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「ベルゼビュート、待て!」
アイリーンに手が届く前に、ベルゼビュートが止まった。
思った通りの流れに、ほくそ笑む。――ここでヒロインであれば、大人しくベルゼビュートにつかまり、空を飛ぶという貴重な体験をして家まで強制送還させられるのだが、別に選択肢があるわけでも好感度にかかわる展開でもないので、大丈夫だろう。
(むしろ脚色していかないと。わたくしを愛してもらわなければ意味がないんだし)
ベルゼビュートを止めたクロードが、眉を少しひそめる。
「なんの真似だ」
「家に帰るならば、自分で帰ります。婚約者でもない殿方に抱かれて空を飛んで家に戻すなんて、わたくしの悪評をさらに広めるおつもり?」
「殿方?」
ベルゼビュートが自分の顔を指して怪訝そうな顔をしている。浮かせた腰を椅子に戻し、クロードが言った。
「普通に帰そうとしただけだ」
「いやクロード様。ベルゼビュートさんに抱かれて空から帰るのは普通ではないですよ。おうちの方が卒倒しますって」
「……。分かった、考慮するからその剣を戻せ。心臓に悪い」
「お優しいんですね」
無表情のクロードに、微笑んでアイリーンは剣を元に戻す。キースが顎に手を当てた。
「評判はあれですが、度胸のあるお嬢さんですねえ。……ドートリシュ公爵家といったら王家とも繋がりがある大貴族だし、確か聖剣の乙女の血もひいてるんですっけ。これを逃す手はないかも……」
「キース、無駄話はやめろ。……とにかく君の話は却下だ。帰ってくれ」
ぽんと両手を叩いてアイリーンはにっこり笑った。
「求婚に『はい』と言っていただければわたくし、帰りますわ。簡単でしょう」
「だからそうなる意味が分からない。君と僕は初対面だろう。なのに、どうして僕と結婚したがるんだ。――その」
表情は変わらないまま、クロードが言い淀んだ。
ふわっと部屋の中にそよ風が吹いた気がして、アイリーンはまばたく。
「――君は、僕が、好きなのか?」
「いいえ?」
きょとんと返すと、返事の代わりに部屋の中で強風が巻き起こる。
慌ててキースがクロードをなだめにかかった。
「ク、クロード様落ち着いて! 竜巻は勘弁してください!」
「じゃあ一体なんなんだ……!?」
「王よ、心情をお察しする」
「だって初対面でしょう」
「初対面で求婚してきたのは君だろう! 大体、セドリックに婚約破棄されたばかりでよくもそんな破廉恥な真似が――」
ぴたっと風がやんだ。
アイリーンがクロードの鼻先に剣を突きつけたせいだろう。冷静になったのだ。
主君に剣を向けられているのに、ベルゼビュートもキースも涼しい顔だ。それはそうだ、アイリーンなど、クロードが本気になれば一瞬で消し炭にできるに違いない。
それでもアイリーンの矜持にかけてこれだけは言わなければならない。
「では、わたくしにめそめそ泣いていろとでも? 冗談ではありませんわ。あんなゴミ屑男のためにわたくしは人生を一秒たりとも無駄にする気はありません」
「……ゴミ屑。ずいぶん手厳しくなるんだな」
「ええ。女は恋を積み上げるものです。わたくしは、あなたを愛すると決めました。さあ、愛を育みましょう」
「剣を突きつけてか?」
冷めた目のクロードに、アイリーンはできる限り美しく微笑んだ。
「愛していると言い続ければ、その内本当になるらしいですわ。試してみません?」
「なるほど」
少しも抑揚のない声で応じたあと、クロードが手を伸ばしてきた。思わず剣を胸に抱いたアイリーンの肩から落ちた髪を、そっと長い指がすくい、赤い瞳が怪しく眇められる。
「つまり君は、魔王を口説きにきたと?」