英語教材に人生を変えられた話
ほんの短い言葉が誰かの人生を変えることは、結構ある。
だけど、それが塾で使う英語のテキストっていうのは珍しいんじゃないだろうか。
僕がその文章を目にしたのは、中学一年の時のことだ。
とても簡単な会話文だった。
“Am I happy?” “No, you aren't.”
最初は、馬鹿な文章だと思った。
無闇に後ろ向きだし、言っていることが無茶苦茶だ。
だけどそのうちこう思った。
この問答は、ありふれた、いつでもどこでもされているものなんじゃないかって。
いつだって、自分以外の何かによって、幸福が規定されているんじゃないかって。
声には出さない形で、だけれど。
その日から僕は、自分の幸福が分からなくなった。
みんなが言う幸福が、自分にも当てはまるのかが分からなくなった。
そんな人間は目的が持てない。
始終不安がつきまとっている。
僕は英語のテキストに人生を狂わされたんだ。
♢
そんな話をして部長の顔を見ると、彼女は、何言ってんだこいつ、という表情をしていた。
「あれだね、君はすっごくめんどくさいやつだ。その英文も珍しいけど、そんなこと思いつく君はもっと珍しいよ」
と、部長。わりと傷ついた。
我らが文芸部の女傑たるところの彼女は、いつもなかなか手厳しい。
「ひどい。共感してくれると思ったのに。共感、大事ですよ。コミュ力ないと思われちゃいますよ」
なんて恨み言を言ってみると、呆れたようにため息を吐かれる。
完全にかわいそうなやつを見る目だった。
「君はコミュ力が低いから分からないかもしれないけど、『わかる』『それな』『あーね』とか言ってればコミュ力高い訳じゃないんだよ。むしろ、君の分かりにくい話をかみ砕いて私見まで述べてみせた私は、相当コミュ力高いね」
ぐうの音も出ない。
やっぱり部長は手厳しい。
「それで、君は結局何が言いたかったわけ?」
「つまりですね、英語のテキストのせいで、僕は灯台を失ったんですよ」
「灯台?」
「一般的な幸福の形ってやつは、皆を幸福へと導く灯台みたいなものなんじゃないかと思うんです。誰だって、自分が本当に求めているものが何かなんて分からない。だから目安として、多くの人が選んだ例がいくつかある。そこを目指せば幸福になれる可能性が高い、みたいな」
「ふむ」
「でもそれって所詮可能性じゃないですか。てんで見当違いなこともあると思うんですよね」
「なるほど」
「そんな感じです」
僕が話を締めると、部長はしばらく頷いた後で、
「君は意外とポエミーなやつだね」
と評した。そう言われると、なんだか恥ずかしい。
「そういえば、何で『詩的』って言われると誉められてる感じなのに、『ポエミー』だと馬鹿にされている感じになるんでしょうね?」
「別にそんなつもりはなかったんだけど。得難い才能だと思うよ。文芸部としては」
「それはどうも」
フォローされると逆に辛いこともあるのだが、どうやら部長は本気で言っているようだった。
素直に受け取っておく。
「まぁ、それはいいんですよ。ここまでは前置きです」
「長くない?」
「話をまとめるのって苦手なんですよ」
「文芸部としては致命的だね」
「面目ない」
「まぁいいや。それで?」
僕は話を続けようとして、確認しなければいけないことがあったのを思い出した。
「そういえば、今日って他の人は来ないんですか?」
「本当に話がまとまらないね。いつも通り、誰も来ないと思うよ」
それは良かった。
これで余計な気兼ねはしなくていい。
「じゃあ本題に入りますよ」
「なんなんだ……」
「僕はですね、自分の考えていた当たり前の幸福に、自信が持てなくなったんですよ。自分の感覚だけで幸福を探さなきゃいけなくなった訳です」
「ふむふむ、それで?」
「それから僕は、自分の最も幸福な瞬間を意識するようになりました。そして気づいたんです。最近は、部長とこうして話している瞬間が一番幸せだって。でも、まだ目指すべき場所があるってことにも」
「んん?」
「要するに、僕は部長が好きで、できることなら交際したいと思っています。どうですか?」
「……え?」
一気に言いきって、部長のほうを見る。
彼女は戸惑っている様子だった。
珍しい光景なので、ぼーっと眺めていると、
「え? じゃあつまり君は、ずっと告白の理由を説明してたの?」
と聞いてきた。
「はい。だって訳も分からず好きだって言われても、怖いじゃないですか」
「えー……」
何だか引かれているようだ。
「仕方ないじゃないですか! 僕だって初めてなんですよ! ノウハウなんて無いんですよ!」
「それ以前の問題だと思うけど」
力強く逆ギレしてみたが、冷静に返される。
というか、告白の場で逆ギレしている僕はなんなんだろう。
少し落ち込み始めた僕を見て馬鹿らしくなったのか、部長が苦笑した。
「君はやっぱり変わっているね。いつもピントのずれたことを言ってるし、発想が普通じゃない。話をまとめるのも本当に下手だ。あんな詳細な理由説明――それも好きになった所じゃなくて、なぜ告白に至ったか――から入る告白なんて聞いたことがないよ」
「はぁ……」
普段から変だと思われていたのか……
「でも考えてみると、君と話す時間は楽しかった。君の変わっている部分も、別に悪いところじゃないと思っている」
「じゃあ……!」
「そうだね……」
そして部長は小さく微笑み、返事をした。
文字にしたらほんの数文字のその回答は、もう一度僕を変えた。
まだ1つだけだけれど、僕は確かに、僕自身の幸福を発見した。
これからも僕は、自身の幸福を探していく。
また新しい幸福を見つけたとき、そばに彼女がいてくれたらいい。
それを繰り返せば、僕はあの問いに、自分自身で、答えることができるだろう。
“Am I happy?” “Yes, I am.”
冒頭の英文は、中学時代のテキストに本当に載っていました。