幕裏 百瀬百合花/9
翌日の早朝、話し合いの最中に異変は起きた。
紅条穂邑が唐突に倒れたかと思えば、しばらくして彼女は立ち上がり、これまでの記憶を取り戻していたのだ。
いったい何が決め手になったのかは解らなかった。
穂邑の中で様々な葛藤があり、記憶を取り戻す為のきっかけが重なっていって、ようやく全てが合致した結果なのかもしれない。
そうして、再び濠野の当主である咲耶との会合を終え、ついにわたくし達は行動を起こす事となった。
百瀬と黒月の陰謀を阻止すること。
人身御供となっているアリカを救出し、計画の要である天使の棺を破壊して―――
「さあ。行きましょう、皆さん」
―――今度こそ、自由を取り戻すのだ。
◆◆◆
わたくしは美咲さんの運転する車に揺られ、百瀬本家へと向かっていた。
目的はもちろん百瀬と黒月の同盟に関して問い詰めること、そしてそれを破綻させること。
その為の鍵は、この身に宿った血液そのものである。
「百瀬。アタシが言えた義理じゃあないかも知れないが、ひとつだけ……良いか?」
前を向いて真剣な面向きで運転を続ける美咲が、助手席に佇むわたくしへと声を掛ける。
「……はい」
何を言われるのかは正直のところ解らなかったが、彼女の声色からは不安や戸惑いのようなものが入り混じっている―――そんな印象を受けた。
「アタシは三年前、お前に救われた。何もかも嫌になって行き場を失くしていたアタシを、お前は何も聞かずに誘ってくれた。居場所をくれた。成すべき事を与えてくれた。それもただの家出娘の隠れ蓑なんかじゃあない……しっかりとした土台を、胸を張って誇れるような『仕事』として、お前はアタシの道を示してくれた」
「美咲さん……?」
「……アタシはさ。こんな人間だから、濠野の跡取りだとかお嬢だとかって持ち上げられても嬉しくなんてなかったよ。周りの目はいつもプレッシャーでしかなくて、自分のすべき事から逃げ続けてきたんだ。妹の摩咲をバカだのと蔑んでいるけど、実際にバカなのはアタシ自身なのさ」
それは、どこか懺悔のようにも聞こえて。
だからこそ、何か口を挟む気にもなれなかった。
「そんなアタシを掬い上げてくれた人間、それがお前だ百瀬。お前はアタシとは違って常に上を目指していた。妹との権力争いにも真っ向から立ち向かって、決して負けないと凛とした姿勢を崩さずにい続けた。結果としてアリカはお前に立ちふさがって、その道を阻もうと牙を剥いてやがる。だってのに、お前は折れる事なくこうして立ち向かっている……」
美咲さんは少し、わたくしの事を買いかぶりすぎていると思う。本当は一人では何も出来ない臆病者であって、穂邑や夜羽たちがいなければ今頃はアリカの足下に跪いているかもしれないのだ。
でも、そう言って反論しようとは思えなかった。
それは、わたくしを認めてくれている濠野美咲という人間への侮辱に成り得ると感じたから。
「あー……その、なんだ。だから何ってワケでもないんだが……」
美咲は気恥しそうに言葉を濁らせて、
「お前が何をしようとしているのかなんて解らないし、聞くつもりもない。百瀬との縁を切るなんて正気を疑ったが、きっとそれもお前の中では確固たる意志の元に決められた事なんだろう。アタシが必要以上に口を出す理由なんてないさ。けどな―――」
それでも、その眼はまっすぐに前を見据えていて。
「お前が百瀬じゃなくなっても、アタシは絶対にお前を見捨てたりなんかしない。母上や濠野家そのものが百瀬という家柄に対して『義』を捧げているだけだったとしても、アタシ個人は百瀬―――いや、百合花の味方であり続ける」
百合花、と名前で初めて呼ばれた事に少し動揺してしまったが、わたくしはそれでも真剣に彼女の言葉を待って―――
「……だから、思いっきりやってこい。今度は、アタシがお前の居場所を守る番だ」
「はい……!」
美咲は、わたくしが彼女を救ったのだと言ったけれど、きっとそれは少しだけ違う。
わたくし達は誰もがみんな救い合っている。ひとりで何かを成し遂げるなんて不可能なのだ。
濠野美咲という人間にとって百瀬百合花という人間が必要であったように、その逆もまた然り。
「……さあ、そろそろ着くぞ。心の準備は万全か?」
「勿論ですわ。成すべき事はひとつですから」
わたくしの事を支えてくれる人がいる。
