急転
「緊急事態だ。」
約半日の休暇を終え、出発の準備を整えてカイナン商事ドルン事務所を訪ねたアデル達を迎えたのは予想外で不穏な言葉だった。
正体不明の存在との接触――は一旦置いておいて、当初の目的である温泉を堪能したアデルらは、何とか門限前にドルンへ戻る事が出来た。もう一つの目的であったアンナと精霊の交流は、どうやら例の闇精霊使いに怯えたか、姿を現してはくれなかったようだ。その後、荷物を整理し準備万端整えてコローナに帰るべく出向いた矢先に向けられた言葉がこれであった。
商会の者たちは全員すでに準備を終えており、結果としてアデル達は雇い主たちを待たせる格好になってしまったが、これは「朝早く」としか伝えられていなかった為仕方のないことではある。現在時刻はまだ6時なのだ。標高の高い位置にあるドルンの秋はもう十分に寒い。
「緊急事態?」
不穏な言葉にアデルは聞き返すと、さらに不穏な言葉が返ってくる。
「ああ。さらにここから先の話は他言無用の極秘情報だ。」
「…………」
訊ねていいものなのかアデルが決めかねていると、ナミは勝手に話を進めてしまう。
「フィンが大規模な軍を編成しているそうだ。主力将校の顔ぶれを見るに、その目的地は十中八九東。グランだ。現時点で2万を超え、さらに数を集めているとの話だ。」
「2万ですか……」
2万――アデルとしては大軍であることはわかるが、具体的な数のイメージはつかめない。ただ先だってのノール城奪還の軍が5000くらいであったなら、単純にその4倍。それが全て一つの戦場で激突することはないとしても、相当な数であることは間違いなさそうだ。
「まあ、いきなり2万と言われてもピンとこないか。ただ一つ言える事は……
数年前の――いや、私らが参加していた15年前、グラン王国が最大限の規模を動員できていた当時であったとしても勝つのは難しいだろう。今の分裂状態のグランでは手も足も出せないだろうな。」
「……なるほど。それでどうします?」
「正直、現状ではどうも出来ない。だから出来る範囲で“うち”にとって一番有利になる様に動く。」
「まずは帰還?――それなら緊急事態も何もないか。」
「ああ。できれば――で、いいんだが、あんたらに頼みたい事がある。」
「依頼の追加?変更ですか?ブラバドさんに文句言わればばっかりなんじゃ?」
「今回はちゃんとブラーバ亭にも手回しするさ。尤も、ブラーバ亭――コローナも他人事じゃすまないだろうしな。」
「一応聞くだけ聞きますが……」
「アデルには――そうだな。このまま南に向かい、今のうちにグラマーで“妹”をコローナまで連れ帰ってもらいたい。」
「妹?ナミさんの?」
「いや、お前のだ。」
「え?」
不意のナミの言葉にアデルは困惑する。今の状況で迎えに行くべき“妹”と言えば、テラリアの開拓村のお隣さんだった狐人の“妹”だけだ。しかし、それをナミが知っているとは到底思えない。いや、フィンの最新情報まですぐに届くナミの情報網なら分っているのか?
「察しが悪いねぇ。」
アデルが困惑しているとナミが悪戯の後っぽい笑いを浮かべて呟く。
「何をどう察しろと。」
若干憮然としたアデルを見てナミは逆に少し肩の力を抜き――
「お前の妹として連れ出せって話さ。」
察せるかそんなもん。アデルは思わず口から声がでかかったがなんとか飲み込む。
「ちょっと特殊な子でね。“うちにいなくちゃ困る”というか、“何かあったらうちが色々困る”子なんだ。」
「まさか犯罪者じゃないですよね?」
「少なくとも法は犯してないから安心してくれ。」
遠回しな言い方に若干不安を覚える。
「今後の方針と展望を聞かせて下さい。あと依頼の条件か。」
「ほう。面白い事を聞くね。まあいいだろう。うちの方針は基本現状維持だ。私は引き続き交渉にあたり、ヴェン達はまずは今回の見本物品を持ち帰り、交易開始に備える。グランは――フィンの本格的な侵攻が始まれば半年は持たないだろう。そうなるとコローナの物資も、港を通ってくる物を中心に流れが滞って来るだろうね。遅かれ早かれ介入せざるを得なくなるだろう。」
「なんですと?」
