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婚約者にふられた衝撃で前世の記憶を思い出しました。
こんなことを口にすれば、過保護な兄たちに医者を呼ばれるか、母から修業が足りないと訓練に駆り出されるのがオチだろう。
だから昨夜、婚約を破棄されみじめに帰ってきてからは、ひたすら一人で状況の整理をした。気分が悪いので食事はいらないと言えば、さすがに婚約破棄のショックでふさぎこんでいると思われたのか、家族も今後の話は落ち着いたらと控えてくれたのは幸いだ。
おかげで、人目に触れずに外出するのも簡単だった。深夜とはいえ、屋敷から抜け出すのにいつも手強いのは、ドートリシュ公爵家の優秀な使用人達である。そっとしておきましょうという言葉が今回ほど役に立ったことはない。
そもそも、今の自分が魔王の城に向かったなんて知られればますます悪評が立つ。
(お兄様達もわたくしには甘いけれど、容赦はしないものね。お父様はあれだし)
わたくし――アイリーン・ローレン・ドートリシュ。
それが今の自分の名前だ。エルメイア皇国の最大貴族、王家とも血のつながりがあるドートリシュ公爵家の一人娘。父は宰相、母は皇太后の姪であり社交界と軍部で一目置かれる公爵夫人。加えて兄が三人いるという家族構成である。
末っ子で一人娘のアイリーンは大事にされて育った。特に兄達の溺愛ぶりは有名だ。だがアイリーンは知っていた。それは自分が女で兄ほど優秀でもなく、決して敵にならないからだと。
のけ者の気分だった。だがどんなに勉強しても三人の兄はそれぞれ優秀で、どの分野でもとても追いつけない。ふてくされるアイリーンに、母は何度も諭した。女性には女性の戦い方があると。
アイリーンがそれを理解したのは、八歳の時。セドリック・ジャンヌ・エルメイアというまごうことなき皇子様に跪かれ、婚約を申し入れられた時だった。
有り体に言って舞い上がった。セドリックはとても素敵で、彼に必要とされると思うだけで自分に特別な価値が付加される気がした。
彼に嫁ぐならアイリーンは皇妃になる。皇妃という名前の特別な臣下になるよう、父親に言われた。それはアイリーンが初めて与えられた家からの期待でもあった。
礼儀作法にダンス、教養は経済から帝王学まで彼の助けになるべく、自分に叩きこんだ。自分が賊に襲われたなどの事態も想定し、足手まといにならないようひそかに剣の腕まで磨くという斜め上の努力もした。
色々できるようになると、セドリックが頼ってくれる。皆もほめてくれる。それが嬉しくて楽しくて、また頑張る。
それを繰り返しをしていたら、いつの間にか「皇太子の婚約者という立場をかさに偉そうに指図する傲慢令嬢」になっていた。
もともと兄と張り合おうとするほど、負けん気が強くて強情だった。正しいと思ったことは譲れないし、言いたいことは言う性格がよく誤解を招いた。君のことならちゃんと分かっているなんてセドリックの上っ面の言葉を信じて、周囲をおろそかにしたのもよくなかった。
気づいたら学園一の嫌われ者になっていて、理解者だと思っていたセドリックからまさかの婚約破棄だ。
もう少し可愛い態度を取ってか弱い女の子を演じていれば、また違ったのだろう。今のアイリーンはほんの少しだけ、客観的にそう思うことができる。
というのも彼女が、どんなふうに思われていたかをゲームを通じて知ったからだ。
(我ながら、自分が他人からどう見えるかを気にしてなさすぎたわ……かと言って、今更直せもしないけれど。いくら前世の記憶が蘇っても、ねえ)
そもそも自分の前世についても、夢の断片のようにしか思い出せていない。
場所は日本というここよりはるかに科学も文明も発達した国だった。だが病弱で一年の大半をベッドですごし、青春も謳歌することなく早世したため、そもそも思い出があまりない。ただ、一番強く覚えている感情が「青春エンジョイしたかった、できれば乙女ゲームみたいな恋希望」なので、重度の乙女ゲーマーだったことは確かだろう。
その中でも『聖と魔と乙女のレガリア』はやりこんだゲームだった。聖剣の乙女の伝説が残る、エルメイア皇国という西洋風の架空の国が舞台のゲーム――今のアイリーンが生きているこの世界そのものだ。
ゲームの中でアイリーンという人物は、攻略に高いパラメーターを要求される正当派ヒーロー・セドリックの婚約者だ。そして公爵令嬢という身分の高さを振りかざし取り巻きを引き連れヒロインの恋路を邪魔する、典型的な悪役令嬢だった。庶民上がりで貴族の子息達が通う学園に入ったリリアにからみ、嫌がらせをしかける。そしてセドリックの攻略が進むと、セドリックに愛想を尽かされ、婚約破棄を言い渡される。