それだけで、前に進む勇気が湧いてくるのだ。
◆◆◆
百瀬本家、つまり『百瀬財閥』の本社とも呼ぶべき高層タワービル。
あらゆる分野における専用オフィスを各階に儲けており、最上階に百瀬当主である父―――百瀬源蔵の住まう居住区画が存在する。
社長室として設けられたその場所へ向かうには、直通の社長用エレベーターを経由しなければならない。当然、例え社員であっても簡単には使用できないものになる。
しかし、わたくし―――百瀬百合花ともなれば話は別である。
一階のロビーへ堂々と足を踏み入れ、受付をスルーしてそのままエレベーター前へと向かう。途中にあるカードリーダーに専用のカードをかざしてロックを解除、一直線に社長室目指して歩みを進めた。
「ゆ、百合花様……!? この度はどのようなご用件で―――」
今になって気付いた受付嬢が声を掛けてくるが無視。
一階に止まっていたエレベーターにそそくさと乗り込んで、わたくしは最上階にある社長室へと向かった。
―――そうして、瞬く間に。
エレベーターは社長室へと辿り着き、その扉が開かれて。
「……百合花か。何の連絡も寄越さずにいきなりやってくるとはな」
そこにいたのは、父―――百瀬源蔵。
「お父様。お話がございます」
「言わずとも良い。大方察しは付いている。亜里華の事だな?」
「はい。……いえ、それだけではなく」
わたくしは震える手を強く握りしめ、社長室の奥―――椅子に座ってこちらを睨みつけている男、父である源蔵のもとへと歩み寄っていく。
「百瀬と黒月の同盟。これについての詳細を」
余計な前置きは無駄だと判断し、わたくしは確信を突く質問を投げかけようとして―――
「なんだ、それは?」
―――父の反応は、意外なものだった。
「……! お父様、ご存知ないのですか……?」
「百瀬が何故、黒月などと手を組まなければならない? いったいどこの誰に吹き込まれたのだ?」
「それは……アリカが……」
「なんだ、くだらない姉妹ゲンカの事か。どうせ亜里華がありもしないことを口にしたのだろう。―――ハッ、笑わせる。黒月と同盟だと? 口から出任せだったとしても笑えん冗談だ」
意味が解らない。
百瀬と黒月の同盟とはアリカの虚言だったのか?
「しかし、それでは何故あの子……アリカが茨薔薇に?」
「姉妹ゲンカ……いや、ゲームと呼ぶべきか。亜里華は百瀬の後継者として認められる為に藻掻いているのだろう。可愛らしい抵抗ではないか。百合花、お前ほどの才は亜里華には眩しく見えるのだろうよ」
「では、やはりアリカの独断で……? ですが、白百合を引き連れているのは―――」
「ああ、それなら貸し与えた。あまりに可愛くねだるものだから、つい甘やかしてしまってなあ」
……理解が追いつかない。
この百瀬源蔵という男は確かに娘に甘いところがある。風格は強面でガタイも良く、普段はとても厳しい人間で社員達からは恐れられているほどだが、娘に対しては甘い―――というよりは、その意思を尊重している風に感じる。
だからこそ、わたくしも地道に個人財産、つまり資金を増やして茨薔薇を創設させるまでに至れたし、あの土地を快く貸し与えてくれたのも、紛れもないこの父なのだ。
……しかし、黒月との同盟が虚言だなんて。
あまりの事実にわたくしは言葉を失ってしまっていると、源蔵は眉をひそめて―――
「百合花よ。まさか、お前ほどの者が亜里華にしてやられた訳ではあるまい?」
「……いえ。まだ諦めてはいません。その為にここまでやってきたのです」
「ほう。お前が俺に頼るなど珍しい事もあるものだ。そうだな……三年前、茨薔薇の敷地を寄越せと言ってきた時以来か」
「お父様。本当に、百瀬と黒月は手を結んでいないのでしょうか?」
わたくしの言葉に、源蔵は深く溜め息を吐く。
「くどい。何度も言わせるな。少なくとも俺は関与していない」
「お父様は……ということは、お母様……?」
「あいつは今ロスに出張中だ。こちらに手回しする暇などないだろうな」
「では、やはり黒月とは……無関係だと……?」
わたくしが困惑していると、父は顎ひげを右手で触りながら言う。
「亜里華の独断ではない、そうだな?」
「は、はい。少なくともそう信じておりましたが……」
本当は、違っていたのか?
アリカの言う通り、彼女が主体となって事を引き起こしているとでも……?
