼女に、夜羽が静かに声を掛ける。
しかし、アリカは気付く様子もなく、ぶつぶつと独り言を繰り返して―――
「アリカ!」
しびれを切らした夜羽が、すぐそばで怒声を放つ。
「ひゃぁ!? ……よ、夜羽さん。何ですの?」
アリカは驚いた表情で夜羽の方へ顔を上げると、
「どうやら百合花の治療が終わったみたいよ。今すぐ面会できるかは解らないけど、わたしは行ってくる」
「ほっ、本当に!? あ、あたくしも行きますわ!!」
先に立ち上がって今にも立ち去ろうとしている夜羽の背中を追うように、アリカもまた勢いよく腰を上げるのだった。
◆◆◆
病室では百合花がベッドの上で眠っていた。
寝息は安定しており、目立った外傷は見られない。実際、怪我を負ったのは背中回りなので見えるわけもないのだが―――
「お姉さま……こんな、痛ましい……」
アリカは現実を直視し、両手で顔を覆う。
そんな中、夜羽は百合花の手を握りながら、
「大丈夫よ、百合花。わたしが全部、終わらせるから」
震えた声、しかし強い意思の込められた言葉で言う。
「夜羽さん……?」
「アリカ、貴女は何も悪くなんてない。これはわたしの責任。黒月の犯した罪よ」
「それは―――」
夜羽と似た風貌の少女。
あれは紛れもない偽物、クローン体のひとつ。
ミカエルシリーズ、ナンバーⅥ。
黒月が生み出した負の遺産であり、夜羽にとっても無関係ではない存在。
それが起こした事件によって源蔵は死亡、百合花は重症を負ってしまった。
つまり、この事件の裏側には間違いなく黒月が関わっている。
「エンジェル・ラダー計画……。結局なんの事かは解らないままだったけれど、その存在を知る百瀬源蔵を消す為にアレが動いていたとしたら……」
ミカエルシリーズは全部で十三体。
そのうちの一体であるⅩⅢ、三日月絵留は死亡している。実際はその記憶を持っているプロトタイプが生存しているとはいえ、彼女がこの計画に関わっているとは思えない。
そして、六番目は任務遂行と共に自爆した。恐らく証拠隠滅の為であり、短命である事を利用した使い捨ての駒として扱われたのだろう。
となると、残りは十一体。
それらが同じように行動し、何かしらの事件を起こそうとしていると考えても不思議ではないはず。
―――と、夜羽はそこまで逡巡し、これから自分が何をすべきかを思考する。
「直接……乗り込むしかなさそうね」
ふう、と一息。
夜羽は覚悟を決めた表情で、百合花の手をそっと離すと、背後で見つめているアリカの方へと向き直った。
「アリカ。貴女は百合花の傍にいて」
「夜羽さん、いったい何をするおつもりですの……?」
不安そうな顔で問うアリカに答える事もなく、夜羽はその横を通り過ぎて―――
「ケジメ、付けに行くのよ」
ただそれだけを言い残し、病室から出て行くのであった。
◆◆◆
病室に残されたアリカは、ベッドの傍にある椅子に腰掛けて、静かに眠っている姉の寝顔を眺め続けていた。
彼女は事件の内情をほとんど知らない。
あの場に現れたのが夜羽のクローンであるミカエルシリーズであることは解ったし、父の源蔵が撃ち殺されたことも理解している。
……だが、それまでだ。
エンジェル・ラダー計画という単語についてはピンと来ないし、これから夜羽が何をしようとしているのか、自分が何をするべきなのか、まったくもって理解が及んでいなかった。
姉が自分を守って傷付いたことについても、未だに納得なんてしていない。
「お姉さま……あたくしは、どうすれば……」
本当は夜羽に付いて行きたかった。
今回の事件についてもっと詳しく知りたいし、父親を殺され、姉をこんな目にあわせた連中に対して報復をしてやりたい気持ちで一杯だった。
これでも百瀬の次期当主―――父が死んだ以上、本当の当主となるのも時間の問題かもしれないが―――なのだし、責任は自分にもあると感じているのも確かだ。
けれど、姉を一人には出来ない。
夜羽にも『百合花の傍にいて』と言われた手前、自分がここを離れるわけにもいかないのだ。
アリカは歯噛みをしながら苦悶の表情を浮かべる。
「どうせなら……あたくしが、お姉さまの代わりに……」
痛いのも、苦しいのも嫌だけれど。
今のこの辛さに比べれば、いっそのこと自分が姉を守れたら良かったのに―――なんて、アリカは自分でも驚くような感情に苛まれていて。
「……ばか、ね。百瀬の……正当な、跡継ぎが……そんな事を言っては……いけません、わよ……?」
声がして。
アリカがハッとして顔を上げると、百合花が目を覚ましている事に気が付いた。
「お、お姉さま……!?」
「アリカ。あれから……どう、なりましたの……?」
今にも力尽きてしまいそうなほどに掠れた声で、百合花はアリカに向けて問い掛ける。
「ええと、その……お父さまが、撃たれて……」
「―――ああ、やはり。悪夢などでは、なかったのね……。ぐっ……!」
百合花が身体を起こそうとするも、痛みに顔を歪ませてそのままベッドに倒れ込む。
