狂乱
少なくない数の凶鳥の魔力のこもった声が想像を絶する不協和音となってエストリア全体に響き渡った。
直前になんとか身構えることが出来たアデルは何とか錯乱状態に陥る闇の声に抵抗する事ができていた。
アデルはすぐにブリュンヴィンドの反応を確かめ異常がないことを確認すると、すぐに地上の様子を覗う。
地上の様子は様々だ。
まず東門の外。ラウルらを始めとして精鋭だけで固めた遊撃部隊は“動きがない”。しかし野戦の真っ最中である中でそれは異常事態だ。文字通り“動きがない”のである。錯乱は何とか免れたようだが、立ちすくんでいる者が少なからずいる。そこへ半狂乱となった妖魔の群れが蜘蛛の子を散らす様に様々方向へと走り出す。勿論、武器は持ったままだ。
部隊長らしいオーガが大声を上げると、ゴブリンやオークたちは一瞬ビクっと動きを止め、今度はあろうことか我先にと門へと突っ込もうとし出す。そこに先程迄見せていた“包囲する”というような動きの統率はなく、ただ単純に理屈なしで衝動的に門へと押し寄せているようみ見える。狭き門?妖魔の目にそんなものはない。
「まずいぞ!」
「なんだこれは!?」
すぐに異常を察知したのはラウルだ。いや、そのラウルらに“静穏”の魔法を掛けたブランシュだ。
「門がヤバいぞ!外の部隊!速やかに門に戻れ!」
次いで状況を察知したアリオンの声が響く。しかしラウルらを除き、その声に反応できる者はいない。
「ここまでか……!」
下の様子を見てアデルが声を上げる。ユナが幻視した光景。オルタ達こそこの場にいないもの、あの説明通りの光景が今まさに始まろうとしていた。
妖魔共はオーガに追い立てられ、門の防衛などお構いなしに一心不乱に街へ侵入しようと突撃を始めた。
それは臆病で狡猾なゴブリンどもを強引に特攻させている。そんな風に見える。
アデルは脇を確認する。ネージュは平気そうだ。しかしアンナは地上の者たちと同様に“動きが止って”いる。姿勢の維持は無意識に行っているのか、翼だけは動いていて墜落の心配はなさそうだが……
アデルは慌ててアンナの腰を抱き一度門の内側へと入る。
東門の内側の兵は……やはりただ立ち尽くしている。事前のアデルの声で多少の抵抗は出来たのだろうか、錯乱に陥っている者こそほとんどいないが、その大半が棒立ちだ。中には完全に抵抗できたものもいる様で、動きのない周囲の者たちを叩き、正気づかせている者もいる。
頬を強く叩かれ、我に返った者が慌てて隣の者の頬を叩くという波が起こりつつあった。
「殿下?」
マリアンヌも同様に動きが止っていた。
「まずいか?失礼!」
アデルは背中に張り付いているマリアンヌの肩を軽くゆすってみる。するとマリアンヌもはっと我に返り、すぐに自分の取るべき行動に移った。
範囲超拡大の“静穏”だ。しかしこちらの魔法はアデルが期待したほどの効果は上がらなかった。
兵士達こそはっと我に返ったが、そこから行動に戻るにはもう1クッション何かが必要である様だ。頬を叩かれるなり、身体をゆすられるなり何らかのショックが必要そうだった。
さらに、対象無差別で効果があるかと期待したゴブリン達にはこれには効果がなかった……或いは、オーガの恐喝の方が上だったか、ゴブリン達の動きは止まらない。
さらにさらに悪いことに、狂乱の不協和音に当てられた住民たちが、襲撃に備え門戸を閉ざして待機していた筈の住民たちが一部外に出始めあちらこちらで騒ぎ始めてしまう。
襲撃の恐怖にネヴァンの声が届き増幅され、理性的な行動を妨げてしまっているのだ。
こうなると、門内の後詰の兵士たちはその対応をも迫られることになる。門を塞ぐべく詰めていた兵たちの数が内側から削られてしまう形だ。
恐怖に対する訓練をある程度受けていた兵士たちですら足をすくませてしまう状態だ。何の訓練も受けていない市民らに耐えろというのも難しい。市民ら相手にいくらアリオンが怒鳴ろうが諭そうが全く効果は上がらない。こういう時、徴兵制度がなく軍務経験が全くない者が多いコローナは弱いと言えるかもしれない。
そんな中、マリアンヌの魔法とアリオンの怒声で東門の外にいた者たちはある程度我に返る事が出来た様だ。状況関係なく押し寄せてくる妖魔の群れを見て慌てて門の中へ逃げ込もうと殺到する。
「落ち付け!門の内は大丈夫だ。落ち着いて門を通れ。遠距離部隊、支援しろ!」
アリオンの怒声が響く。
「ネージュ。ラウル達の支援だ。殿下、まずは“静穏”をアンナ単体にお願いします。」
ネージュとマリアンヌはすぐに行動に移った。
ネージュは門への撤退の殿的な動きをするラウル達の脇に降り、その一角を請け負う。
マリアンヌはすぐに、効果の安定している筈の本来の単体向けの“静穏”をアンナに掛ける。
そこでようやくアンナの目に光が戻った。
「大丈夫だ。落ち付け。だけどすぐ次が来るかもしれん。光で対抗する魔法はないか?」
アデルはアンナの腰を抱く力を強めてそう言う。
「思い当たりません……とりあえず、“魔法障膜”でしょうか?」
「“不動心”の方が良さそうだけど……こちらも“精神抵抗”を使ってみるわ。」
アンナにマリアンヌがアドバイスを行う。そしてマリアンヌは己の言葉そのままに、“精神抵抗”の魔法をアデルとアンナ、自身とブリュンヴィンドに掛けた。
アンナの方は『不動心?』と首を傾げるのみだ。恐らくは正規の光の精霊魔法にはそのような魔法があるのだろう。しかし、アンナの精霊魔法は独自の物で、通常の体系化された魔法とは違う。
「正規に確立された精霊魔法にはそういうのがあるんだろう。すみません。アンナの精霊魔法は半独学と言いますが、大系にない魔法ですので……あとでネージュにもお願いします。」
アデルがアンナとマリアンヌにそう声を掛ける。
その言葉にマリアンヌは少々驚いた様だが、『分りました。』との答えが返ってくる。
「ラウル!お前たちももう戻れ!次の段階だ!」
「しかし!せっかくの援軍を――くっ……」
見殺しにするのか?
ラウルはそう尋ねようとしたが言葉を飲み込んだ。
この状況ではすぐに門を閉じないとただでさえ恐慌状態の門の中、都市内部が大混乱になりかねない。
嘗ての英雄として門を預かっているアリオンにその言葉を投げかけるにはあまりにも無責任か。ラウルはそう判断し、唇をかみしめてアリオンの指示に従う。
ラウルが動いたことにより、彼らのパーティの動きは決定した。味方の遊撃が門に逃げ込むのを確認し、自分たちも門を潜る。この時点で少し離れた位置にいたイスタの増援を除き門の外にいるのはネージュだけだ。しかしネージュなら門が閉じられようがその上から撤収することができる。
この時点でアリオンたちの作戦は完全に崩壊していた。