「であるならば、可能性はひとつしかあるまい」
と、そこで父は何かに気付いた様子を見せる。
「……それは、いったい?」
わたくしは恐る恐る問い掛ける。
そうして、返ってきた言葉は―――
「エンジェル・ラダー計画」
とても、理解のできない単語であった。
「エンジェル……それは何なのです?」
「黒月が極秘裏に進めていた計画だ。といっても、三年前には中止になっていた筈だがな」
「それが……関係していると?」
「何を隠そう、その計画には百瀬も携わっていたのだ。とはいえ、あまりの荒唐無稽さに結果としては破綻し、俺―――いや、百瀬の関与も中止となったが」
百瀬と黒月の同盟は三年前のもの……?
まさか、それが今になって持ち出されたとでも言うのだろうか。
「となると、亜里華を誑かした何者かが居る可能性が高い。まあ、ほぼ間違いなく黒月の人間だろうが」
「その計画とはいったい……?」
わたくしが問うと、父は苦虫を噛み潰したような顔をして、
「それは……お前の生まれにも関わる事だ」
「わたくしの……?」
生まれ―――つまり、血縁のことか。
自身が黒月で生まれたことについては既に調べが付いているが、それが何かしらの計画に関係しているとまでは確証が持てないままだった。
「……それは、わたくしが黒月の娘である事と何か関係が?」
「ああ。……やはり、知っていたか」
父はあまり動じてはいなかった。
その口ぶりから察するに、わたくしが勘付いている事も既に知っていたのだろう。
「しかし……となると、面倒なことになったな」
「面倒、ですか?」
「そうだ。三年前の計画……黒月がアレを諦めていなかったのだとすると、厄介な事になりかねん」
段々と険しくなっていく父の表情を見て、わたくしは事の大きさを実感し始めていく。
普段からどんな事にも動じない荘厳な父である百瀬源蔵が、これほどまでに―――
「ただの姉妹ゲンカだと思って楽観視していたが。……なるほど、これは俺の迂闊だな」
「お父様。わたくしは、アリカを……!」
「解っている。こちらでも探りを入れてみよう。百合花、お前は自分の意思で動くがいい」
「その事なのですが、アリカを説得する方法として、ひとつ提案があるのです―――」
そうして、わたくしは語った。
後継者として認められたいアリカを説得するには、わたくし自身が舞台から降りなければならない。その為に百瀬との縁を切りに来た、と。
そんなわたくしの話を聞いて、父は―――
「お前の覚悟は伝わった。だがな百合花、意図はどうであれ、お前は百瀬の長女だ。その事に変わりはない。俺はその為にお前を養子として迎え入れたし、そうすべく教育を施してきた。贔屓にならぬよう亜里華も同様に育ててきたものの、跡取りの席はお前のものになるだろうと踏んでいた」
「まさか、そんな。わたくしは……!」
「すまんな。今更だが、もっと早くお前と腹を割って話しておけば良かったと後悔しているところだ。……だが、既に事は起きている。どうやら俺達の知らぬ存ぜぬ場所で、賽は投げられたようだ」
「それでは、これからどうすれば―――」
……わからない。
まさか百瀬当主ですら関与していない事柄だったとは思わなかった。
「エンジェル・ラダー計画について話す前に、まずは亜里華を説き伏せる必要があるだろう」
「では……?」
「ああ。形式だけ、一時的にお前を百瀬の後継者候補から外す。その見返りとして茨薔薇の敷地を完全に譲渡し、学院長の座を正式に譲り渡す。亜里華が地位と茨薔薇、その二つのみに拘っているのであれば説得は容易になるだろう」
「それは、どういう―――」
一時的に、ということは、わたくしは百瀬のままであることに変わりはないと言う事だろうか。
まさかの展開に驚きを隠せないが、言葉を鵜呑みにすればこれほどわたくしにとって好都合な条件はなかった。
「亜里華を黙らせ、その背後にあるものを確かめろ。もしもそれが黒月……三年前に破却されたはずの計画そのものであるとすれば、百瀬も黙ってはいられない」
「では、そうなればお父様が?」
「……いや、この件に関しては少し複雑でな。手回しはするが、それだけで黒月の動きを止められるとは思えん。同盟―――と言えば聞こえは良いが、当時の百瀬はほとんど黒月の手駒、都合の良い資金源に過ぎない立ち位置だった」
「それも、わたくしが関係しているのですね?」
「……そうだ。詳しくは亜里華を連れてきてから話そう。もしも黒月が再び過去のあやまちを繰り返そうとしているのなら、百合花……お前も、覚悟を決めねばならんかもしれん」
……そうして、わたくしと父の会合は終わった。
予想外の事態に戸惑いつつも、わたくしは真実を見極める為、茨薔薇へと舞い戻るのだった。
黒月の謎―――エンジェル・ラダー計画とは?
三年前、百瀬と黒月の間で何が起きたのか?
アリカの裏に潜む影、その真実とは?
―――ここから、わたくしの本当の戦いが始まる。