またの機会に(アシュメイル夫妻の場合)
Twitter掲載SS:加筆修正版
「遅くなってすまぬ。ただいま戻っ――」
後宮に『戻って』くるようになった夫の挨拶が途中で途絶えた。
夫が戻ってくるまでに就寝の準備を終えてくつろいでいたロクサネは、首をかしげる。
「なんでしょうか、バアル様」
「……」
バアルは両目を見開いたあとで、何やら気難しい顔になる。
夕食はすませてくると聞いていたのだが、何か手違いがあっただろうか。すでに大分遅い時間だ。もちろん正妃の宮殿なので、呼べば宮女もいるだろうが、後宮のあり方を変えようとしている今、数は少ない。
最近のバアルは宮女の淹れるおいしいお茶よりもロクサネが淹れたお茶を喜んでくれるので、今から何かしら動くのはやぶさかではないのだが。
「本日はもうお休みになられるだけとおうかがいしておりましたが」
「ああ、それは……そう、なのだが」
「では、何かやり残したことでも?」
「いやそうではない」
きっぱりと言い切ったバアルが寝台に向かい、ロクサネはほっとする。手違いはなかったらしい。
だが、バアルは厳しい顔のまま、ロクサネを手招いた。
「そこに座れ。確認したいことがある」
寝台の上で改まった夫の声はいつになく真剣だ。
ロクサネも寝台の上にあがって居住まいを正し、向き直る。
「なんでしょうか、バアル様」
「余とお前は夫婦だな」
何を当然のことを言い出すのかとロクサネはきょとんとしたが、きちんと答えた。
「はい。わたくしはあなたの、聖王の正妃です」
「そしてこの間、両思いというのになったのも間違いないな」
正面から問いただすのは破廉恥ではないかと思ったが、バアルの声がどこまでも真剣なので、真顔で応じた。
「はい。そのようにわたくしも記憶しております」
「では、これはなんだ」
バアルが人差し指でさしたものに、ああとロクサネは頷く。
「境界線です」
ふたりで寝てもまだ広い夫婦の寝台の真ん中あたりに並べたクッションの壁を、ロクサネは端的に表現する。
同じものを見つめてバアルがつぶやいた。
「やはり境界線か」
「はい。ここ三日ほどよく考えた末で作りました」
なるほど、これがバアルを驚かせたわけか。妙に納得したロクサネの前で、バアルがふっと口元をゆるめた。
「そろそろ叫んでもよいか。いったい何をよく考えてそうなった!?」
「夜の生活について。あけすけに言えば、あなたとの夫婦生活についてです」
ロクサネの答えにバアルがおそろしくひるんだ顔を見せた。
勢いをなくして寝台の端に姿勢を正して座り、慎重に尋ねてくる。
「……な、何かその、不備があったか」
「いえなにも。というか比較対象がないので検証のしようがございません。回数もまだ三回ですし」
「で、ではなぜそうなった。つまり、その、これは、余を拒んでいるということだろう」
「そうですね、危険ですので」
「危険!? そ、そこまで無理は強いてないはずだ。むしろまだ初心者向けの、こう……余はこれでも精一杯お前の体を気遣って」
「存じております。ですが、あんなことを続けられてはわたくしが駄目になります」
なにやら一生懸命言い訳をしようとした格好のままバアルが止まった。
「……は? 駄目……とは」
「バアル様。正妃というのはあなたのことばかり考えていてはつとまらないのです」
ぽかんとするバアルに、ロクサネは淡々と言い聞かせる。夫はたまに察しが悪い。
「あのようなことを毎晩続けられてはわたくしの頭がどうにかなってしまいます」
「どうにか……」
「バアル様も悪いのです。わたくしが淫乱になったらどうするのですか」
「……」
「ですので、今夜は眠るだけで。子作りはまたの機会になさってくださいませ」
両手で顔を覆ったバアルが、唸るように繰り返す。
「またの機会……」
「はい。勘違いしないで頂きたいのですが、わたくしには正妃としてあなたの子をなす義務があるのは理解しております。ですが問題が発生した以上、ひとまず距離を置いて対策をとるべきでしょう。ですので境界線を作りました。しばらくこちら側には入ってこられませんよう――あ」
ぽいっとクッションの壁が投げ捨てられた。
妙に据わった目をしたバアルが、せっかく作った境界線を蹴散らしてこちらにやってくる。
「お前、たまに馬鹿だな?」
「いけません。わたくしの話を聞いておられましたか。またの機会にと」
「何がまたの機会だ、そんな理由で納得する男がどこにおるか!」
叫んだバアルに腰を抱き寄せられて気づいた。怒ったような難しい顔をしているバアルの頬が、少し赤い。
意味もわからずそれにぼうっと見蕩れている間に、口づけられた。まだ慣れない、されるがままになってしまうだけの行為。
「今、余計にどうにかしたくなるだろうが」
熱い吐息まじりに宣言されて、ロクサネはとりあえず自分が間違ったことを悟る。
ということは何か別の策を考えなければいけないのだが、それこそ「またの機会に」になりそうだった。