「そりゃそうなるだろう?グランがフィンの手に落ちれば……そうだね。確かにコローナならいきなり食うに困る様な事にはならないだろうが、塩を始めいろんなものが止る、少なくとも値段は跳ね上がる。流石にそうなってくれば、非常事態宣言を出して国が物流を管理する様になるだろうが……まあ、そこから先はお偉方の領分だね。ただ一つ言えるのは、農業国でないドルケンはグランからの物資が止まるとさぞかし困るだろうねぇ?」
「大軍の動きなんて、いずれすぐ分かると思ったらそれで極秘情報ですか……それじゃあ、塩を買占めですか?」
「この状況で塩の買占めなんてすりゃ、国内外、取引先や現地でも敵しか増えないさ。もちろん、それとなく多めに確保する様にはするがね。その辺はいろんなものを織り交ぜてうまくやるのさ。それに塩だと陸路で運べる程度の量を売ったところで売り上げに税を取られたら大した儲けにならないしね。もし、あんたが本格的に商売人になりたいってなら、この依頼の後に教えてやってもいいがね。」
「むう……」
商才、特に交渉系の才能は自分でもないと自覚しているアデルは返事に困る。ただ、元手と信頼できる取引先を確保できれば冒険者よりもリターンも大きいというのもここ数回の同行で分かっている。
「まあ、それもあとだ。先ずは“妹”の保護だね。報酬は今の依頼に追加で3000、失敗は許されないが、成功すれば成功報酬としてさらに5000だ。南へ向かう道案内は既に手配済み。あんた達なら問題ないだろう。但し、そいつらにあんたらの報酬と目的は言うなよ?ただグランに行きたいとだけ言えばいい。ドルケン内での入国許可証は昨日の奴をあんたらにそのまま預ける。グランの国境に関してはすでに用意できている。今ならまだ問題なく出入りできる筈だ。やってくれるかい?」
「……やりましょう。ただ、一つだけ追加の報酬をお願いしたいのですが……」
「……聞くだけ聞くよ。」
「コローナに戻ってからで構いません。精霊魔法に詳しく、また他人に教えてくれる人を探してもらえませんか?多少なら金を取る様な相手でも構いません。」
「……アンナのためかい。いいだろう。それじゃ、あんた達がグランに行くってことでいいんだね?」
「はい。」
「よし。なら全員行動開始だ。まずあんたらは、“鷲獅子の翼亭”という冒険者の店でこれを提示しな。すでに案内役の冒険者は手配してある。あとはグラマーに行き、うちの支店の長にこれを渡せ。あとこれがグランへの入国許可証だ。ドルケンの冒険者たちはグランとの国境までしか同行しない。グランに入ってからは自分たちで考えて動いてくれ。とにかく可及的速やかにってやつだ。そうだ。これはサービスだ。」
ナミは早口に捲し立て、ドルンの冒険者の店への依頼票控、グラン王国の入国許可証、そしてグランの詳細な地図を手渡してくる。一般に売られている、単純な都市や地形の配置だけでなく、等高線である程度の高低差まで分かる代物だ。
「地図は……結構な貴重品だ。失くすのはもっての外、なるべく他人にも見せないようにしろ。特にこれからのご時世、重要な軍事資料になりうる代物だ。」
「わかりました。」
「それじゃ、この依頼の前金だ。あとは全部ブラーバ亭を通すようにするから――必ずコローナ王都まで戻るんだ。いいな?」
「はい。あ、それじゃこちらもその前に。」
「む?」
この町の防具店……もし取引するなら次に照会しますが……雇い主の商人に1枚渡してくれと。ワイバーンレザーの素材の見本だそうです。」
「ほう?素材の状態でか。ふふ。まあ、私はすでに持ってるんだがな。」
「え?」
「ワイバーンレザーアーマー。最近はずっとこれだよ。なかなかいい物さ。」
「それじゃあこれ要らない感じですか?」
「いや、“うちと積極的に取引する気がある”って意思表示と紹介状みたいなものだ。気に入られたみたいだな。せっかくだ有り難く受け取っておこう。どこの店だ?」
「そう言えば店名確認してなかったような……ネージュ。地図を書けるか?だいたいでいい。」
「む?まあ、何となくなら。あの辺に他の防具屋はなかったからわかるんじゃない?」
ネージュが簡単に地図を描くとそれを見たナミは少し驚いた様子でその地図と見本素材を受け取った。
「お前さん、意外と仕入れの営業には向いてるかもしれんなぁ?よし。全員行動に移れ!」
ナミの号令が響くと同時に、カイナン商事の面々は慌しく動き出したのである。
やがて訪れるであろう、大乱に備えて。