ゲームの中の話なら笑えるが、現実でアイリーン本人だと笑えない。
さらに最悪なことにこの先、アイリーンはどう転んでも死ぬ。
セドリックのルートはいわゆる正規ルートで、ヒロインのリリアは聖剣の乙女の生まれ変わりであることが分かり、やがて救国の聖女になるのだが、その前に聖剣の乙女が倒すべき敵、ラスボスとして魔王が目覚めるのだ。
その魔王が、アイリーンがたった今、結婚を申し込んだ人物だ。
クロード・ジャンヌ・エルメイア。ゲームの知識が正しければアイリーンより七つ上の二十四歳。セドリックの異母兄であり、本来ならエルメイア皇国の皇太子は彼だった。
だが彼は、聖剣の乙女が残した言い伝え通り、魔王の生まれ変わりの証である赤い目を持って生まれ、人間では扱えない魔力を自在に操る。伝え聞いた話では、彼の逆鱗に触れるとどこからともなく魔物の大群がやってくるらしい。何より魔物に好かれ、魔物は彼の命令ならば命も投げ出す。これが魔王でなくてなんなのか。
幼いクロードは何度も殺されかけたが、その度に魔物達が彼を守り、手も足も出ない人間はクロードの皇位継承権を剥奪し、廃城に幽閉し、存在を無視することで妥協した。
そんな彼は大体のルートで魔王として覚醒し、ヒロインとその攻略キャラの前に立ちはだかる。あるエンディングでは国を滅ぼし、あるエンディングではリリアの中から取り出された聖剣によって斃される。そしてアイリーンはそのどさくさの中で死ぬのだ。
魔王となったクロードが放つ光線にじゅっとやられることもあるし、魔王復活の儀式の生贄になったりもする。ひどいとナレーションで死亡することもある。アイリーンは婚約破棄までが最大イベントで、その後の処理がめんどくさくなったというスタッフの意気込みが透けて見える扱いだ。
(そりゃ殺しとけばユーザーから文句は出ないでしょうけれど!)
殺される方はたまったものではない。アイリーンだって可哀想だ――確かに彼女の振る舞いにも問題はあっただろう。
でも本当にただ一人、その人が全ての諸悪の根源だったなんて、ゲームの中だけの話だ。
そう思ったあたりで、意識がゆらゆら揺れた。声が聞こえるせいだ。
「……それで何故、人間の娘を王が介抱している?」
「他意はない」
「私は安心しましたよ、皇太子たる者、女性には優しくしておきませんとねぇ」
声は三人分、全員男性だ。
(確か、魔族側の従者と人間側の従者がいたから……スチルだと二人とも美形……)
半覚醒のままで、アイリーンは知識と現実をすりあわせる。
「何が皇太子だ。この方は魔王だ、人間ごときを相手にすべきではない」
「この方はエルメイア皇国第一皇子です。私は諦めてませんよぉ。いずれきちんとしたご令嬢を娶って、温かい家庭を築いていただくんですから!」
「――キース。僕にそんな気はないと何度言わせるんだ」
そうだ、人間側の従者はキース。魔王の幼馴染みでもあり、栗色のくるくるした癖毛が印象的な、穏やかな面差しの青年だ。小さい頃、魔王に命を助けられたエピソードがあり、人間から迫害されてもクロードに付き従っている。
「ですがこの方、クロード様に結婚を申し込んだんでしょう。噂はよろしくないご令嬢ですが、クロード様を選んだ点においてだけは評価できますよ」
「それだけだろう。人間の女を飼うのが王の望みだというのなら、用意するが」
「そんな用意はしなくていい、ベルゼビュート」
ベルゼビュートは魔物側の従者だ。まっすぐな長髪と陶器のように冷めた美貌は、醜悪な魔物より悪魔と言われた方が納得する。彼は魔王であるクロードに仕える者で、まさしくクロードの命令なら何でもきく。
「大丈夫ですよ、クロード様。なあに、少々評判がアレでもこの城に入ったが最後、私めがきちんとクロード様に相応しい嫁に教育し直しますので」
「だからしなくていいと言ってる、キース」
「では人間の女を飼う準備を、我らが王」
「どうしてお前らは僕にそう女性をあてがいたがるんだ……?」
「ですが王は怒っておられない。あの雷は動揺で落とされたものだ」
ベルゼビュートの言葉に、咽せる音が聞こえた。キースが相槌を返す。
「そうですねえ。クロード様が怒ると、地震だの噴火だの被害が半端ないですから。本気でキレたら竜になっちゃいますし……私めを置いて魔物になっちゃわないでくださいよ」
そうか、あれは怒りの稲妻ではなく動揺の雷だったのか。てっきり自分に狙いを定めて殺しにきたのかと思った。
少しだけ安心して、アイリーンはそっと目を開いてみる。
思った通りというか、スチル通りの光景がそこにはあった。