「お姉さま、無理をされては……!」
「ハァ、ハァ……大丈夫ですわ。これぐらい……」
それが強がりである事はアリカにもすぐ解った。
慌ててナースコールを鳴らし、苦しそうに呼吸を繰り返す姉をしっかりとベッドに寝かしつけ直す。
「ふふっ……なんだか、新鮮な……」
「お姉さま、あまり喋らないで下さい。ただでさえ重症なのですから」
「ねえ、アリカ……わたくし、ちゃんと守れたかしら……」
「えっ?」
百合花が傍に寄ってきたアリカの頬へ右手を伸ばす。
「アリカは……どこも、痛くない……?」
「な、何を―――」
アリカは困惑する。
一番苦しいのは百合花のはずだと言うのに、それでも彼女は自分の身を案じてくれている。
これまでまともに姉の愛情を受けてこなかったアリカは、わけが解らなくなって―――
「お姉、さまは……どうして……」
ただ純粋に、自らの疑問を口にする。
「どうして、あたくしを守って下さったのですか……!」
そんなアリカの言葉に、百合花は目を丸くして、
「……そう、よね。今更だって……思う、わよね」
天井を見上げて。
誰にともなく語りかけるように。
「わたくしのことを……恨んで、いるのでしょう。ずっと姉らしいことなんて、何も……してこなくて……」
「それは―――」
「八つ当たりみたいなことも、したし……貴女の事なんて、考えてなくて……自分のことばかり……考えてきたから……」
それは違う、と。
たった一言伝えれば良いだけなのに、アリカにはそれが出来なかった。
彼女が姉に対して行った事は、決して許されるべき事ではなかったから。
……いや。
許されないと解っていて、自らの劣等感、そして姉という壁を乗り越える為の反抗だったからこそ、そこに後悔など持ち合わせるべきではないと思っていたから。
「せめて、少しは……姉らしい事を、しようと……思って……」
「なんで、そんなこと……あたくしは、そんなの望んでなんか―――」
「……ええ、そうね。これは……わたくしのエゴに過ぎません。ただの、自己満足……です」
そこまで言って、百合花は再び目を閉じる。
けれど、アリカの頬へ伸ばされた手はそのまま触れ続けていて。
「お姉さま……?」
「エンジェル・ラダー計画は……黒月が極秘裏に進めていたもの……そう、お父様から教わりました」
目を細め、百合花は強い眼差しでアリカを見つめ直す。
「お父様亡き今、事の真相を見極める術は限られている……」
「まさか、夜羽さんはそれを?」
「そうだとすれば……きっと、夜羽もただでは済みません。彼女もまた、その計画については何も知らされていなかったから」
「そんな……もし、またあんな事があったら……!」
源蔵を殺した少女の姿がアリカの脳内にフラッシュバックする。
あまりに現実離れした光景。悪夢と思い違えてしまうのも無理はない。
「わたくしは……もう、動けません。となれば……夜羽を手助けできるのは……」
百合花の目が、アリカを見据える。
言葉ではなく視線で訴えかけているのだろう。流石のアリカでもそれくらいの事はすぐに解った。
「では、白百合の騎士を動員して―――」
「いいえ。今、百瀬は極限のパニック状態に陥っていますわ。お父様……百瀬財閥社長、百瀬源蔵は死去。となれば恐らく百瀬は機能しない……」
「ですが、お姉さま。あたくし一人では……!」
「……事件を解決するのではありません。夜羽を、助けてあげてほしいの……それだけよ」
「で、でも……あれが黒月の陰謀だとすれば、夜羽さんだって―――」
そこまで言ってアリカは思い返す。
覚悟を決めた表情で立ち去った、黒月夜羽の事を。
「ケジメって……もしかして、そういう……?」
「アリカ。今から言う事を、良く聞いて」
「……え?」
「わたくしは本当は黒月の娘。そして、お父様はこうも言っていたわ。エンジェル・ラダー計画にはわたくし、そしてアリカもまた関わりがある、と」
「あたくしと……お姉さまが……?」
「ええ。だからきっと、まだ終わりではない。夜羽は大事になる前に何とかしようとするでしょう。でも、きっと彼女一人では手に負えない。だから―――」
百合花は右手を今度はアリカの手に重ねて、それを強く握り締める。
「―――アリカ。貴女に、託します」
そう言い、薄っすらと笑みを浮かべて。
百合花はアリカの返事を待つこともなく、再び目を閉じて静かに眠ってしまうのだった。
「お姉さま……」
握られていた手がするりと抜けそうになって。
アリカはそれを両手で握り返し、そのぬくもりを確かめながら。
「あたくしに出来るかは解りません。でも―――」
先程までとは違う、どこか決意に満ちた表情で。
「―――きっと。成し遂げてみせますわ」
一人の少女が立ち上がる。
己の道を進むため。
守られる者ではなく、守る者として。
―――少女は、想う。
(大丈夫、あたくしにだってできる。だって、あたくしは百瀬アリカなのだから)
それが、少女の戦いの始まりだった。